第9話 早駆三本目の顛末
森閑とした部屋の中には、三人の人物がいた。
ひとりは、小典である。小典から斜め前に居るのは、桃鳥である。桃鳥よりも先に座っているのは、重藤図書助公連だ。つまり、現、南町奉行その人である。珍しい面子であるが、三人が集うこと自体は初めてではない。それよりも珍しいことは、小典を含めて、皆、裃を付けていることであった。
三人が座っている部屋は、三十畳ほどもある大広間である。
部屋の中には、そこはかとなく香の匂いがする。向かって右側の障子は開け放たれていて、その先に、庭の緑がよく映えている。三人がこの部屋に通されてから、すでに小半時ほど経っているはずだったが、小典は、不思議なほど落ち着いていた。
「ご苦労。待たせたな」
左の障子が開いて、壮年の男が入ってきた。
そのまま、上座に座ると、三人を眺めた。
面長で両の瞳が大きく、そして光っている。その光は陽光を反射しているだけではないのだろう。そこには、この三人に対する純然たる好奇心があるのが感じられた。
大目付の浅木和泉守高信である。ここは、浅木和泉守の屋敷の中だ。
小典は、慌てて、平伏する。
「浅木様。此度は、お呼び立て頂き恐悦至極に存じます」
南町奉行である重藤公連が平伏しながら言った。その言葉に、浅木和泉守高信はめんどくさいとでも言うように手を振った。
「お堅いことはなしだ。公連どの」
そう言う浅木和泉守の声は、親しみを含んでいた。
「公連どのの活躍。この高信の耳にも随時、届いておる。幼少の頃よりその才は枯れてないと見える。童の頃、そなたから学問や剣術で教えを受けたわしも鼻が高い」
「お戯れを」
重藤公連が答える。
「活躍と申されるなら、それがしが、というよりも部下の手柄によるところが大きいと存じます」
「相変わらずじゃの」
と言って浅木和泉守高信は笑った。
「後ろの二人も面を上げよ」
後ろに控えて平伏していた、桃鳥と小典にも声をかけた。
面を上げたふたりに、浅木高信はジッと視線を注いだ。
「黒葛太郎右衛門桃鳥どの。黒葛家のご当主か」
「はい」
桃鳥は、真っすぐに前を向いたまま答えた。
「御父上であらせられる光清さまには若い時分、幾度か教えを受けたまわったことがある」
「恐れ入ります」
そう言う桃鳥の態度は全く恐れ入っていない。見ている小典のほうが肝を冷やした。
しかし、浅木和泉守高信は、気にした風もなく、今度は、小典のほうへ視線を移した。
「そして、そちが今回の騒動の当事者か」
「はっ」
小典は、改めて平伏した。
「名は?」
「鞍家新右衛門小典と申します」
「では、新右衛門。此度の早駆け勝負、老中松平さまも感心しておられたぞ。一歩間違えば、己の命を捨てることになるのに見事、受けきったと。近頃には珍しく気骨のある侍だとも言っておられた」
「もったいのうございます」
確かに、一歩間違えば小典は、腹を切らねばならなくなっていたかもしれなかった。奉行所の役人が果し合いを受けて、なおかつ、あんな大勢の人々の前で勝敗を決したのである。勝ち負けにかかわらず、なにがしかのお咎めがあってもおかしくはなかった。特に、老中松平丹波守春達は武よりも文を貴ぶ人柄と聞いていた。故に大目付の浅木和泉守高信に呼び出されたと聞いたときは一瞬肝を冷やした。だが、奉行である重藤公連と桃鳥もともに行くと聞かされて胸をなでおろした。それでも、浅木和泉守の口から実際に言葉を聞くまでやはり緊張していたみたいだ。
「堅い挨拶はそこまでにして、今日は、思う存分飲み食いしてくれ」
浅木和泉守がそう言うと、手をたたいた。
それが合図であったのだろう、障子が開いて、膳に種種の料理が並んだものが次々に運ばれてきた。あっという間に小典たちの前に数々の料理と酒が並んだ。
「さぁ。遠慮はいらぬ。始めてくれ」
浅木和泉守は、猪口を掲げた。
「そして、事の顛末を聞かせてくれ」
そうなのだ。大目付の浅木和泉守高信から呼び出された理由は、事の顛末を話してくれ、というものであったのだ。
小典は、最初のきっかけから話し始めた。
「それは驚くべきことだ」
浅木和泉守はそう言うとお猪口を一気にあおった。
すでにかなりの杯を重ねている。頬が赤くなっている。
今、ちょうど、小典が、二本目の勝負の最後のところを話していた最中であった。
「では、その時に鳳歩流歩行術の秘術を施した、ということなのか?」
浅木和泉守は、桃鳥にむかって聞いた。
「はい。最初に神田川を渡る橋の上で『影鍼』をしていたのですが、最後の同心町の街道で仕上げをした、と竹野どのは仰っておられました」
あの時、神田川の欄干に竹野京一郎鳳歩もいたのだ。
「しかし、なぜ黒葛どのが欄干の上にいたのだ?」
浅木和泉守が聞いた。
「実は、その時、竹野どのは反対側の橋の上にいたのです。『影鍼』を打つのは首の後ろ――すなわち、ぼんの窪に打たないといけないそうなのです。しかし、駆けている小典の真後ろから鍼を打つのは難しい」
「だから、わざと目立つ欄干の上に立ち、黒葛どののほうを向かせた」
「はい」
桃鳥はうなずいた。
首にチクリとしたのは、竹野京一郎鳳歩が放った鍼だったのだ。
「だが、なぜ、神田川を渡る橋の時に全ての『影鍼』をしなかったのだ?」
竹野京一郎鳳歩は、同心町の街道で最後の『影鍼』を施したのだ。その数、三本だったという。計四本の鍼が小典の体に刺さっていたことになる。
「竹野どのの弁によると、影鍼は秘術故に身体に負担がかかるとのことです。よって、少し間をおいて打つほうがいいと」
桃鳥の言葉は、勝負が終わった後に竹野京一郎鳳歩から実際に聞かされた説明であった。確かに、あの沸き上がる気力は、異常ともいえるものだった。体の奥底から、いや、毛穴という毛穴から火を噴いているような感じであった。
「ふむ。そうか。確かに、己の足が止まらなかったという新右衛門の言を聞けばそうなのだろうな」
浅木和泉守は、半ば己に言い聞かせるように言った。
そうなのだ。小典の足は、終点を過ぎても走り続けて、そのまま、控えていた卯之助の手下、数人に抱き止められてやっと止まったのだ。止められなければ、いつまでも走り続けていただろう。
「して、その時、一走斎なる男はいかがしたのだ?」
「それが……あまり覚えていないのです」
小典は、面目ないという気持ちをにじませて言った。
あまりの気力の吹き出しに頭がぼーっとしてしまって、所々しか記憶はないのである。
「『影鍼』を施されると大抵、のぼせたようになるそうです。とくに小典は、初めて鍼を打たれた。記憶がなくなっても仕方ないそうです」
桃鳥が助け舟を出した。
「ご下問にありました、一走斎の様子ですが、唖然としていましたが、しばらくすると憤慨して小典に食って掛かってきました」
「ほう。負けたことに対する憤慨か」
「はい。負けるはずがない。カラクリがあるはずだ、と」
「ふむ」
「そして、小典の膝の裏に刺さっている鍼を見たのでしょう。ひどく狼狽しておりました。『それは……』と言ったきりジッと睨みつけておりました」
「その後は?」
「なにもありませんでした」
「何も?」
「はい。無言のまま去って行きました」
「では、そのまま三本目の勝負に現れなかったのか?」
「いえ。勝負の場には現れました」
「聞いたところによると、勝負をせずに一走斎なる者が降参したとか」
一走斎は、三本目の勝負の場に来た。来たがこれまでと明らかに様子が違っていた。落ち着きなくあたりを見渡して、一向に集中すらできない様子であった。そして、前方を見つめて、突如、へたりこんだのだ。
「それについては、お奉行さまのお力添えがあったことも一因かと」
「公連どのが⁉」
浅木和泉守が驚いて、静に飲んでいた重藤公連を眺めた。
「それがしは、ただ、石見守さまをはじめ、御家人、旗本の方々に面白きものが見られますぞ、とお声がけをさせていただいたまで」
石見守とは、岩月川北城主一万三千石の大名松平石見守盛綱のことである。同心町に居を構える大名のひとりである。街道沿いに石見守邸の正門がある。求めに応じたのだろう、床几を出して正門前に陣取ったのであった。他にも御家人や旗本の家の前に主たちがそれぞれ見物に現れていた。だから、三本目の勝負の時は、二本目の時とは明らかに異なり、どこか張り詰めた異様な雰囲気であった。
「では、一走斎は、武士たちに恐れおののいて降参したのか?」
「あくまで一因ですが、一走斎の恐れを増大させて、術に気を凝らさないことには成功したと思われます」
釈然としない顔をしている浅木和泉守に向かって桃鳥は言葉をつないだ。
「こちらは『天の時は地の利に如かず地の利は人の和に如かず』をあくまで実践したまででござる。対する一走斎は、地の利も人の和も初めから我らに負けておりました」
確かに、江戸という場での地の利は、小典たちの方にあった。加えて、役人である小典には、人の和が集まりやすい。一走斎は、江戸での影響力は嫌われているという一点のみである。
「なるほど。では、一走斎は、天の時だけが頼りであったのか」
「はい。ですが、それも七日後という条件をのんだことで、我らが制しておりました」
七日後という刻が竹野京一郎鳳歩を江戸まで呼び寄せて、小典に修行させることができたのであった。
「むう」
浅木和泉守はそう唸ったきり、しばし、押し黙った。
「……さまの仰る通り、侮れぬ御仁よ」
最初の部分は聞き逃したが、浅木和泉守がそう呟くのを小典は、聞き逃さなかった。
「相分かった。新右衛門、黒葛どの、そして、公連どの。お見事であった」
そう言うと、浅木和泉守は手をたたいた。新たに膳の上に料理と酒が乗ったものが運ばれてきた。
「遠慮はいらぬ。思う存分やってくれ」
浅木和泉守は、再度、猪口を高く掲げた。
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