第27話 はめつ

「刻都よぉ」

「しゃべるな!」

 非力な動物がせいいっぱいの威嚇をするみたいに、にぎりしめていた右の拳を彼の目の前で振り上げた。

 にもかかわらず、紗原駿は。

 死んだはずの瞳で、その瞳に宿る光で俺を突き刺して、こう言った。

「おまえらはもう、終わりなんだよ」

「――」

 振り下ろした手を止めることはできなかった。ひとつ、ふたつと振り下ろしていくたび、彼の口から血の混じった唾液が弾けるように飛び散った。絶望と失望を脱色して漂白した部屋のなかに、赤い液体が放物線を描いた。乾いた打撃音が響き渡る。そしてそれを包む子守唄のように、アルペジオが鳴り止まない。

「刻都っ!」

「だめ!」

「やめて!」

 璃生たちが制止に入るのがわかった。でももう、止めることはできなかった。紗原駿はいちども抵抗しなかった。それが彼の選択なんだろう。これが彼の選んだ破滅だってことだ。

 でも、悠伽はちがう。

 彼女は彼女自身で破滅を選んだんじゃないはずだ。

「あんたのせいで、あんたのせいでっ、悠伽は、悠伽は……っ!」

 頰に、腹に、胸に、にぎりしめた拳が食い込む。抵抗しない紗原駿に馬乗りになって、俺は怒りに任せてなんども振り下ろした。彼の肌は身体じゅうが赤くなって、青くなって、黒くなっていった。

 おなじだよ、と思った。これは悠伽の苦しみとおんなじなんだよ。悠伽はあんたに苦しめられたんだ。彼女の身体に浮き出ていた呪いみたいな青あざが、彼女の不幸のしるしだったんだ。それはあんたがつけたんだろ。俺のせいじゃない。

 ぜんぶ、あんたのせいなんだ。

「ぜんぶ、ぜんぶ――」

「トキト、お願い、やめて!」

 かすれた声で奈津が叫んだ。紗原駿に馬乗りになっていた俺を、彼女は身体をぶつけて止めた。まさに振り下ろそうとしていた腕が空を切り、行き場をなくした感情が投げ出されるように真横に吹き飛ぶ。俺と奈津の身体は、ばたん、という大きな音を立てて床に倒れる。

 我に返った。目の前には、白目を剥いて泡を吹いた紗原駿が、仰向けになって横たわっていた。いまごろになって、紗原駿をなんども殴りつけた両手の拳が痛んだ。呆然とする俺を抱きかかえるようにしている奈津が、顔を俺の背中に押し付けてすすり泣いている。

 芙雪が紗原駿に駆け寄った。彼の口許に手を当てたり、腕を取ったりしている。最後に胸に耳を押し当てて、ただしずかに、首を振った。

「……息をしてないわ」

 脈も、鼓動も、ないんだろう。だからなんなんだ。これは天罰なんだよ。ぜんぶこいつのせいなんだ。当然のことだろ。

 奈津が声をあげて泣いた。なんで奈津が泣いてんだ。ほんとうに、俺にはわからないことだらけだ。なにを間違ったんだ。どこで間違ったんだ。どうして間違ったんだ。わからない。俺は。俺は。

「刻都」

 立ち上がって振り返ると、璃生が俺を見据えている。

「おまえの望む『あのころ』には、おれたちはもう戻れないんだぞ。これはおまえがやったことだ。おれたちがやったことだ。刻都と、おれと、中澄と若名が、選んだ破滅だ」

「俺は、」

 なにを。どこで。どうして。俺は。

「これは……俺が?」

 もう動かなくなった紗原駿を見て。俺は。どうしてこんなことを。

「刻都。しっかりしろ」

「俺は、なにを、どこで、どうして、俺は、」

「刻都」

「まちがったんだ、俺は、なにを――」

「刻都っ!」

 璃生は思い切り俺をぶん殴った。吹き飛ばされてまた床に倒れ込む。奈津と芙雪の悲鳴が、虚しく張り詰める部屋の空気を震わせる。

「おれたちはもう戻れない! 進み続けるしかないんだっ! たとえそれが間違ってたって、おれたちには、もう、それしか残ってないんだっ、紗原は――悠伽は、もう、あのころの悠伽じゃあないんだ……それでも、おれたちは、あいつを信じるしかないんだよ……っ!」

 今度は璃生が俺の胸ぐらをつかんだ。

「なあ、刻都っ。おまえは、悠伽を、どうしたいんだ! 助けたいんじゃなかったのかっ!」

 両目を真っ赤に泣き腫らして、奈津が縋るように言った。

「刻都、お願い、ハルとの約束を思い出して、その約束を、叶えてあげて……!」

「時間がないわ、刻都、はやく」

 そこへ、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけた売人の男が、ようすを見に戻ってきたのかもしれない。この場を目撃されたら、俺たちはほんとうにしまう。

 もう戻れない。俺が望んだあのころに、俺たちは、もう。たとえこれが間違いだったとしても、俺たちはただ、進み続けるしかない。

 がちゃり、と部屋の扉のドアノブが回されて、ゆっくりと開いた。男が顔を出す。

「おい、おまえらいったいなにを――」

 芙雪が男に駆け寄って、腹に思い切り飛び蹴りをかます。「ぶふっ!」と唸り声をあげて男が倒れ込んだ。

刻都トキトっ!」

 三人に叫ばれて、俺は立ち上がる。芙雪たちが男を組み敷いているうちに、その横をすり抜ける。階段を駆け上がる。息が切れるのもかまわない。足がもつれてもかまわない。

 前に進まなければいけない。

 たとえそれが間違っていたとしても。

 もう、戻れない。

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