本棚に並べられたまま、もう手に取ることのない本がみなさんにはありますか? 思い切って捨てるほどの思い入れも、もう一度読み返すほどの愛着もない本たち。読んだときに何を感じたのかももうぼやけてしまって、それでも何かを感じたことは微かに記憶の底に残っている、そんな本。
俺の本棚はそんな本ばかりです。
自分の心というのは意外にそういう本の中に散らばっているのかもしれません。読んでるときただ感情が揺れた、好きな表現が一行あった、時間を潰すために買っただけだった。そんな本ばかりでも、そのページの中に自分の心は染みこんでいるのでしょう。もう開くことはなくても、忘れてきた言葉が、その本の中に微かに残っているのでしょう。
『熊本君の本棚』は、その『忘れてきた言葉』を揺り起こしました。
過去の痛みと孤独。読み手のその影を刺すように熊本君の物語は紡がれます。作者の情熱が伝わる繊細な文章が細かな棘となり、自分の過去が遠く心の中で熱を持ちました。
悲しいのは、自分がわざとその言葉を忘れてきたことを、『熊本君の本棚』が思い出させたことでした。
忘れることを望んだ言葉の中には、苦しみや悲しみだけではなく確かに希望もあった。でも苦しみが重すぎて、希望と一緒に捨てるしかなかった言葉。誰の中にもそんな言葉があるのなら、この小説はその場所を刺す。熊本君の姿にかつての自分を重ね、戦っていた自分を思い出す。
読む人に、熊本君のようにもう一度戦えとは言わない。でも、もう一度思い出してもいいんじゃないだろうか?
生臭い孤独の中に、必死で自分の姿を探していたことを。いつの間にか忘れていた言葉の中に、哀しみの果ての光を見ていたことを。
辛いから忘れた。でも思い出せば、それは新しい希望を紡ぐかもしれない。
熊本君の本棚の中には、その物語もきっとあるはずだから。
人間は綺麗なものが好きな反面、汚いものにも同様に惹かれますが、今作はそのバランスが絶妙でした。
例えば甲斐荘楠音の絵を見る時の感覚に似て、「汚い、おぞましい、でも目が離せない」と読み進めてしまいます。
人間の汚い部分であったり猥雑さがない交ぜになった作品ですが、どことなく品の良さが漂うのも魅力の一つ、作者の持ち味なのでしょう。
また、読んでいる間に何度もルーベンスの“Der Höllensturz der Verdammten”が頭をよぎりました。日本語訳では「地獄堕ち」あるいは「罰を受けた者たちの地獄堕ち」となるようですが、私的に「熊本くんの本棚」に通ずるところのある絵だと思っていますし、岡山の女の中にはこんな地獄が広がっているかもしれません。
是非とも書籍として手に取りたい作品です。
面白かった。まず文章が巧み。引っかかる場所がほとんどない。
大変に面白かったのだけど、でも私はこの物語を他人になんと解説していいのか、それがわからない。物語がわかりにくかった、という意味ではない。そもそも人生にわかるべきところなどほとんどないはずだ。そういう点でこの物語はなによりもリアルだ。
それでも、私が子供の頃に好んだ読書経験というのはこのようなものであった、とも思う。おもしろかった、石に水がしみわたるように、文章がするりと入り込む。読んでいるときに考えることはしない。感じているだけ。言葉にすることで失われるものが恐ろしく、声にはださない。だから幼いころの私は、読書感想文という取り組みを憎んでいた。
小さなころからそうだった。何かに没頭しているうちに、夢中になって、「これおもしろいよ」と声を上げた頃には、周りに誰もいない。ぽつんと取り残されている。
いや、いいのだ、私の話は。でも熊本くんの本棚はそういう物語だ。まつりが。タクミが。祥介が。みのりが。自分の口で語る。人生を、他人を、愛を、虚無を。向こうから何か訓示を与えてくれるタイプの語り手ではない。突き放されている。それでは私は? 自分はいったいどうやって読み解けば、あるいは語ればいいだろうか? 否応なしに心を開かされる作品だ。
物語はみのりという女性が大学生活の中で出会った「熊本くん」という人物を語るところから始まる。熊本くんはあまり多くを語らない、ミステリアスなキャラクターだ。がたいのいい、好男子らしい。文学部なのに本を読まないみのりは、熊本くんの部屋で彼の作った手料理を食べ、いくつかの本を借りて帰る。
あるときお節介な女学生が言った。熊本くんがビデオに出てる。
男同士の、アダルトビデオ。
物語にはいくつかの家族が登場する。どこも問題を抱えていて、すれすれの生活をしている。宗教に入れ込む父親、見て見ぬふりをする母親、病んだ家庭の子供たち。目に見える暴力として、あるいは暴言として、それとも過剰な接触として、いびつな親の感情が子供をむしばむ。
不安定な家庭で育った子供たちはみな一様に他人を信じることができずに、自分の好きなものを好きだということができない。壊れた輪の中でぐるぐると堂々巡りを繰り返し、ときどき思い出したように、外へとはじき出されてしまう。誰もかれも輪の中にいて、ときどきふと口に出した言葉が過去のその人でありまた現在の誰かであったりする。
熊本くんは不幸な循環から逃れることができるのか、それとも。
作中、まつりと祥介が太宰治の『斜陽』を読んでいたのが印象的だった。まつりも本を読み切っていればあるいは? みのりは本を読まないけれども、本を通して熊本くんを知る喜びを知った。熊本くんの体を作ったのは水沢先生で、タクミを作ったのはまつり。でも熊本くんの心を作ったのはきっと、その本棚の中身だったのではないか。
斜陽が好きな人ならきっと好き。本好きの人なら、熊本くんの本棚に興味も沸くかもしれない。読んだ本はその人を形作るし、本棚はまたその人自身でもあるからだ。熊本くんの本棚、おすすめ。
熊本くんになにか一冊、本をお勧めしてほしくなる。そんな物語だった。
作者さん、熊本くんの代わりに、私に本を一冊おすすめしてくれませんか、とぶしつけなお願いをしたくなる。
作品紹介にある通り、本作は熊本くんという男性について描かれたものです。
平凡ではあるものの、ある種の歪さを抱えた家庭に育った熊本くん。
そこを根として、やがて身の回りで起きる様々な出来事から形成されていく彼のパーソナリティが主題となります。
カテゴリにはLGBTやBLが含まれていますが、主題はそこにはありません。
熊本くんという人物を深く掘り下げる際に、彼のバックグランドの一要素として扱われています。
作中に登場する数々の機能不全の家庭と、一方通行だらけの愛。
それまで多くのことに受け身であった熊本くんは、自分の根幹を為しているものと対峙した結果、最後の最後でその両方の望むべき形を手にして物語は終わりを迎えます。
そして大きな代償を抱えつつも、生きることを諦めないと決意します。
読み進めていく上で油断のできない小説だった、というのが読了して最初に出てきた感想でした。序盤から出てくるちょっとしたセリフや名詞、何気なく見える描写が後々のシーンで伏線となって戻ってきます。
二度三度と読む度に新しい発見を楽しむことができる作品だと断言します。
しかしなんと申しましょうか。
人間礼賛的なストーリーが多く見受けられる中で、恐れることなく人間の持つ闇の部分を描ききった手腕には頭が下がります。
現在、37話目の段階でのレビューとなります。
この作品、まだ5話目あたりの時から読ませて頂いております。
まず最初にあまりの文章の巧さにただただビックリします。表現や比喩の書き方が心情やその場の風景・情景をよく表しており、構成も含めてとても読みやすくなるように工夫がなされています。
次にその美しい文章とは真逆な世界観。人間の闇の部分、弱さ脆さ汚さ傲慢さ残虐さ。狂人が当たり前に息をしている世の中。みんなが傷付いて、ある人はそれに呑まれたり、またある人はそれに順応していく人達。途中から普通の人達(今のところ)が出てきてくれますが、それがまた何とも狂った日常をリアルに浮かび上がらせています。
最後にストーリーですが、これがまたあるようでないスタイルです。あえていうなら現代版の夏目漱石「こころ」といった感じでしょうか。もちろん破綻してはいません。そこがこの人の器量なのでしょうが、本当にギリギリ「小説」になる所を狙っている感じがします。そこにまた作者の凄さを感じます。
本当に今まで読んだ事がない小説です。感想としては、はっきり言って頭では理解が追いついていません。が、そこがこの作品にハマってしまっている一番の理由です。何故なら感覚では全て知っていると思わされているというか…。とにかくラストまで付き合っていきたいと思わせてくれた作品です。これからも頑張ってください!