最終章 こころ

第29話 こころ

 病院のベッドに横たわっている悠伽は、とても穏やかな顔つきをしていた。

 自室で倒れているところを発見されて、この病院に救急搬送されたのだという。原因は服毒による中毒症状。すずらんを活けていた花瓶の水にふくまれた心臓毒だ。さいわい致死量ではなかったらしく、一命をとりとめたのだという。深い昏睡状態に陥っているようで、あれから一年がたったいまも、彼女は目を覚まさない。

 ひさしぶりに見る彼女は、六年前の面影を色濃く残していた。そしてそれはたしかに、あの動画で見た彼女の顔。すべてをあきらめた微笑みで、その手を生命の終わりに触れた顔。

 そっと顔に手を寄せる。まだ暖かい彼女の頰に、とくとくと鼓動が響いているような気がした。それに合わせるように、ピ、ピ、ピ、と心電図の電子音が鳴る。目を開くことなく、身じろぎもしない彼女が生きている唯一の証は、そんな感情のない無機質な音だった。

 もう彼女が口を開くことはないんだ。鈴の音が鳴るみたいにころころ笑うことも、俺の心を優しく撫でるように歌うこともない。ちいさな白い花が咲いた坂道を下るみたいな、心地よいアルペジオを爪弾くこともないんだ。彼女が最後に鳴らす音が、こんな渇いた電子音だなんて。

「あら。きょうは彼女、とても容態がいいみたい。なんだか顔色もいいわね」

 看護師が入ってきて、悠伽の顔をのぞき込んだ。

「……そうですか」

「ええ。君を待っていたのかしらね」

 看護師は微笑んで病室を出て行った。俺はふたたび悠伽に視線を落とす。

 そうか。こんなにも長いあいだ、君はここで待ってくれていたんだね。

「悠伽」

 俺もずっと君を捜していたんだよ。ずっと逢いたかったんだよ。あの日のあの夜、目の前で君を失ってから、俺はずっと君を捜していたんだ。

「……中学の同窓会に行ったんだ。俺はそれまでずっと引きこもってて、なにもかも気力がなくて。誘いが来たとき、さいしょは断ろうと思った。行ったってしょうがないって。だけど、心の奥底で、俺は求めているものがあったんだ。もしかしたら、それを、見つけられるかもしれないって。そしたら、悠伽、聞いてくれよ、だれがいたと思う?」

 無機質な電子音が返ってくる。それにかまわず話を続ける。

「奈津がいたんだ。ぜんぜん変わってなかった。同窓会に来てた俺を見てびっくりしてたよ。奇蹟だとか言うんだぜ、失礼しちゃうよな。あいつもあいつで、君を捜してたんだって。俺らってほんと、あのときから変わんねえよな。笑っちゃうだろ?」

 俺の渇いた笑い声が病室に反響した。

「いっしょに君を捜そうってなって、璃生と芙雪も捕まえたんだ。璃生のやつ、一丁前にたばこなんて吸ってやがった。想像できるか? 芙雪もあいかわらずよく食べるよ。どこにあんな入るんだろうなあ。あ、そうだ、あのふたり、おなじ大学に通ってるんだぜ。なんか怪しくないか? 俺は昔から怪しいと思ってたよ……まあ嘘だけど」

 かすかに開いた窓から、ふわりと春風が吹き抜けた。

「……俺たちがああやってまた集まれたこと、奈津はうれしがってた。あんなに簡単に離ればなれになったのに。なあ、悠伽。それもこれも、ぜんぶ君のおかげなんだよ」

 彼女がサイトに上げていた動画。それがきっかけで、俺たち四人はまた集まることができた。ぜんぶ君のおかげなんだ。ぜんぶ君のためだったんだ。みんな必死になって君を捜していたんだ。

 俺だって。

「ずっと逢いたかった。待たせてごめんね」

 そのあいだ、君はこんなにも苦しんでいたんだ。気づいてあげられなくてごめん。でももう大丈夫だよ。君を苦しめる人間はいない。なぜなら彼には天罰が下りたから。

 俺は悠伽の手を取った。彼女の手はまだあたたかく、春の陽だまりに包まれているような感覚がした。

「なあ、悠伽」

 彼女を呼ぶ俺の声は、情けなくかすれていたかもしれない。白いシーツに、ぽとり、ぽとりとしずくが落ちた。

「……俺たち、どこで間違ったんだろうな」

 悠伽は答えてはくれない。ただ虚しいだけの無機質な電子音が、乾いた病室の空気を震わせている。

「悠伽……はるか」

 俺は彼女の名前を繰りかえし呼んだ。涙は止まらなかった。止めようとも思わなかった。やさしい絶望だけが寄り添う世界のなかで、俺たちはふたりきりなんだ。

「また、君の声を、聞きたいよ……っ!」

 鈴がころころ鳴るみたいな笑い声。俺の心を優しく撫でる歌声。遠い記憶の彼方にあるはずのそれらは、はっきりとした輪郭をともなって俺の記憶に蘇る。もう忘れたりしない。彼女のことはぜんぶ。あのころのことは、ぜんぶ。

 でももう戻れない。俺たちはあまりにもたくさんのものを失いすぎた気がする。それらをこの手に取り戻すことはできない。悠伽との約束を信じて進むしかない。

 これまでも、これからも。

「そろそろ時間だ」

 俺は目をぬぐって立ち上がり、彼女の顔を見下ろした。「行こう、悠伽」

 君との約束を果たすときが来た。これが君の望んだ破滅なんだ。ほんとうに待たせてごめんね。

 俺は悠伽のきれいな首筋に両手をかけた。ゆっくりと、しかし確実に、両手に力を込める。彼女の心拍が乱れていくのがわかる。けれど俺は、両手の力を緩めなかった。あの日の君との約束を、心だけが憶えていたんだ。もう俺はなにも考えずに、ただ彼女との心のつながりだけを信じて、両手に込める力を強めていく。

 しだいに、悠伽の身体に入っていた力が抜けていくのがわかった。

 ふと彼女の口が動いた気がした。声は聞こえなかった。けれど、彼女はたしかに、俺に言葉をかけてくれたように思えた。

 ありがとう、と。

 悠伽の心拍が止まった。無機質な警告音だけが、漂白された真っ白な病室に響き渡る。これでいいんだ。これが、ふたりの望んだ結末だ。まるで心を殺すみたいに、俺は自分に言い聞かせる。彼女の心臓の鼓動も、俺のこころの感情も、ただゆっくりと消えてなくなる。

 やっぱり俺は、こんな約束は忘れたままでいたかったんだ。わざと忘れていたんだ。

 でももう忘れないよ。

 君のことはずっと、君のすべてを、ずっと――。

 悠伽。

 ばいばい。

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こころ、消えてなくなれ 音海佐弥 @saya_otm

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