三、驕れる者久しからず

 鬱蒼と覆う曲がりくねった木が並ぶ。ここ、乙女山の麓に「水天宮」と書かれた古い木造の鳥居、その右には「天疫てんえき神社」と刻まれた石碑と石造りの鳥居が、緑豊かな山の入り口にあった。どちらもこじんまりとしたもので、隣り合って建っている。神社の周囲にはツツジが咲き、淡いピンクが彩りをもたらす。

 仁善と将海は水天宮の鳥居を見上げ、立ち尽くしていた。

「なんだろう……急に別世界的な。これが山か、っていう感覚……」

「語彙が消えたなー将海。だがまぁ、分からんでもない」

 木漏れ日が差す境内を覗くも、整備された神社とは違って枯れ葉が多く、奥へ向かうに連れて緑は黒へと変わっている。特に、水天宮の辺りは昼間でも暗がりを帯びており、鳥居からすぐに海御前の碑が窺えた。

 仁善は一歩、鳥居に足を踏み入れた。「あ、待って」と将海が後に続く。

 顔を覗かせてゆっくりと枯れ葉を踏みしめたら、シャリシャリと小気味良い音がする。ただ、静寂に似つかわしくない。

 碑は石を積み上げたような形状で、将海の身長よりも僅かに低いくらい。全長150㎝ほどか。ゴツゴツと細長い焦げ茶の石碑には「海御前様」と刻まれている。

「わっ」

 碑を見ていると、将海が唐突に声を上げた。息を飲むような声に、仁善は身構える。

「あぁ、あれが河童の像か」

 彼女の視線を辿ると、と目が合った。いや、正確には目を合わせた。

「びっくりしたぁ……本物かと思った……」

「いや、あれ、だろ」

「え……」

 将海はすぐさま顔を強張らせる。見るからに硬そうで頑丈な石で出来た河童の像は台座にあぐらを掻いて、赤いちゃんちゃんこを着せられている。それが、こちらを見ている――気がするのは、仁善の言葉のせいだろう。将海も仁善も息を潜めてそれを見やった。

 一歩ずつ、地を踏むたびに体感温度が変わる。汗ばむほどの気温だったのに、神社の中はひんやりと冷たい。冷たさが肌をさわると、その静けさと相まって胸の鼓動が早くなるようだった。

 仁善は目を凝らした。しかし、細めた両眼では何も捉える事が出来ず、彼はベストの胸ポケットに差し込んでいた眼鏡を取り出した。

「……何か視える?」

 囁くように将海が訊く。すると、仁善は眼鏡の奥にある双眸を開かせて息を吸った。

「――貴女が、海御前さま、ですか」

 将海の問には答えず、彼もまた囁くように問う。

 その瞬間、はたと視界に映るのは面長の青白い顔をした女――着物を揺らめかせ、河童の頭に鎮座している。彼女は片瞼だけを持ち上げた。ふっくらとした唇を開く。

《――よくぞ見破った。私こそが海御前と言われたる者》

 膨らんだ涙袋を歪め、彼女は笑みを浮かべて言った。クツクツと押し殺すような笑いを袖で隠している。

 仁善は「ほう」と一息ついた。

 傍らでは将海が仁善の腕を力強く握っている。仁善の近くにいるからか、彼女にも視えたのだろう。鮮明にとは言わずとも、風にたなびく雅な姿を前にして畏れを抱かないはずがない。

「ふむ……では、やはりここが棲家だと。そこに、貴女の碑と墓がありますし、言い伝えは本物だったわけですね」

 そう言いながら仁善は、おもむろにボストンバッグからあの木箱を取り出した。それを見つめながら、海御前は袖の奥で呟く。

《他所の者が訪れるのも久しい……私の眠りを醒ますとはまた面白きこと。そなたら、何者ぞ》

 厳かにも、彼女は愉快な口調である。対し、仁善は無感情で返す。

「大した者ではありませんよ」

 そして彼は「不躾で申し訳ありませんが」と続けた。古びた紙を掲げる。

「これに覚えはありませんか」

「不躾にも程があるわ……」

 将海は思わず呆れて言った。

 鎮座する海御前は仁善の様子を調べるように眺めた。無愛想な男に不快を示すようであるが、彼の持つ紙には目を向けてくれた。しかし、

《存じませぬ》

 素っ気ない言葉が戦慄いた。それはどうにも悪戯めいた節がある。だが、それを鵜呑みにする仁善ではない。彼は天を仰ぐように首をもたげた。

「そうですか……困ったな。いや、私、実はこういう者でしてね……えーっと、あぁ、あった」

 バッグの奥に押し込めていた革の名刺入れを出す。そして、もう一歩踏み出し、海御前に一枚の名刺を掲げた。

《れいばいどう……?》

「そう、霊媒堂。雑貨屋を営んでおりましてね。まぁ、貴女のような人ならざるものを視ることが出来るというだけなんですが。覚えがありませんかね? 関門海峡で何者かに出会った、とか。あぁ勿論、合戦の後ですが」

 つらつらと言葉を並べ、投げかけると雅な古人は益々不機嫌に顔を歪めた。

《存じませぬ……が、海峡にて何か異の者に出くわしたと云うのは……あぁ、もしやと思い当たるものが一つ二つ》

 気乗りしない素振りの彼女は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。そして、口の端をつりあげて笑った。

《浦へ行くと良い。ここよりも更に向こう……忌まわしき海峡よりも静かな海に。私は未だ眠りとうございますゆえ。さすれば、我が同胞が誘ってくれることでしょう》

 穏やかな声音は表情にそぐわない。下弦の月の如き眼からは、悪意か善意か読み取ることは出来ない。

 こちらの返事も待たず、海御前はゆるゆると欠伸をし「では」と深々に頭を下げて消えた。途端、溢れるような水泡が辺りにはじけ飛ぶ。

 唐突なことで、身構えていなかった。塩辛い水を頭からかぶってしまい、二人は思わず仰け反った。

「仁善ぃ……」

「俺のせいじゃない」

「いや、あんたのせいだわ。絶対、怒ったよ海御前さま」

 しかし、仁善はどこ吹く風。僅かに湿った古めかしい文を折りたたみ、木箱に仕舞う。

「浦、と言っていたな。門司港の反対にも海があるのはあるが……大積海岸ってとこかな。行ってみよう」

「えぇ? 本当に行くの? やめたほうが良くない?」

 将海は思わず声を上げた。風もない静けさの中に浮かぶも構うことはない。そして、仁善も今や涼しい顔で眼鏡を外してポケットに仕舞っている。彼はバッグを肩にかけ直すと、将海の言葉を無視してクルリと踵を返した。

「え、行くの? マジでもう行くの? ねぇ、仁善ってば!」

 将海は河童の像の奥にある小さな祠を見やり、その奥にもある暗い緑まで見つめ、また河童を見、挙動不審に首を回した。まだ社も見ていないというのに、彼の気の早さに追いつけない。

 将海は慌てて地を蹴り、仁善の後を追った。


 ***


 大積海岸までは徒歩で向かうことにした。もと来た道を戻り、地図アプリの表示に添って行くと、山が一気に消え去って海が見渡せる。上空から見ると細長い陸が二本伸びており、入江となっている場所だ。海岸は人の手が入っておらず、門司港とは打って変わって自然豊かに長閑な景色が一望できた。

 仁善は地図を仕舞い、早速海岸を踏んだ。

 恐れを抱いていた将海だったが、潮風に当たれば気分は変わってしまうもの。ゴロゴロと固い海岸を歩く仁善を見やった。

「うわー……海岸に立つスーツ……似合わないわぁ」

 スラックスにシャツ、ベストというスタイルを崩さない仁善の姿は、海ならず山にも馴染めない格好であると将海は苦笑した。仁善の前では絶対に言わないでおく。

「て言うか、あいつ暑くないのかなー」

 後を追いかけながら呟いた。将海は涼し気に肩を出したオフショルブラウスとタイトスカートのスタイル。海岸では浮かない自信があった。

 陽は高くなり、気温も上がる。

 しかし海辺は風が大きく彼らを煽いでいく。将海は長い髪を掻き上げながら、仁善を追いかけた。

「ちょっと、もう少しゆっくり歩いてよー! 歩幅でかすぎ!」

 文句を垂れても仁善は構うことはない。言ってるうちに無駄だと悟り、将海は頬を膨らませながら足場の悪い海岸を行く。

 その時、風が一層大きく吹き荒れた。思わず目をつむる。その際、「きゃあ」と小さく悲鳴を上げて顔を腕で覆った。

「今のすごい風……あぁ、もう髪がぐしゃぐしゃになるぅ……」

 空を睨み、重く波打つ水面に目を落とす。

 碧に濁った海原と水色の空は目にも優しい色合いだが、黒い浜によって少しの不気味さが立つ。

 入り組んだ細長い海岸の先にいるはずの人物がことに気がついてしまえば、一層の不安が掻き立てられた。

「え……? 仁善、どこ……」

 彼の姿はどこにもない。ぐるりと見渡せども、辺りは海。海の中心に立っている。

 ざらっと、波が浜を撫でた。

 その潮風は冷たく、彼女の腕を舐める。粟立った腕を抱いて将海はもう一度、仁善の名を呼んだ。しかし、その応えはない。

「え、嘘。やだやだ。ちょっと、待って。なんで、どうして……」

 黒い浜辺で将海は言う。口が勝手に動き、胸の内に広がる不安を吐き出そうとするも、それは段々と募る一方で無意味だと気がついた。

 スマートフォンを取り出して、仁善の番号に電話を入れる。しかし、幾ら待っても繋がることはない。将海の焦りは更に高まる。

「あぁ、もう! 落ち着け、将海。仁善は大丈夫よ……」

 そう。彼なら大丈夫だ。

「確か式紙しきがみがあるから……そのうち連絡がくる、はず、だよね……」

 だが、一人取り残されるとどうしたら良いか分からない。

 ざらざらと波打つ水面に、眉を情けなく下げた自身の顔を映して溜息を吐いた。

「河童、か……物凄く怖かったなぁ……夢だけど」

 昨夜に見た夢を思い出す。

 海に身を投げた平安貴族たちが水妖へと姿を変え、人々を水の中へと引き込んでいく。ズルズルと、足を掴んで引きずり回す。泣いて叫んでも彼らはニタリと口の端を横へと伸ばし、強い力で意気揚々と水の中へ沈んでいく。真っ暗な水底へ、果てのない旅へと誘うのだ。

「誘う……って、そう言えば海御前さまが言ってたような」

 もしかすると、仁善は誘われたのかもしれない。妖怪のこととなれば周りが見えなくなるものだから、それは有り得る可能性だ。ただ、彼の場合は自ら関わりを持とうとするので、畏れなど持ち合わせない。

 将海はしゃがみこみ、途方に暮れた。

 その時、白い蝶が彼女の前にヒラリと舞い降りた。

 仁善の式紙だ。


 ***


 白旗と、笹に縁のある者は引きずってしまえ。海に、暗い水底へ、深く深く、我らと共に沈めてしまえ。

 この恨みを晴らすべく、陸でのうのうと暮らす仇どもを全て根こそぎ絶やしてしまえ。

 我らは磯に棲まう者。海御前さまの仰せのままに、水を介して捜し出す。

 ただ、闇雲に捜し引きずり込むのも面白くないもの。面白おかしく愉快に生きるべし。

 極めし栄華に則って、いついかなる時にも遊びを忘るな。

 時はあと数刻。

 春の訪れに湧き、己の力を奮わんとようやく解き放たれる。

 さぁ、同胞よ。その眠りを覚ます時。白き花が咲くまで海は我らに味方する。

「――だが、現し世は儚い。我らを忘れゆく者ばかりである。これにひいさまは嘆いておられるぞ」

 誰かが言う。

 現し世の儚さは身に沁みているはずだ。栄華は儚く散るのが運命サダメ。祀ることも忘れ、畏れをも忘れ、人の世は移り変わっていく。

 では、忘れさせなければ良いのだ。これを伝えていけば良い。途絶えさせてなるものか――


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