作品触賞
彼の家はテムズ川のほとりにぽつんと建っているあばら家だった。
あばら家。そうとしか言いようのない佇まいだ。トタンの屋根に、女性でも蹴破れそうな合板の壁。勿論チャイムや表札は無い。ぱっと見では人が住んでいるかどうかも分からないが、近付くと玄関近く雑草が踏み荒らされているのが見え、それだけが辛うじて主人の存在を示していた。
「入ってくれたまえ」
彼がドアを開けて中に入る。
きゃー連れ込まれちゃうー、なんてぶりっ子を頭の中に登場させながら後に続こうとして、あることに気付きギョッとした。このドア、もしかして施錠されていなかった?
恐る恐るノブのあたりを窺ってみると、この玄関にはそもそも鍵という機構が存在していなかった。
ロンドン有数の財宝を保管する城としては、あまりに手薄ではないのか。
「一寸待ってくれ、いま灯りを点けるから」
彼は迷う様子もなく、真っ黒な空間に手を伸ばすと、バチンとスイッチを入れた。天井から垂れ下がっている裸の電球が光を灯す。物の少ない部屋が目の前に現れた。
「こんな目だけれど、明かりを感じることはできるんでね」
彼は言い訳のようにそう呟いた。
「こっちの部屋だ。来てくれ」
すたすたと歩きだす。後に続く。
暖色の白熱電灯が、ひどく寒々しい。
「ここだ」
彼はベニヤ板でできた、宝物殿のやはり鍵の付いていないドアを開けた。
「これが私のコレクションたちだ!存分に見ていってくれ!」
彼は両の腕を広げて私を部屋に招き入れた。
そこには五つほどの長机が設置されており、その上に様々ながらくたが所狭しと並んでいた。
私はそれらを大した驚きもなく、無感動に眺めた。
「このメダルはローマ帝国のマクシミヌス帝時代に作られたデナリウス貨だ。 不格好な形をしているだろう?当時は鋳造技術が未発達だったからね」
彼の手のひらを覗き込むと、遊戯用のひしゃげたコインが数枚乗っていた。
「この風景画はシスレーがパリを描いたものだ。生涯を通して印象派技法を使い続けた彼こそが真の印象派画家だと私は思ってるんだが、どう思うかね?」
彼はボロ布が張ってある木枠を優しく撫でた。
「これは1960年代にペルーで発掘された黄金の指輪だ。インカ帝国のものだといわれているが、プレインカ文化のワリ帝国王族の副葬品だという説もある」
そういって彼は不格好な鉛の小さな輪をそっと袖で拭った。
「この――――――
彼は―――――
「これは―――――――
そう言うと――――――
「この――――――
彼の――――――――――
彼は――――――――――――
彼は――――――――――――・・・・・・・・・・・・・………
私が彼の家を後にした時、日付はとうに変わっていた。道路清掃車がゆっくりと私を追い抜く。彼らにとっては既に朝の時間帯なのだろう。
私はあの宝物たちの正体を見て愕然とできるほど純真ではなかった。しかし、彼に真実を突き付けることが出来るほど擦れてもいなかった。
《とある盲目の男が、このロンドンで五本の指に入るほどの財宝を自宅にため込んでいる》
この風説は、私たちにとって全くの嘘っぱちであると同時に、完璧に真実でもあった。そう、少なくとも彼にとっては。
私は今夜見聞きしたことを赤裸々に記事にしてよいものかどうかひどく悩んだ。記事に書いてしまえば彼にこの真実が伝わってしまうかもしれない。この彼にとってはあまりにも残酷な真実が。
いや、そもそも伝えないことが正しいことなのだろうか?彼が高額な詐欺に遭い続けている可能性もある。真実をはっきりと伝えるのが優しさなのかもしれない。
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