暗黒騎士とエイプリルフール
それは鈴堂小夜……リーゼロッテが勤務先であるトカノ特殊業務社の社内で、壁に飾られたカレンダーを軽い音を立ててめくった、その時のことだった。
四月、と大きめの文字で書かれた横にはかわいらしく目を細める猫の写真があるが、それは別に良い。『1』の数字を見つめて、リーゼロッテはぱちぱちと大きな目を瞬かせた。
「あ。エイプリルフール」
ぽつりと呟くと、事務作業中の社長、戸叶まゆみと営業の葵川肇が彼女に視線を向けた。二人とも年度末のあれこれを昨日終えたばかりで、顔に疲労のヴェールが掛かっている様子だ。現在、社内にはこの三人のみ。他は派遣されて清掃関係の業務に就いている。広いとは言えない事務所も、なんとなくがらんと寂しく見えた。
「そっか、新年度だなあとだけ思ってたけど、今日はそんな日だったね」
戸叶がぐっと伸びをして、長い髪を揺らした。葵川の方は特にはっとした様子もなかった。
「僕は結構企画チェックしてるサイトとかあるんで、覚えてましたよ」
「仕事中に?」
「さすがにないですよ。休憩取ってる時にちょいちょいって」
リーゼロッテは、今日の彼が折に触れて数分程度席を外しがちだったことを思い出す。疲れているのかな、と思ってはいたのだけど、拍子抜けするほど元気であったらしい。そちらは気にせずに話題を継いだ。
「うちは、何かそういう遊びをしたり、というのはないですよね」
「そうねえ、エンタメ系はいいけど、紛らわしいことしたらお客さんが困っちゃうし」
かなり簡素な社のウェブサイトを思い浮かべる。ブログ記事は持ち回り制で、今日の当番はリーゼロッテだった。でも、そこに突然嘘の情報を書いては、確かに会社全体の信用に関わることだろう。
「それに、わりとこの界隈、『嘘』って言葉に敏感な人が多いんだよね」
じゃあ何を書こうかな、と考えていた彼女は、はっと顔を上げた。
「
「そうそう。能力とか症状とか、ほんとにあるの? ズルしてない?みたいなことを言われがちだからさ。あたしも外に出ないタイプだから、結構言われた」
戸叶の能力は目に宿っているという。確かに外から見てわかるものではなく、日常では自己申告頼りだ。しばらく一緒に仕事をすれば、その力が確かなものであるということはよくわかるのだけど。
「その辺、僕は楽でしたね。見せちゃえばいいし、ウケもいいし」
ふわ、とガラスのような透明の蝙蝠が宙に舞う。葵川の端末だ。
「ああ、でも症状の方はそうだね」
『知りたがり』の青年は続ける。
「『全然病気みたいに見えないね』って言われるのは、別にいいんだけど、ちょっと釈然としなかったな。それこそ、なんか嘘ついてるみたいじゃない?」
難しいところだ、と思う。社交的な戸叶や葵川は、きっと自分の感情としっかり向き合って、努力して制御してきたのだろう。だから『一見おかしくは見えない』。実際は、溺れそうになりながら必死でもがいていたのだとしても。それを嘘と言われてしまっては、やはりやるせない。
本当は二人とも、もう少しだけ力を抜いて生きていきたいのだと、なんとなく伝わってきた。リーゼロッテ自身も同じだったから。
「私は、ええと、また暴走しないように、適度にガス抜きしていきなさいって言われてて」
戸叶が静かに頷く。
「我慢しないでちゃんと言いなさい、元気な振りをしすぎないで、自分に正直に、ということだと思いました」
「それは本当に……リーゼちゃんに限らずね。うちの全員も、お客さんもそうだよねえ。結ちゃんとか八重樫さんは、あれでわりと小出しにするのが上手いんだけど」
二人とも、ちょくちょく爆発をする方なのだが、なるほど。後に引かない程度にほどよく己を出すことができているということかもしれない。そうすると。
「あの、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様は……?」
「リーゼちゃん、本人がいなくてもその呼び方だよね……斉藤くんは、そうだなあ」
一瞬、沈黙の帳が降りた。本名を半ば捨てて、常に暗黒騎士の名を名乗り、剣を振り回している青年。どう見ても症状を隠しているようには見えない。が、あれはあれで『嘘をついている』ように見えてしまうのかもしれない。
「自分にはあれ、正直なのか逆なのか、どっちなんだろね、ヴァルちゃん」
「外から見ると……というのはあるね。まあ、ぱっと見暗黒騎士ではないからね……」
胸が少し苦しくなった。多分、
なんとなく、たまらなくなってリーゼロッテら早口に彼の弁護を始めてしまった。
「でも、あの、すごく偉いと思うんです。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様は。ちゃんと自分の大切なものを持ってて、それを人にも見せてくれてる、と思います」
もしかして、外から見れば嘘で固めた鎧を纏った、ただの奇人かもしれない。自分自身にも嘘を信じ込ませているような人なのかもしれない。それでも。
それでもその中に、キラキラ光を弾く小さな宝石のような、確かで美しいものをいつも目の当たりにさせてくれる、そんな人なのだと、リーゼロッテは言いたかった。
「リーゼちゃん、ヴァルちゃんのこと好きすぎでしょ……」
椅子をギイ、と軋ませて、葵川が笑った。次いで戸叶も笑みを見せる。
「それは大丈夫。みんなわかってるからね」
暗黒騎士が、本当に暗黒騎士であると、世界をねじ曲げ、そうなることがあり得るのだと、少なくとも社の皆は目撃をしている。リーゼロッテはこくんとうなずいた。
きっと皆、それぞれの形で彼のことを好きでいてくれているのだと。
「僕的にはもうちょっといろいろ教えてほしいと思うんだけど、なんか警戒されがちなんだよね」
「それは、自分のせいじゃないの……?」
「葵川さん、仲良くはしたいみたいですけど、たまにわっと話をされるのは怖い、だそうです」
「ほら、マシンガントークはやめなって言ってるじゃない」
その場にいない相手の噂話は少し気が引けたが、それでもやはり、暗黒騎士について語れるのはとても嬉しい。そうして軽く話題が一巡した頃のことだ。
「というか、そろそろ帰ってくるんじゃないの、斉藤くん。さっき連絡が来たし……」
ガチャリ。まさにその瞬間に外のドアが開く音がした。
「帰投したぞ。いずれも強敵であったが、我が暗黒瘴気剣の前には塵芥に等しく滅びゆく
パーカーにジーンズ姿の青年が、着てもいないマントを軽く払うような仕草で事務所へと入ってきた。
「うんまあ、清掃のお仕事だから、それは塵芥だよね。お疲れ様」
「お疲れ様です。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」
「ヴァルちゃんおつかれー」
三者三様の労いの中、暗黒騎士はふと怪訝そうな顔をした。
「……何か災厄か、あるいは漆黒の闇から来たる祝福でも訪れたか」
おそらくそれは、直前の会話から残る温度の、その微かな名残りのようなものだったろう。あるいは、少しばかり三人とも、顔が面白げに緩んでいたのかもしれない。
リーゼロッテと戸叶と葵川は、軽く目と目を見交わし、そして。
「いいえ、こちらのお城は平穏そのものでした。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」
ほんの少しだけ、『嘘』をついた。
これはごまかしでも不誠実でもなく、三人で交わした会話の余韻を閉じ込めるための、最後のおまじないのようなものであったと、彼女はそう思っている。
四月一日
今日はエイプリルフールですね!
一年で一日だけ、嘘をついてもいい日。
皆さんは、楽しまれましたか?
このブログには嘘を書くわけにはいかないので、今日一日嘘について考えたことを書きたいと思います。
嘘、といっても色々な
ここまで書いたあたりで、リーゼロッテの手は止まる。横では待機中の暗黒騎士が、腕組みをして厳かな表情を作っていた。他も皆それぞれの作業に没頭している。
彼の症状に、暗黒騎士であることに付き合うことも嘘なのだろうか。それとも?
わからないことはたくさんある。それでも言われた通り、自分に正直になろうとすると、やはりまだ一緒に遊んでいたい、という気持ちになる。
これは嘘ではない。本当のことだ。
カタカタと手を動かす。そう長い記事でもないので、すぐに終わる。
最後に少しだけ考えて、書き足す。
『嘘をついても、つかなくても』
『それがあなたにとって大切な』
『綺麗な宝石を守るためのやり方なら』
きっと、それは正しいのに違いない、と長い睫毛を伏せて考える。そうして、リーゼロッテはくすりと笑い、業務用にしてはセンチメンタルすぎる文を削除した。
心の中にはそっと、確かに貼り付けて残したまま。
暗黒騎士斉藤くんの業務レポート 佐々木匙 @sasasa3396
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