第7話 早駆け勝負二本目 其之壱
早駆け勝負二本目が始まる刻限の少し前には、先ほどの倍の数の人々が集まっているように感じた。
道幅が一本目のころよりも狭くなった気がする。それだけ人が増えた証拠だろう。人垣が二重三重になっていた。
「ご両人、準備はいいかしら?」
桃鳥が、先ほどの短棒を手に言った。
道の真ん中には二人の男が立っている。ひとりは、南町奉行所同心、鞍家新右衛門小典だ。もうひとりは、江戸中の道場を荒らした道場破りの千破剣一走斎だ。
「……」
「いつでも」
小典は、言いながら隣にいる派手な半纏の男――千破剣一走斎を見た。
先ほどまでの余裕はすっかりなりをひそめていた。前を向きながらブツブツと何かを呟いていた。それと同時に、臍のあたりを盛んに手を当てている。よく見ると、微妙に着物の下が動いているような気がする。
「……臍ほぐし」
ふともらした小典の言葉に、一走斎は、「やはり」と言うと、
「誰に教えを乞うたか知らないが、付け焼刃でこの一走斎に勝とうなんて百年早いわ。先ほどは油断したが、今度はそうはいかない。万に一つも貴様に勝ち目はない!
」
怒気をみなぎらせつつ小典を睨め付けた。
「望むところだ」
小典も睨み返す。
睨み合う両人を周りの野次馬たちが、いいぞ、そうこなくっちゃ、ともてはやす。
嵐のような声援が、急に静かになった。
桃鳥が短棒を高く掲げたからだ。
皆の視線がその棒に注がれる。
ゆっくりと桃鳥の手が下に下がると、一拍おいて、サッと手が上がった。
短棒が中空へ上がる。
回転しながら地面についた。
「はっ!」
「とっ」
短い気合とともに二人が駆けだした。
六日前。
三十畳はある豪奢な一室に小典は、座っていた。
格子天井は黒光りしており、襖絵は、狩野派だろうか、巨大な帆船と黄金の雲、そして極彩色の鳥たちが見事な筆で描かれている。床の間には艶やかな赤と青の対比が鮮烈な壺と皿が飾られていた。青畳は新品のように匂いを放っている。
ここは、黒葛家の中にある一室だ。石高七千二百という大大身の旗本の住居である。広大な敷地内に建つ建物はもとより、内部の装飾は、まったくの門外漢の小典ですら元公家の家柄を想像させるには充分であった。
その部屋の中には、小典と桃鳥、もうひとり、浪人銀杏を結ったひょろりとした男が座っていた。竹野京一郎鳳歩だ。
「鳳歩どの」
桃鳥が言った。
「御無沙汰をしておりました」
桃鳥が珍しく慇懃に頭を下げる。
「桃鳥さま。ご立派になられましたな」
鳳歩が相好を崩した。
「わたしが最後にお会いしたのは、まだ京においでのころでしたから、あれから十年は過ぎておりますな」
黒葛家の子女は、皆、京で元服までの時期を過ごすという。
「あの頃の桃鳥さまは、それはそれは凛としたたたずまいでしたな」
含みのある言い方であった。
「ふふふ。痛み入ります。ずいぶんお騒がせを致しました」
鳳歩は、いやいや、と首を横に振ると、
「桃鳥さまは、いつも筋を通されておいででした。ですから、争いごとがあっても悪い噂が残らなかった」
鳳歩の瞳がどこか遠くを見つめている。
「積極的に悪い噂を流していた輩もいたようですが」
桃鳥が答えると鳳歩は、ハハハと存外大きな声で笑った。
ひとしきり、鳳歩と桃鳥が笑いあったのち、
「それで、私から天駆鳳歩流を習いたいお方というのは……」
そう言った鳳歩の瞳が小典に注がれた。
小典が頭を下げる。
「実は……」
桃鳥がこれまでの顛末を鳳歩に話して聞かせた。
「……」
瞳を閉じて黙って聞いていた鳳歩は、何かを考えているようであった。ややあって、口を開いた。
「他ならぬ桃鳥さまの願い。無論、この竹野京一郎鳳歩に否やはありません。ですが……」
小典を見て、桃鳥に向き直った。
「……おそらく、この勝負、よくて引き分け。いや。三本勝負となれば負けの確立のほうが高いでしょう」
「なぜ?」
「我が天駆鳳歩流、やはりそれなりに習得すべきに刻がかかります」
「むろん、承知の上よ」
鳳歩は、ふむ、とひと呼吸、間を開けた。
「その千破剣一走斎なる御仁も何らかの歩行術を修めているのは確実。たとえ、我が天駆鳳歩流、初歩の歩行術を修めても勝てるとは思いません」
小典もその通りだと、胸の内でつぶやいた。
剣術でも最初の型を教えられただけで、その道の先を行くものに勝てるわけがなかった。至極当然のことだ。
「鳳歩どのの言い分はもっともね。でも、鳳歩どのにはこの小典に、天駆鳳歩流の初歩だけを教えていただければ充分」
「初歩の術だけでよろしいので?」
「ええ。教えるのはね」
明らかにたくらみを含んだ言葉に鳳歩の表情も訝しげになる。
「この桃鳥にいささか作戦があるの」
「作戦……ですか?」
桃鳥はにっこりと笑ってうなずいた。
なぜだか小典は嫌な予感がした。
「鳳歩どの。お耳を拝借」
そう言うとにじり寄って、何事か小声でつぶやいた。小典には聞こえない。
「なっ?!どうしてそれを?」
驚いた鳳歩が桃鳥に聞く。
桃鳥は、優雅な笑顔を浮かべたまま、
「叔父御から聞いていたのよ」
「兆太郎入道さまから?!」
驚くと同時に苦笑が鳳歩の顔に浮かんだ。
鳳歩は、しばし腕を組んで考えると、
「いいでしょう。ただし……」
条件付きで桃鳥の作戦に同意した。
「ざざざざざざ」
小典の口からは、先ほどと同じ言葉が口から発されていた。
同心町の通りは真っすぐだ。
ただ、一本目のころよりも人垣で道幅が狭まっている。後ろの人々が押すからだろう。時折、人垣が波打つように揺れている。それによって、真っすぐの道も揺れ動いているように見える。
――目付が出来づらい
小典は、焦った。
目付は、よく武術一般にも使われる言葉だが、天駆鳳歩流の目付は、やや異なる。簡単に説明すれば、目標とするところに目に見えぬ目印を置き、そこから己の臍と一本の糸が繋がっているように観想するのだ。すると、体がぶれないという。加えて、目標がその糸を引っ張るようにする。そして、小典が口に出している言葉、ざざざざざざというのが臍のあたりをほぐすと同時に糸を震わせるのを体感するとさらに速度が出てなおよいという。
残念ながら、小典は、糸を震わせるのを体感するまでにはいかなかったが、それでも、目標から臍のあたりを糸で引っ張るというのは体感できている。
これが、竹野京一郎鳳歩が伝えている家伝の歩行術、天駆鳳歩流の初歩の術「凧之如し」である。
ほかにも、初歩の術はその道や路面状況などによって細かく分かれており、無論のこと、掛け声も異なるという。
しかし、小典が教えてもらったのは、この「凧之如し」のみである。
この初歩の術のみで勝負をしているのである。
一走斎が油断していた初戦は、勝てると一縷の望みがあったが負けた。二本目は、一走斎は初めから本気だ。すでに、走る小典の前を掛け声を言いながら走っている。この二本目を獲らないと小典の負けである。
「ざざざざざざ」
小典の掛け声と一走斎の掛け声が時折重なる。
一走斎は、揺れる人垣を巧みによけて進んでいく。一方、小典は何とか術を維持しながら走り抜ける。
道が左に大きく折れる。
その先は、つづら折りの下り坂だ。
「凧之如し」は直線的な道に有用だ。だから、つづら折りの坂道は、細かく目付をしないといけない。だがここにも人が多く、小典は苦労した。ここには御家人たちが住む武家屋敷の前だからであろうか、武士やその使用人たちの姿が多い。一走斎との距離はさらに開いた。
この先は、神田川にかかる橋を渡り、川沿いの一本道だ。
ふと、勝負が始まる前に桃鳥が言った言葉が頭の中に響いた。
――いい?小典はこの神田川沿いで一走斎の後ろをはしってなさい。前に居たらだめよ。
どういうことなのか。意味を聞いても、ふふふといつもの笑顔ではぐらかされたのであった。
「言われなくても追いつけないですよ」
思わず愚痴が口をついた。
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