第4話 衣谷十郎道場

「ふう」

 溜息が漏れた。

 すでに日が傾きかけて、西日が世を染め上げ始めたところだ。

 小典は、煩雑な事務仕事を一段落させ、中庭に面するこの廊下まで来たところであった。

 ここから見る中庭の景色が小典は好きであった。奉行所内で下働きで働く勘三がよく手入れをしているし、全てが見渡せて、あるべきものがきっちりと納まっている、そんな感覚を感じさせてくれるこの庭を見ることは、奉行所に勤める中での小典の息抜きのひとつであった。

「溜息なんてついてどうしたの?小典」

「桃鳥さま」

 桃鳥は、ゆっくりと小典の隣に並んだ。

「例の道場の件ね」

 桃鳥の言葉に小典は頷いた。

「ええ。あの時、無理矢理にでも止めればよかったのかもと折に触れて考えてしまって……」

 例の道場の件とは、小典の兄弟弟子である筒丸七左衛門が師範代をしていた道場に現れた道場破りとそれを受けた道場主の甥である、鈴間幸三郎との勝負のことである。当時、小典は、そこにいたのだが、勝負自体を止めることはできなかったのだ。

「貴方が気に病むことはないわ。止めても無駄だったでしょ」

 それはそうなのだが、兄弟子であり、友人の筒丸七左衛門は、その後、責任を感じて、その道場を辞したと聞いた。

「それで、ご病気の道場主と甥の方は?」

「噂によると、道場をたたむ決意だと聞いています」

 道場主は、甥を叱らなかったそうだ。ただ、「そうか」と言っただけらしい。

「惜しいわね」

「ええ」

 なんとも切ない時間が流れた。

「あれから、例の道場破りの……えっと……」

千破剣一走斎ちはやいっそうさいね」

「ああ。そうでした。その千破剣一走斎の行方はやはりわからないままですか?」

「その名の通り走って逃げて行方は誰も知らないわ」

 一走斎は、鈴間幸三郎との一本勝負に大差で勝つと観衆に向かって「俺の勝ちだ!」と勝ち名乗りを上げてから、走り去ったのだ。それに、一走斎は、すでに江戸中の有名無名関係なく多くの道場を破っている。破られた道場の関係者は面白くはないはずだ。恨みに思っている輩も少なからずいるだろう。身の安全のために隠れるのはうなずける。

「また現れますかね」

「おそらくね」

 桃鳥は可笑しそうに小典の顔を覗き込んだ。

「小典、その顔は一走斎に挑戦するつもり?」

「まさか」

 小典は否定した。

「でも、このようなお役目でなければ、七左衛門どのの敵をとりたいという気持ちはあります」

「貴方がそんなことを言うなんて、珍しいわね」

 桃鳥の言葉に、確かに、と自分でも驚いた。いつもなら、南町奉行所同心というお役目が先に立ち、己の気持ちは押し込める。しかし、今回ばかりは、私情が先になってしまうようであった。あの時、道場で見た、七左衛門が悔しさを押し込めた表情が脳裏に焼き付いていた。

「しかし、早駆けで勝敗を決しようなどとよく考えたものですね」

 小典の言葉に桃鳥は頷いた。

「ほんとよね。武具は取らないで、己の足で勝負などとは、負けたほうもどう対処して良いか戸惑うわ。剣術道場の看板に傷はつかないかもしれないけれど、しかし、武芸者として負けは負け。言い訳はどうとでも言えるけれども、内心、面白くはないわね。かといって、表だって再び勝敗を決しようなどとは誰もしないでしょうね」

「つまりは、どうあっても一走斎の勝ち、ということですね」

 小典の言葉に桃鳥は頷いた。

「ふふふ。よく考えたものね。勝負しても肉体的には傷つかないし、負けたほうの逃げ道もある。これから武者修行者には早駆けでの勝敗が流行るかもね。千破剣流ちはやりゅうとかなんとか言って」

 桃鳥の冗談にまさか、と答えつつ、ふと、小典は疑問を口に出した。

「一走斎は、一体いつまでこの勝負を続けるのでしょう」

「さあね。江戸中の道場に挑戦するつもりかも」

 桃鳥の言葉は冗談なのか本気なのか、どう返事をすれば良いのかを考えていると、

「だ、旦那っ!」

 中庭に勘三が駆け込んできた。

「また出たようですぜ!例の道場破り!」

 思わず、桃鳥と顔を見合わせた。

「どこに出たの?」

 桃鳥が聞いた。

「旦那、落ち着いて聞いてくだせぇ。旦那の通っている道場。衣谷十郎さまの道場です!」

 小典は、またしても駆け出すことになった。桃鳥も続いた。


 衣谷十郎の道場は、江戸の北、鬼子母神の近くにある。

 小典が幼いころは、本所の衣谷十郎道場に通っていた。そもそも、旗本である代々の衣谷家は本所に居と道場を構えている。それが、現当主、衣谷十郎柔正いだにじゅうろうじゅうせいが、縁あって鬼子母神近くの豪農、矢中家に請われて道場を構えてから、もっぱらそこで剣術を教えるようになっていたのである。もちろん、本所の道場も先代の衣谷十郎剛守が細々と続けているが、生徒の大半は、鬼子母神の道場に移っている。これは、現当主の道場に通うのが筋だ、との先代の意志でもあるらしい。本所の道場に通っているのは、故あって鬼子母神の道場に通うことのできない者たちか、先代の昔馴染みのみであるらしい。むろん、小典も鬼子母神の道場まで通っているひとりだ。

 小典は、完全に停止する前にひらりと馬から飛び降りた。

 桃鳥もそれに続く。

 桃鳥が馬を出して、小典も乗せてもらえたのだ。

 すでに畑の中に作られた真新しい道場の建物をぐるりと多くの人々が取り囲んで中を不安げに見ていた。小典と桃鳥は、人をかき分け前に出た。

 まだ木の香りが色濃く残る三十畳ほどの板敷きの道場に見知った面々に加えて例の陣羽織を着た人物が仁王立ちをしていた。

 背中一杯に千手観音の如く、四方八方に様々な武具を刺繍されたそれは、見事な織手によるものなのだろう。その陣羽織からも持ち主の気概に反応するがごとく、光り輝いて見えた。

「で?お返事は如何に」

 聞き覚えのある嗤いを含んだ声が言った。

「はて?いかがいたしましょうか」

 こちらも嗤いを含んだ声が答えた。だが、こちらは、どこか楽し気な笑いだ。

「当道場は、他流試合禁止となっておりますれば……」

 最初に問いを発した男――千破剣一走斎は、ふん、とその答えを鼻で笑い飛ばした。

「江戸の逃げ口上はどこも同じだな」

 一走斎は、踏ん反り替えって言う。

「他流試合禁止、当主が留守、病、ほとんどこれに尽きる。挑戦を受けて立つという気概すら感じさせない輩ばかりだ。将軍様のおひざ元の武士がこれでは戦場ではなんの役に立つまい」

 たっぷりと嫌味を利かせている。

「いやいや、まったくのその通りで、これは面目もござらんな」

 頭を掻きながら、悪気もなくそう言う男は、この道場の主――衣谷十郎柔正いたにじゅうろうじゅうせいその人である。

 長身痩躯であるが弱弱しさは全く感じさせない。むしろいかり肩が、より大きく逞しく見せている。しかし、その面貌は、鼻筋が通り、北国の子女を想像させる中性的なそれだ。幼き頃は、寺社仏閣からお稚児さんにと内々に請われた、との話もあったらしいが、無論のこと先代の衣谷十郎武守によって突っぱねられている。それだからというわけではないのだろうが、厳しく武術を仕込まれた、とは柔正本人の談である。

 十間程離れた大木どうしの枝に荒縄を張り、その上で「一つの腰間」という初代衣谷十郎が編み出した低く腰を落とした構えをしながら渡り歩く、という鍛錬法や山に先代と籠り、目隠しをされた状態で先代が投げる手裏剣を躱すだとか、太刀、槍、薙刀はもちろんのこと、弓矢まで持ち出して、受けである柔正は無手にて型通り攻撃を躱す稽古などもやらされたとのこと。あまりの激しさに母親が泣いてやめるように懇願したこともあったという。しかし、そのかいあってか、江戸でも知る人ぞ知る技量を有している、とはもっぱらの噂で他の新陰流の修行者も内々で教えを受けに来るという。

衣谷十郎柔正の腕前は、手合わせしている小典も保証する。底が見えない。計り知れない実力の持ち主だと思う。おそらく江戸でも柔正にかなうものは限られているのでは、と思う。断じて、腰抜けなどでもはったりだけの武芸者などでもない。

「なれば、このまま負けを認めるということか?」

 一走斎が聞く。

「ふむ。それでかまわない」

 柔正が真っすぐに一走斎を見ながら言った。

「えええっ!」

 周りを取り囲んでいた人々から、小典の口からも思わず驚きの声が漏れていた。

「ふふふ。面白い御仁ね」

 桃鳥が可笑しそうにつぶやいた。

 凍り付く人々を尻目に、この道場の主である柔正自身は、その涼しげな表情を崩さなかった。

「ほ、本当にそれでいいんだな」

 さすがの一走斎も虚をつかれたのか動揺を隠し切れないでいた。

「かまわない」

 乱れのない柔正の答えに再度、周りにいた人々が驚いた。

 ひとり、小典は声を出すより体が前に動いていた。

「よくありませんよ、柔正どの!」

 小典は、二人の間に割って入っていた。

「このまま引き下がれば、衣谷流と呼ばれる看板に傷がつきます」

 我慢ができなかった。

 衣谷家が代々伝えているのは、新陰流なのだが、代々の当主や師範たちが工夫を凝らして、それを惜しげもなく門下生に教えてきたためその優れた技と独自性からいつしか衣谷流と畏敬の念を込めて呼ばれているのである。

「先代の剛守どのや先々代、そのまた先師たちが代々築いてきた誇りはいかがなされるのか」

 小典が珍しくまくしたてるのを柔正は静かに聞いていた。

「侍としてはもっともなことだ」

 一走斎が大仰に頷いた。一走祭にとっては、渡りに船であったのだろう。言葉の中に隠しきれない喜びがまぎれている。しかし、小典はそれでも訴えることをやめられなかった。

「これは……困ったなぁ」

 柔正は、頭を掻いて苦笑いをした。

 周りに居る人々が皆、この北国の子女のような面貌の柔正に釘付けだ。次の言葉を待っていた。千破剣一走斎までも。

 勝負を受けるのか、否か。

 静寂の後、柔正の瞳が動いた。

「小典が受ければいいのよ」

 その場にいた皆が振り向いた。

 その男は、悠然と見物人の輪の中から現れた。

 黒の羽織は一目で上等なそれとわかる。二本差し。明らかに役人の格好だが、錦絵からそのまま出てきたようなうりざね顔と柔かい雰囲気が、武張った格好と相まって、どこか奇妙な色気のようなものを醸し出していた。

「あんたいったい誰だ。役人か?」

 一走斎が聞いた。瞳がすうっと細くなる。

「南町奉行所の与力、黒葛太郎右衛門桃鳥よ」

「南町奉行所……」

 言葉とともに一走斎が浅く腰を落としたのを小典は見逃さなかった。臨戦態勢をとったのであろう。

「その奉行所の与力が何用だい」

 一層声が低くなった、一走斎に警戒の色合いが濃い。

「ふふふ。だから、そこにいる小典がこの勝負を受けて立てばいい、と言ったのよ」

「小典?」

 一走斎が振り返り、小典と目を合わす。

「その黒羽織に二本差し。あんたも奉行所の役人か?」

 一走斎の問いかけに小典は頷いた。

「南町奉行所同心、鞍家新右衛門小典だ」

「ほう。それはおもしろい。ではその鞍家どのが俺との勝負を受けていただけるのか?」

「それは……」

 小典は、答えに窮した。自分は、衣谷柔正門下ではあるのだが、一介の弟子でしかない。道場主を代表する身分ではないし、第一、南町奉行所の役人だ。役人である自分が、道場破りとの勝負を受けてしまってよいのか。

 一走斎の口が嫌な角度に曲がっている。逡巡している小典を見下すようにニヤついていた。

「如何でしょう、衣谷どの。この小典に勝負を預けてみては?」

 桃鳥が柔正に向かって提案した。

「ふむ」

 柔正は顎に手を置いて考えはじめた。しばしの静寂の後、

「いいでしょう」

 と言った。

「じゅ、柔正どの……」

「本当にいいのですか?」

「え!?」

 これにはさすがに居並ぶ弟子たちが声を上げた。

 ひとりの壮年の男が膝行しつつ前に出る。先代、剛守の代からの師範代である丹川九一朗楊禅にかわきゅういちろうようぜんだ。

「お言葉なれど、柔正さま。鞍家さまは確かに先代の剛守さまより手ほどきを受けておられる古参の弟子のおひとりであらせられるが、今は、奉行所の同心というお役目がござる。おいそれと勝負の場に立たせてしまっては、後ほど取り返しのつかないことになりかねませんぞ」

 丹川の言い分は、最もである。勝っても負けても、奉行所の体面を汚したなどと言われて、小典自身に罪を着せられることも充分に考えられるし、そうなれば、旗本の衣谷十郎の家にもその累が及ぶこともありえるのだ。

「ここは、この丹川めにお任せ下さい」

 そういうと、丹川は深々と頭を下げた。丹川が勝負する分には道場主の代理として勝っても負けても小さな範囲で済ませられる。

 ふむ、と柔正が小典と桃鳥を眺める。

「小典、どうするのよ」

 桃鳥が聞いた。しかし、どうするの何も勝手に勝負を受けたのは桃鳥である。だが、小典の腹は決まっていた。

「この勝負、拙者にまかせていただきたく存じます」

 力強い言葉に自分でも少々驚いたが、柔正と丹川に向かって頭を下げていた。

「丹川。すまないがこの勝負、小典どのに預けることに決めた」

 柔正は、傍らに控えている丹川にそう言った。

 丹川は、口を開きかけたが何も言わずに閉じた。

「俺さまはどちらでもよかったが、奉行所の鞍家どのが受けてくださるとは恐れ入った」

 言葉とは裏腹に一走斎の嗤いが深くなった。

「では、さっそく作法を決めよう」

「早駆けで勝負であろう」

「おや。ご存知でしたか」

 わざとらしく一走斎が言う。

「江戸中で評判の新手の道場破りだ。知らぬ者などおらぬ」

 小典の言葉に満足したように一走斎はうなずく。

「しからば話が早い。では、早駆けでこの一走斎と勝負でよろしいか」

 小典はうなずく。

「では、一本勝負か、はたまた三本勝負か選ばれたし」

「一本勝負か……」

 小典はしばし考え込んだ。

「三本勝負がいいわね」

 横から桃鳥が口を出した。

 皆の視線が桃鳥へ集まる。

「一本勝負だと圧倒的に一走斎どのが有利よ。しかし、三本勝負ならばこちらにも勝機があるわ」

 桃鳥の言葉に一走斎が声をあげて嗤う。

「この一走斎相手に三本勝負で勝機があるとは。これは愉快」

 重ねて一走斎が聞く。

「では、三本勝負でいいのだな」

 かまわぬと小典はうなずいた。

「刻限と場所はどうする?俺はこの場で今すぐにでも勝敗を決いてもかまわぬぞ」

「七日後がいいわ。場所は、江戸の小石川同心町」

 またしても口を出したのは桃鳥であった。

「小石川同心町?」

「あら?不服かしら」

 一走斎は桃鳥をじっとねめつけた。

「わかったぞ。小石川同心町で思い出した。貴様らそこにいたな。あの幸三郎とかいう坊やの仲間か?道理で見覚えがあると思った」

 桃鳥は、ふふふ、と笑っただけであった。

「まあ、よい。敵討ちということであればそれもまた一興」

 そういうと、一走斎はグッと腰を落とすと猿の如く飛び退った。そしてそのまま、道場を横切ると見物人の頭上を軽々と飛び越えた。

「せいぜい、無駄なあがきをしておくことだな。七日後、大恥をかくがいい」

 捨て台詞を残して、一走斎は風の如く去っていった。その身のこなしの軽さと速さにその場にいた人々の大半が絶望的になっていた。



 









 




 

 



 











 

 


 



 



 










 

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