第5話 早駆け勝負一本目

 沿道には多くの人々が群がっていた。

 目を転じれば、建物の二階部分はもとより、屋根にまで登っている人たちもいる。威勢のいい掛け声と何かいい臭いまでしてきた。即席で露店を出して商売している者たちまでいるようであった。

 皆、瞳を輝かさせて注視しているのは、道の真ん中に立っている二人の男である。

 ひとりは、綺麗に反り上げた額が青々として、髷の整ったさまは人目を惹く。童顔ながらきりりと巻いた鉢巻が凛々しい。

 もうひとりは、派手な半纏の背中に数々の武器が千手観音像の如く刺繍され、腕を組んで仁王立ちしているさまは、自信に満ち溢れている。何より人目を引くのは、端折った袴からのぞく太ももだ。異様なまでに発達している。

「絶景かな、とはこのことだな」

 派手な半纏の男――千破剣一走斎は手びさしをして周りを見渡しながらいった。

「そうは思わんか。鞍家どの」

 隣にいる小典に向かっていった。

「……」

「おや?緊張してござるか」

 小馬鹿にしたような物言いに、小典は、ジロリと一走斎を睨め付けた。

「あいにくだが勝負の前にベラベラ喋る趣味はないのでな」

 小典はそう言うと再び前を向いた。

 それはそれは、と一走斎は鷹揚に頷いてみせた。

「では、これから早駆けの勝負。ご両人、準備はよろしい?」

 桃鳥が聞いた。

「いつでも」

 と一走斎がいった。

 小典は、黙って頷く。

「今からこの短棒を放り投げるわ。落ちて地面についたら勝負開始よ」

 桃鳥の言葉がやけに周りに響いた。いつの間にか群衆が静まり返っていた。皆、小典たちを凝視していた。

 小典は、改めて額の鉢巻きをきつく締めなおす。

「八丁堀の旦那!目に物を見せてやってくれ!」

「期待してるよ!」

「この勝負、旦那が負けるわけにはいかねぇや!」

「勝ったらうちの店自慢の蕎麦を旦那に一年無料にするぜ!おっと、おっ母には内緒だがな!」 

 次々と声援が飛んだ。笑いも起こっている。

「鞍家どのは人望がおありで」

 一走斎の皮肉を小典は無視をした。

 桃鳥が群衆にもよく見えるように短棒を高く掲げる。張り詰めたような静寂が辺りを支配する。ゆっくりと桃鳥の手がさがる。一拍、下で止まった刹那、サッと手があがった。

 皆の視線が中空に注がれる。棒が高く上がった。ゆっくりと回転しながら棒が地面についた。

「ハッ!」

「とっ」

 それぞれ吐息を吐き出して、勢いよく一走斎と小典が駆けだした。



 一走斎は、余裕があった。

 先ずは直線の道を徐々に、だが確実に己の肉体を目覚めさせるためだけに集中した。

 自慢の脚力は今日も調子が良さそうだ。

 すでに鞍家という役人の気配は後ろにある。このまま、いつもの通り余裕をもって勝負に勝てそうであった。

 違和感を感じたのは、ちょうど、道が曲がるところに来た時であった。左右の沿道には、多くの見物客によって埋め尽くされている。声援もすごい。耳はほとんど声援しか聞こえてこない。ふと、野次馬たちの声が大きくなる。表情も大きく動いている。

 ――野次馬どもは何を見ているんだ?

 駆けながら一走斎は疑問に思った。先頭を走っている自分ではないことは視線を見ればわかる。江戸の者たちの判官びいきかとも思ったが、ずらりと並んだ見物人たち皆が瞳を大きく見開いたまま一走斎の後ろを見ている。

「まさかな」

 口に出してからチラリと後ろを振り返った。

「ざざざざざざ」

 一間半(約三メートル)程だろうか、鞍家がついてきていた。しかし、驚いたのはそのことではなかった。今までの勝負でも、もっと接近してきた輩はいたし、僅差とまではいかないまでも勢いがあった者はいた。だがしかし、一走斎が驚いたのはそのことではなかった。

 驚きのあまり、走力が落ちていたのだろう、鞍家がまたしても接近してきた。その口からは、相変わらず同じ言葉が漏れていた。

「ざざざざざざ」

 その言葉を口に出しながら、力強く駆けてくる。一見すると意味不明の言葉に聞こえるだろう。だが、一走斎にとっては、意味不明どころか驚天動地の意味のある言葉であった。

「き、貴様!その言葉……」

 言葉を発したため、さらに走力が落ちた。途端に、鞍家にほとんど並ばれてしまった。

 沿道の野次馬たちの声援が一層大きくなる。その声援に背中を押されるようにさらに鞍家の速度が上がる。半身ほど鞍家が前に出る。

 大小の御家人の屋敷を通り過ぎ、緩やかな坂道を下って、神田川を渡る。二人の距離は、一進一退だ。

 神田川沿いの譜代大名屋敷を通り過ぎ、伝通院の山門に通じる安藤殿坂に向かう。

 きつい坂道にとうとう、一走斎の口から言葉が漏れた。

「ざざざざざざ」

 途端に一走斎の脚力があがった。ぐんぐん鞍家を離していく。それまで、どこかふらついていた身体が、鉄の棒を指したかのように安定して、駆けていく。

 伝通院の山門前には人だかりの山だ。大声援は、雷鳴のようであった。

 伝通院脇の道を通り、左に折れると同心町に続く直線の通りだ。沿道にはここにもずらりと人だかりだ。

「ざざざざざざ」

 一走斎は呟きながら駆け抜ける。

 ひときわ大きく声援が沸き起こる。

「ざざざざざざ」

 鞍家のかけ声と気配を感じた。

 一走斎はさらに速度をあげた。

 終着地点は、譜代大名である松平讃岐守の門前だ。

 あと五間ほどだ。

 また大声援とともに後ろからの気配を感じた。

 あと四間。

「ざざざざざざ」

 さらに足に力をこめる。

 三間、二間、一間。

 一走斎は駆け抜けた。

「あ~」

 沿道の野次馬たちからため息に似た声が漏れた。一走斎が勝ったのだろう。だが、一走斎自身は、そんなことどうでもよかった。すぐに身をひるがえし、鞍家という役人の元へ向かう。

 荒く息をついている鞍家の眼前まで迫る。

「貴様、いったいその術をどこで覚えた!」

 わなわなと怒りで体が震えていた。





 


 

 


 

 






 



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