セントキャサリン一本釣り
私は先生に別れを告げ、その足でセントキャサリンの例のパブへ向かった。扉を押し中に入ると、緊張がおもむろに高まった。
店内は普通の店とそう変わらない。せいぜいバリアフリーに配慮されて通路が広々としている程度だ。
適度ににぎわった店内から、盲導犬か白杖を携えた客を探す。数少ないイーストエンドのバリアフリーパブなだけあって車椅子に乗っている人は多いが、視覚障碍者はなかなか見つからない。奥へ進む。
いた。見つけた。白杖を机に立てかけた男が一人でビールを飲んでいる。私は急いでビールを注文すると、グラスを持ってゆっくりと男に近づいた。
声が上ずらないように気を付けて話しかける。
「こんばんは。お隣よろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
年のころは60過ぎといったところか。痩せこけていて、お世辞にも健康そうには見えない。背筋はしゃんと伸びているものの、日に焼けしわの深く刻まれた肌が、過ごしてきた歳月の厳しさを物語っている。
身に着けている衣服はどれも古く、繰り返し洗われたものらしくひどくくたびれている。上着の肘についた当て布もかなりすり減っていて、よく見れば白杖も汚れて少し曲がっていた。
率直に言って、ロンドン屈指の大富豪には見えない。それどころか、イーストエンドにおいては実に平凡でありふれた経済状態であるように見えた。
この盲目の男が件の男なのかどうかを、それとなく確かめなければならない。
「こんばんは。私はシャーロットといいます。素敵なお店ですね!私は初めて来たのだけれど、貴方はよく来られるの?」
「ええ、もう何年も。私たちに優しい店はここら辺にはあんまりないんでね」彼は白杖を指して言った。
「そういうお嬢さんはどんな用でこの街に?きいたところこの街の人じゃあないみたいだが」
「少し仕事の関係で」
その後、私たちは飲んでいるビールの銘柄からフットボールの試合予想まで、様々な差し障りの無い話題で盛り上がった。ここまではパブの人間関係の定型文だ。その中で彼についていくつかの情報を得られた。彼はかなりの博識であり、特に歴史・美術分野に対する造詣は大したものだ。暇な日はよく大英博物館に入り浸っているらしい。
「ところでお嬢さん、さっき仕事でここいらまで来たと言ってたが、何の仕事をしてるんだ?よかったら教えてくれないか」
私は困ってしまった。素直に雑誌編集者だと言ってしまうのは簡単だ。ポケットから三流ゴシップ紙の名刺を渡すこともできる(もっとも彼には名刺は意味をなさないだろうが)。だが、もし彼が件の男であった場合、マスコミの名前を出して警戒されるようなことは避けたかった。しかし、だからといって「探偵志望です」ではあまりに胡散臭すぎる。そもそも職業なの?探偵志望って。
結局、
「いろんな仕事で生活費を稼ぎながら、探偵助手のようなことをしています」
と答えた。こうすれば仕事の方に突っ込まれることもないだろう。
「ほお!探偵さん!それは面白そうだ!」
彼の顔が少年のように輝いた。
「きっと色々な事件に遭遇したんでしょう!もしよければ私に聴かせてはくれないかね?」
「いやあ、そんな面白いことばかりじゃないですよ」
私は少し考え込む。
「……同時多発地下鉄ペンギン事件とエスカレーター仙人事件、どっちから聞きたいですか?」
「いやあ、君は若いのにとても貴重な体験を沢山しているね」
「いいえ、滅相もありません」
「小さいころに読んだ探偵小説を思い出したよ。その頃は探偵が夢でね…」
彼の光を失った眼球が、昔日の情景を探すように眼窩で動いた気がした。
「私はまだまだ未熟者ですし、正直辛い!やってられるか!って思うことも多いですけど、それでもそれ以上に魅力があるんだと思います。貴重なものに直接触れたりできますしね」
彼は静かに頷いた。
「ああ。美や歴史的遺物に直接触れるというのは、至上の幸福だよ」
「おや、ご経験がおありですか?」
「……まあ、少しね。
君の素晴らしい体験談のお返しに、少し私の秘密の話をしよう」
かかった。ビンゴだ。私は心の中でガッツポーズを取りながら、表面上は澄まし顔で話を促した。
あとは理解者・賛同者を装って彼の家に上がりこめばいい。私の得意分野だ。
そこから彼に私を自宅に招待させるまでは、一時間も掛からなかった。
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