第8話 早駆け勝負二本目 其之二

 掛け声を途切れさせたため、がくりと走力が落ちた。

 慌てて「ざざざざざざ」と掛け声を出して、体を立て直し集中する。

 先を行く一走斎は、びくともせずに走り続けている。

 沿道の野次馬たちの声援は、地鳴りのように響いている。ほとんど、小典に対する応援だ。有難いのだが、このままでは追いつき追い越すなど不可能に思えた。弱気が顔を出す。すると、己の身体に明らかな変化があった。うまく術が効かないのである。身体がまとまらない、とでも言えば一番近いだろう。「ざざざざざざ」という掛け声を出してもうまくいかないのである。

――いいですか。鞍家さま

 竹野京一郎鳳歩の声がよみがえる。

――術は教えてさしあげられますが、その術を支えているのは己が心胆です。ゆめゆめそのことはお忘れなきように

 今、小典はそのことを嫌というほど味わっていた。どの兵法でもそうなのだろうが、特にこの歩行術は心胆が大きく左右する。

 小典は、己の弱気を口に出してののしりたい気持ちでいっぱいであったが、これ以上、先を行く一走斎から離されるわけにはいかなかった。

 ようやく、坂道を下り終え、神田川を渡る橋のところへ行きつく。橋にも野次馬で溢れかえっていた。この橋はさほど大きな橋ではない。橋の左右はおろか欄干にまで人々が立っている。

「へっ?」

 思わず変な声が口をついて出た。欄干に長身の人物が悠然と立っていた。ひときわ目立つ着物の模様が見えた。橋の上は、川からの風が吹いている。それが、着物の袷をはためかせていた。袷の内側が見えていた。色とりどりの鳥と桃が見事な刺繍によって縫われていた。

 桃鳥であった。

 小典と目が合うとふふふ、と笑ったのが分かった。

 唖然とした小典は、桃鳥と目が合ったまま、駆け抜けた。

 突然、首の後ろにチクリと何かが刺さった気がした。

「え?」

 その直後、己の肉体の内部で起こった現象に驚いた。

 たとえるなら、七輪ほどの炎が急に、たいまつほどの大きさのそれに変わってしまったと言えばいいのだろうか。内側から湧き上がる力が格段に増えたのである。

「ざざざざざざ」

 驚くまま橋を渡って、左に折れて川沿いを直進する。先には、一走斎の背中が小さく見える。

――追いつける

 確信が芽生えた。足が別の生き物のように回転しだす。ほとんど、自分で動かしている自覚はない。

「ざざざざざざ」

 この掛け声に肉体が最初の何倍も反応している。そうか。この掛け声は、肉体をほぐして、素早く駆けるために改めてまとめるものなのだとまざまざと実感した。

 小典のあまりの駆ける速さに沿道の人々から感嘆の声がでる。はやし立てる声がひときわ大きくなる。

 先を行っていた一走斎の背中がぐんぐん近づいてくる。

 一走斎の背中に動揺の気配が見えた。

 後ろすら振り返らないものの明らかに沿道の人々の反応で、混乱しているのが分かった。

――勝機あり

 小典は、一層集中した。

 とうとう、一走斎と並んだ。

 一瞬、信じられないというようにチラリと一走斎が小典を見た。

 神田川沿いの直線を左に折れて再び橋を渡る。大歓声の中、二人は並んで、安藤殿坂に到達した。

 伝通院へ通じる勾配のきつい坂である。ここにも溢れんほどの野次馬たちがいる。しかし、小典は、もう気にならなかった。体の中から力がわいてくることに興奮していたからだ。一走斎に負ける気はしなかった。

 坂を上り始めてすぐに一走斎に変化があった。とうとう、小典が半歩ほど先んじたのである。

 この勝機を逃すまいと小典は、さらに気力が上がった。

 すると沿道の人々の声援に変化が起こった。束の間、静寂の後、割れんばかりの声がこだました。理由は、すぐに小典の耳朶に異質な声が聞こえ始めたことで知れた。

「ぐぐぐぐぐ」

 くぐもったそれは、明らかに小典がつぶやいている掛け声と同じものであると気がついた。つまり、小典が習っていない歩行術のうちの一つなのだろう。本来、路面の状況や坂道の有無、はてや風雨のあるなしでも細かく掛け声や体裁きが異なると竹野京一郎鳳歩も言っていた。今、一走斎はより坂道に適した術を施したのだ。それだけ本気ということなのだ。

「ぐぐぐぐぐ」

 再び、小典の真横に一走斎が並んだ。

 チラリと小典を見た。

 先ほどとは打って変わって、余裕さえ見えた。

「ぐぐぐぐぐぐ」

「ざざざざざざ」

 小典がまた引き離された。

 距離が開いていく。

 前を行く一走斎の背中は、大きく動いている。やはり、坂道用の掛け声と体裁きなのだろう。明らかに小典動きとは異なっている。悔しいが、小典が知っている歩行術はひとつだ。このまま食らいついていくしかない。

 飛ぶように坂道を駆け上がった一走斎が、伝通院の山門前を左に折れた。あとは、道なりに行けば、同心町の直線の道だけだ。

 焦りながらも気持ちを落ち着けて、小典も山門を折れて、同心町へと向かう。

 凄まじい声援は、天地から轟く雷鳴のようであった。それだけ人が集まっていた。出発した時よりもさらに増えていた。

 一走斎との距離は縮まっていない。

 弱気がちらりと顔を覗かす。それを意識的に打ち消す。

「ざざざざざざ」

 掛け声を出しながら己を観察する。

 力は相変わらず沸き上がってきている。

――追いつけるはず

 無心で一走斎の背中を追う。ただ、終点までもうさほど距離はない。

 足が回転し続ける。

 人々の間を縫うように小典は進む。

 とうとう、残り、同心町の直線だけになった。すでに、一走斎の背中は先を行っている。左右の商家の二階部分はおろか屋根にまで見物人が乗ってこの早駆け勝負を見ている。

「旦那っ」

 聞き覚えのある声が聞こえた。

 声のほうへ視線を移すとすぐそばの商家の二階に見覚えのある男の顔があった。

「卯……」

 言葉を飲み込んだのは、掛け声を途切れさせないためであった。しかし、驚きは隠せなかった。小典の一番信頼している目明かしである卯之助が、商家の一階の屋根に立っていた。

 目が合ったまま、小典は、通り過ぎた。

 卯之助は力強く頷いた。

――なんだ?

 心の中で問いかけた。卯之助が勝負の最中に簡単に声をかけるとは思えなかった。

混乱したまま前を向いた。

 その時、両膝の裏と背中のどこかにチクリと何かが刺さった。

「オン!……」

 同時に野太いが聞き覚えのある声が耳に届いた。間違いなく竹野京一郎鳳歩の声であった。

 その直後、小典の肉体は、内側から突き上げる力で火の玉と化した。


 


 










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る