先生ーーーわが師の奇妙な挨拶

 先生とは、探偵志望としての私の師である。

先生はウエストエンドのベイカー・ストリートにある寂れたパブに出没するミドルだ。

 容姿はのっぽで痩せ型。ナイスミドルと云うには枯れ過ぎていて、ロマンスグレーと呼ぶには疲れ過ぎた印象を見る者に与える。古風なブリティッシュスーツを嫌味なく着こなし、物腰は柔らかで、それに見合うだけの徳性と品性、そして計り知れない知性を湛えている。そして何より皮肉屋で嫌味たっぷりな物言いが、この上なく英国紳士らしい。

 先生は、そこらの探偵真っ青の推理眼を持ちながら、己は探偵ではないと言い張る。その上、先生と呼ばれることすら嫌う。

曰く、

「探偵なんぞ虚しい生き物だ。それに、“先生”はとうの昔に廃業した」

だそうだ。

 彼は己について多くを語らない。



 先生はベイカー・ストリートにあるパブの、いつものお決まりの席に座っていた。

「先生、お久しぶりです!」

 私はなるべく人当たりの良い笑顔を作って歩み寄る。

「やあ、シャーロット。その様子だと飲みに来たわけでは無さそうだな。どうやら相変わらず探偵なんて下らないものを目指しているようだ」

私の浅はかな考えなど軽く見透かされていた。

彼は芝居がかった口調で続ける。

「ときに探偵見習い君。君のイーストエンドでの探し物は一体何なのかね?」

私は仰天して先生の顔を見つめる。

「せ、先生は一体なぜ、そう思ったんですか…?」

「なに、簡単なことだよ」

先生は語りだす。

「君からは微かにC重油、そしてそれ由来のスラッジに特徴的な匂いがした。C重油は主に大型船舶のバンカー…船の燃料の事だが…として用いられるもので、スラッジはそれが燃焼する際に生じる猥雑物だ。

 君からその匂いがしたということは、君はここ数日スラッジそのものか、スラッジに触れる様な職に就く人間の近くにいる時間が多かったという事になる」

先生は続ける。

「となれば後は簡単だ。そんな職業は貨油タンクの洗浄しかない。そしてC重油を用いるような大型船の入渠できるドッグは、このロンドンにはイーストエンドにしか存在しない。職に関しても然りだ」

「で、でも…」

 私は必死に反論をひねり出す。

「それだけでは、イーストエンドに行った理由が探し物だと分かった理由には、ならないですよ」

「それこそ簡単なことさ!」

先生は吐き出すように笑う。

「謎が解けなくて私のところに来るなら、君はもっと不本意そうな顔をするに決まっている。となれば君が請け負ったのは探索だ。どうせ、探し物の手掛かりすら見つからないとか、そんな状況なんだろう」

 私は思わず苦々しい表情になる。

「それに何より…」

「何より、何ですか?」

「何より、世間話をしに来た様子では無かったからな。うわばみの君がパブに入ってすぐに酒を頼まなかったということは」

 私は観念して両手を挙げた。

 先生のこの魔法のような推理力には、毎度のことながらいつも驚かされる。いつの日かこの中年の頭を開いて、機械が詰まっていないか確かめるのが私の密かな夢だ。



 


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