隻眼の剣士。

 

 時はあの左目の事件に遡る。

 

 家光が十兵衛に密会していたことが宗矩に知られた後、宗矩は家光と十兵衛の別れために、少しばかり空白(じかん)を与えた。

 その折の事である。

 十兵衛はすぐに、家光に嘆願したのだ。

「家光――私はこの眼を失いたくないッ」

 兵法を失ったら彼には、最早、父のような道しか残されていない。剣を捨て政事と謀略の中で生きるしかないのだ。

 十兵衛にはそれだけは耐えられなかった。

「……しかしな」

 その一方で、家光は意外なほど冷静だった。

「宗矩の言う事も道理である。民を正しく活かすのならば、おれもお前もこのままでいけないのだ。示しはつけねばなるまい」

「――示し、とは」

「十兵衛、お前を解任する。そして新たに密命を託す」

「密命だと?」

 混乱する十兵衛に、家光はここではないどこか遠くを見据えて呟く。

「おれにはこの国が分からぬ。この狭い江戸の中だけ生きている――それでは、本当の政事などできはしない」

「そんな事はッ!」

「……ないとも言えないのだ。世間からおれは傀儡将軍とさえ呼ばれている」

「言わせておればいいのだ……!」

「しかし事実だ。――そう呼ばれても仕方あるまい。それほどまでにおれは無知なのだ。だが傀儡のままで生きる事を、おれはしたくない」

「……」

 言葉には決意があった。十兵衛はそう感じた。

 故にその強い意思を感じたからこそ、口を挟む事を止めた。

「お前の左眼(ひとみ)は今から、おれの物だ」

「……御意」

「諸国を巡り、この国を見て回れ。お前が見たこの国をいつかおれの為に話すのだ。お前の左眼は、おれの物だ」

「……御意」

「そして宗矩のやり方が認められぬというのなら――その旅の内にお前にとっての『人を活かす剣』を見つけて来るのだ――でなければ、戻ってくる事は赦さん」

 強く、誓いを立てさせるように家光が言った。

 この言葉が、十兵衛のこの先の……長い長い旅における目的となった。

「御意……!」

「よし」

 家光は深く肯き――脇の短刀に手を伸ばす。

「事を宗矩めに悟られぬよう、柳生の里までは隻眼の素振りをしておけよ――そこからならばなんとかなろう」

「そこまでならば、なんとかなるさ」

 十兵衛は肩の力がぬけたのか、軽く笑い、顔を差し出した。

 覚悟はできた。

「眼を閉じろ――動くなよ」

 家光は短刀を抜き、ゆっくりと十兵衛の瞼に当てた。

 僅かに皮膚が切れ、血が流れた。

 

 まるで涙。

 永い離苦(わかれ)への涙だった。

 

「家光――」

 

 十兵衛には別れる前に、目の前の男に告げたい思いがあった。

 それは宗矩に邪魔をされ、今宵言えなかった言葉である。

 秘めた言葉、

「言うな。――分かっている」

 それでも、十兵衛は言ってしまった。

 それは決して、伝えてはならぬ想いだというのに。


「私はお前を――」



***


                         

「家光――私にはまだ何も視えない」

 宍戸を討ち果たした翌日、十兵衛は鈴鹿の山道を下っていた。

 左眼にはもう、眼帯がない。代わりに左手が添えられていた。

「今日、一を活かすために十を殺した」

 路傍の石を蹴りながら、そこにいない者に語りかける。

「父から言わせれば、私こそが『悪』だな。あの村はよほどの事がなければ、さらに荒れる。その未来を感じながらも、私は宍戸隆生(オニ)を斬ったのだ」

 十兵衛には確信があった。

 宍戸の一派を壊滅させ、囚われの者たちを開放したところで、村の寿命を縮める事になるだけだと。

 だが十兵衛は、あの土地で疲弊し、擦り切れていた者たちを見て、見捨てることもできなかったのだ。

 これまでの旅路に行ってきた他の賊退治も概ね同じような経緯である。

 後悔はしている。

 しかし後悔の先に、今、この男は未来を見ようと決意していた。

 

「それでも、一つだけ分かった事がある。私はただ命のみを『生かす剣』ではなく、真の意味で人を『活かす剣』でありたい――お前の国にも、そうあって欲しいのだ」

 

 それは剣道の悟りではなく、彼自身の願いだった。

 

 十兵衛は優れた剣士である。最強の剣豪に名をつらねんとする若き狼である。 

 だが所詮、屋敷育ちのたった二十の餓鬼だったのだ。

 このままでは、気に入らないから相手を殺している荒くれ者と変わらない。

 思想(ことば)に宗矩のような重みがない。

 

 ――だから、足りないのだ。


 この願いが『道』といえる形になるまで、十兵衛の密命(たび)は終らない。

 ふと――あらぬ考えが浮かんだ。

 もしかしたら宗矩はこれを見越し、あの事件の顛末すら仕組んでいたのでは、と。

 家光に将軍としての強い自覚を与え、十兵衛にも剣を『道』とする修行の旅を与えた。

 あるいは、それこそが二人の若者と、この国の為になるということを『心眼』にて見抜いていたのかもしれない。

「何方(どちら)にしても――あの男は嫌いだ」

 そう呟いた十兵衛の顔には、険しい色はなかった。


 ――ただ、昨日の一戦で存外に疲れていた。

 

 十兵衛が少し休みたいと思った時、ちょうど道脇に小さな一軒の茶屋が見え始める。

 店前にはお婆が一人立っていた。

「――婆さん。団子をくれ、後は冷たい茶だ」

「あいよ」

 言葉を受けて、彼女はさっそく店の中に入っていった。十兵衛が店先の竹椅子に腰を下ろすと、店の奥から声が届く。

「お侍さん。まさか今時、武者修行ですかい?」

「似たようなものだ。柳生の庄まで帰るところさ」

 別段、隠すことでもない。眼帯を外した十兵衛は、少し開放的な気分ですらあった。

「柳生流ですか、これは大層な流派ですなぁ」

 お婆は感心したような声を上げた。当然である。柳生流は天下の剣であるが故。方々で触れ回れば、町人など恐れおののくほどなのだ。

 そこで十兵衛はこのお婆をもっと驚かしてやろうと思った。

「驚くにはまだ早いぞ、聞いて驚け。私は柳生十兵衛三厳。かの家光将軍に仕えた男よっ!」

「まぁ!」

 と、これまた仰天した声があがる。

 十兵衛が一人、してやったりと薄く笑む。


「といっても、今は放逐され―――――熱ッ! アツィ!」


 話している途中で茶をかけられた。

 宇治茶――高級茶である。

「不届きもの! 十兵衛様はお前のような軽薄男ではない!」

「なんとぉ……?」

 お婆は鬼の形相で怒っていた。団子串まで向けている。

 これには十兵衛も呆けるしかない。

「十兵衛様は家光公に左眼を差し出し、世直しの旅のために暇を頂いたという素晴しいお方だよ――名乗るならまず、その左眼を抉りなっ!」

「――ま、まて」

 何という風聞であろうか。

 その十兵衛という男は少し男前過ぎる。

 この十兵衛の知る柳生十兵衛ではない。

「誰だ、そんな事を吹聴したのは……!」

 狼狽する十兵衛が尋ねると、お婆は如何にもな顔をして説教をたれた。

「そんなものは柳生道場の高札に決まっておるだろう! 天下全てがそういっておるわ! よいか、このお方はそもそも、かの柳生家の嫡子にして――」

 お婆は十兵衛が何も言えない事を良い事に、熱く語りかける。

 だが、今の十兵衛には聞こえていない。

「――まて。いや、待たなくていい」

 全国の柳生道場すべてに高札を出させるなど、並大抵の権力(ちから)でできることではない。そんな事をできる人間を十兵衛は一人しか知らなかった。

 その男は柳生家の評判を高めて益を得る者であり、影の権力者とも言われるに違いない。。

 十兵衛の頭は茶などものともしないほどに沸騰した。

 怒りのままに、東の空に怨みを向ける。

 

「おのれぇぃ! むぅぅぅねぇぇぇのぉりぃぃぃ!!!」

 

 心眼などなくても、十兵衛にはたしかに江戸の彼方でほくそ笑む父の姿が見えていた。

 

 ――柳生十兵衛は後に、隻眼の剣士として名を馳せたというが、果たして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

柳生十兵衛 心眼の太刀 超獣大陸 @sugoi-dekai-ikimono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ