第10話 終章

 浅木和泉守邸を退出したのは、ずいぶん刻が経ってからであった。

 すでに夕日が辺りを染めていた。空気はひんやりとしているが、寒さは感じなかった。むしろ、汗ばんでいた。酒のせいだろうと思ったが、小典も桃鳥もずいぶん酒を飲んだが、酔ってはいないようであった。

「桃鳥さま、酒が強いのですね」

 正門から出て、しばらく風にあたってから、前を歩く桃鳥にむかって小典は言った。

 実は、桃鳥と酒を飲んだのは初めてであった。

「ふふふ」

「何ですか?」

「酒はほとんど飲んでないわ」

「え⁉」

 思わず立ち止まってしまった。

「ど、どういうことですか?」

 グイグイと杯を重ねた浅木和泉守につられるようにお奉行である重藤公連も桃鳥も小典も酒を飲んだはずだ。

「ふふふ。飲んだふりをしていただけよ」

「飲んだふり⁉」

「貴方も覚えておいたほうがいいわ。馴染みのない場での深酒は後れを取る可能性もあるから」

 確かに言われてみればそうかもしれない。何も考えずグイグイ飲んでいた自分が急に恥ずかしくなってきた。

「し、しかし、どうすれば飲んだふりなんてできるのですか?」

 すねたような声は、我ながら子供じみた言い方だなと思ったが、いかんせん、勢いで言ってしまった。

「いろいろあるわ。例えば、口に含んだ酒を上手く猪口に戻して、そのまま隠した椀に捨てる、とか。口に含む前に捨てるのもありね」

「……」

 冗談かと思ってまじまじと桃鳥の顔を眺めた。

「ふふふ。そんな顔をしなさんな。小典をからかっているわけじゃないのよ。ちょっとした剣術の応用よ」

「剣術の応用⁉」

 今度教えてあげる、と言われたらお願いしますとしか言えない。

 夕日が濃く色を変えつつある。茜色に染まった世界は、どこか寂しくもある。黙っていると寂寥感にさいなまれそうで、小典は、話しかけた。

「ところで、一走斎が三本目の勝負が始まる前に降参をしたのは、竹野京一郎鳳歩どのを正面の群衆の中に見たからですよね?」

 竹野京一郎鳳歩は、同心町の街道が大きく曲がるところに群衆に紛れて居たのである。

「そうね。あの場所は、一走斎も背中を見せないといけないところだからね。それに距離も近いわ」

 竹野京一郎鳳歩の影鍼は、活殺自在だという。つまり、生かすこともできるがその逆も出来るということなのだ。つまり、竹野京一郎鳳歩が一走斎に殺の方の影鍼を打ったらそれで終わりである。

「しかし、なぜ、先ほど浅木和泉守さまにハッキリとそう言わなかったのですか?」

 先ほど、桃鳥は孟子の言葉を借りながら勝った状況をやんわりと説明はしたが、それ以上はしなかったのだ。

「それはね……」

 その時、ドンっと男がぶつかってきた。

 避けきれず後れを取った小典は、思わずしりもちをついた。

「おっとお武家様、失礼いたしました」

 頭を下げたが、どこかからかうような声にいささか覚えがあった。

 暗がりで顔がよくは見えないが、大きな柳行李を風呂敷で背負い、脚絆に手甲姿。見た限り、大店の行商人のような姿かたちだ。

「ふふふ。ずいぶん格好が板についてるわね。これから京へ?」

「へへ。黒葛の旦那にはかなわねぇや」

 行商人風の男は、そういって頭をかいた。

「もう一度、師匠の下で一から出直す機会をいただけて感謝しております」

 そう言うと、男は、頭を下げた。そして、素早く身をひるがえすと駆けだした。

「あっ!」

 小典は、その動作で分かった。

「一走斎!」

 言われて行商人風の男――千破剣一走斎は、立ち止まって振り向いた。

「今回は負けました。ですが、次は負けませんぜ。今度こそ、師匠の下で免許皆伝して戻ってきます」

 そう言うとまた颯爽と駆け出した。

「おう!望むところだ!」

小典は、立ち上がりながら大声でそう言った。一走斎は闇夜にまぎれて見えなくなった。

「どうして浅木和泉守さまに言わなかったのかわかりました。竹野どのにこの件で迷惑がかからないように配慮されたんですね」

 小典が言った。

 竹野京一郎鳳歩が小典に歩行術を教える条件のひとつは、小典が初歩の歩行術を使えるようになることと、もうひとつは、一走斎が負けた場合、罰しないことであったのだ。

「竹野どのは最初から分かっていたみたいね。一走斎が自分の下を蓄電した弟子だということを」

 一走斎が降参した後、桃鳥がひったてるふりをして素早く建物に連れて行ったのである。あのままにしておいたら、今まで早駆けで負けた側、恨みのある者たちに袋叩きにされてもおかしくはなかった。そうして、桃鳥は、竹野どのとの約束をうまく果たしたのだ。

「それにしてもお騒がせな男でしたね」

 小典と桃鳥が前に向かって歩き出したその時、

「鞍家の旦那、酒飲みましたね?後れを取りますぜ。ぶつかった相手がこの一走斎でよかったですね」

 皮肉たっぷりの物言いだ。

「なっ!貴様、わざわざそれを言いに戻ったのか⁉」

「へへ」

 一走斎が再度、身をひるがえして駆け出した。

「おい!ちょっと待て!聞き捨てならんぞ、一走斎!」

 小典も駆けだした。

 茜色が現世を染めだした中にあって、男二人の足音は、どこか楽し気に響いていた。




                             了




 

 

 






 








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鞍家小典之奇天烈事件帖~千破剣一走斎 現る~ 宮国 克行(みやくに かつゆき) @tokinao-asumi

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