第28話 やくそく

 建物の外に出る。極彩色の地獄を全速力で駆け抜ける。目的地はたったひとつ。そこで悠伽が呼んでいる。悠伽が待っている。

 ぴろん。

 スマホが鳴った。こんなときに。だれだよ。無視しようとしたが、なんだか胸騒ぎがして、走りながらポケットから出した。画面を見ると、通知はメッセージの受信ではなかった。動画サイトの更新通知だ。新しい動画が更新されたのだ。

 息が止まりそうだった。

 それは、俺と悠伽のつながりを示す、一縷の望みをたぐり寄せた命綱。

 動画が削除され、悠伽が投稿に使っていたユーザーIDが次々と利用停止になっていくなかで、たったひとつだけ残されていたのは、このいちばんさいしょの動画だった。光の届かない息もできない深海で、たったひとつだけ光を包み込んで漂う気泡みたいに、俺を生かしてくれた悠伽とのつながりの証。ユーザー登録をしておいたことで更新通知を受け取れるようになったんだろう。それが、このタイミングで更新された。

 予約投稿だったんだ。あらかじめ撮影していた映像をサイトにアップロードする際、すぐに公開するのではなく、公開する日時を指定することができる。悠伽はきっと、いまから一年前に撮影していた動画を、いまこの瞬間に公開されるようにあらかじめ予約投稿していたんだろう。

 俺たちが彼女の動画を見たときには、俺たちが彼女を助けようとしたときには、なにもかもが手遅れになっているように。

 これは、悠伽自身が選んだ破滅なんだ。

 彼女はそもそも、救われることなんて望んでいなかったんだ。

 夢に破れた兄の末路を見て、彼の絶望に蝕まれていく自分を見て、逃れることのできない真っ暗闇のような未来を見て、悠伽はこの破滅をみずから選んだんだ。

 俺は立ち止まって、新しい動画を開く。目に入ってくる動画のタイトル。

 『復讐』

 いちばんさいしょの動画のタイトルと組み合わせると、ひとつの意味が浮かび上がる。「これは、あなたへの復讐」。それは、救いようのない破滅を前にして、彼女が俺に望んだ結末。彼女の苦しみをなにも知ることができなかった、救いの手を差し伸べることができなかった、そのうえいまになってもまだ間違え続けている、俺自身への復讐なんだ。

 動画を再生すると、画面にはもう悠伽がいた。ギターを抱えて立っている。紗原駿が棄てたはずの、深海に忘れ去られた沈没船みたいな色をしたギターを持って、彼女ははじめて、俺に顔を向けていた。六年前の面影を色濃く残す彼女の顔は、やはり六年前とおなじように、ころころと笑っている。ああ、悠伽、ひさしぶりじゃないか、逢いたかったよ、六年間ずっと君を捜していたんだ、逢えてよかった、でもね、ごめんよ悠伽、俺たちはもう、あのころには戻れないんだ――。

 悠伽がギターをかまえて、ぽろぽろと弦を爪弾きはじめた。俺はそれを聴いて、ふたたび息が止まりかける。彼女の奏でる音は、まるでちいさな白い花の咲いた坂をころころと転がり落ちていくような、Aadd9エー・アドナインコードのアルペジオ。

 それは俺たちのすべてのはじまりであり、すべての終わりである曲。俺が紗原駿にこの曲を聴かせて、それを俺のオリジナル曲だと勘違いした彼が盗作し、俺たちをそれぞれの破滅へと導いた曲。

Lily of the Valley谷間の百合』。

 ……そうだ。これだったんだ。どうしてあの花が悠伽の部屋にあったのか。どうしてあの耳馴染みのなかったはずの花の名前が、俺の意識に引っかかったのか。この曲のことだったんだ。

 「谷間の姫百合」はすずらんの別名だ。

 どうして忘れていたんだ。これも事件のショックで忘れてしまっていたのか。

 曲が終わると、彼女はスマホを手に取った。なにかメッセージでも打っているみたいだ。俺は確信していた。俺あてのメッセージを打っているんだ。俺が返すことのできなかったメッセージ。俺の失敗の証。俺が犯した罪の証。

『ねえ、刻都』

 動画のなかの悠伽が、俺の名前を呼ぶ。俺の目を見て、俺に呼びかける。

『約束、憶えてる?』

 その問いかけに、ついに答える時が来た。思い出したよ、悠伽。君との約束を、俺は叶えに来た。すぐにそこに行くよ。だから待ってて。

『わたしをちゃんと――』

 その言葉のあとに、彼女はすずらんの花瓶を手に取った。ちいさな白い花は、ころころと鳴り響く鈴のようだった。

 俺はそのようすをじっと見つめた。決して目を離さなかった。これが彼女の望んだ破滅だ。その結末を、俺は見届けてあげなければならない。

 奈津が言っていた言葉を思い出す。

 ――すずらんには毒があるんだよ。花にも葉っぱにも根っこにも。活けた水にも毒が回って、それを飲んでも危ないんだって。

 すずらんを活けた水は猛毒だ。最悪死に至る可能性もある。一年前の四月、俺が返すことのできなかったメッセージの向こうで、彼女はみずからの手を、生命の終わりに触れていた。けれど、もしかしたら命を絶つには不十分かもしれない。そんなときのために、俺への約束があったんだ。

 悠伽は花瓶の水を飲み干した。彼女の身体が大きく傾いだ。カメラが倒され、どさり、と大きな音がした。映像がブラックアウトし、そこで動画は終わっていた。彼女とのつながりを示すものは、もうこれ以上にない。

 でももう大丈夫だ。俺たちはあのころには戻れないけれど、俺は悠伽との約束を思い出した。それを叶えてあげることができる。でもね、ごめんよ悠伽。俺はやっぱり、君との約束を叶えてあげたくなかったんだよ。だから忘れてしまっていたんだよ。でも、心のなかでは憶えていたんだ。あの日の君との約束を、心だけが憶えていたんだ。

 それなら……そんな心なんて、なければよかったんだ。



 ――ねえ、刻都。

 ――わたしをちゃんと、殺してね。

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