第3話 参

  エッ……、とすんでの所で大声を上げるところだった。


 一体私がこの蝋燭に何をしたと云うのだろうか、そもそも私と君はたった今会ったばかりじゃないか……。 彼は驚きと疑問で頭を一杯にさせた。

 すると、それを察したように蝋はポツリポツリそれでも威厳を持って演説するかの様に喋るのだった。


「だって……だって、私は燃やされると溶けて消えてしまうんでしょう……。そんなの酷いわ。あんまりだわ。私だって色々お喋りしたりしたいもの。それなのに貴方は私の身体を燃やしてしまうのね。……嗚呼、あんまりだわ。人殺しだわ……だからしくしく泣き続ける事しか出来なかったの……」


 と、蝋が云うにはそういう事らしかった。

 成程――蝋の云う事は最もである様にも思える。

 蝋が心を持っている事等あの時の彼には知る由も無かった訳だが。今となっては話は別である。

 彼は恐縮したようにしきりに頭を下げ、ありとあらゆる詫びの言葉を口にすることしか出来なかった。


「今更もう遅いのよ……私はドロドロに溶けて消えて無くなってしまうんだわ……あんまりに酷過ぎるわ……この人殺し……」


 しかし、そうして蝋は再びしくしくと泣き崩れるのだった。打ちひしがれたその様子に彼は憐憫と親愛の念を抱かずにはいられなかった。

 そうしてフトある事に思い至ると、喜び勇んで蝋に告げた。


「思いついたよ。ウン。簡単な事だったんだ。今から君を燃やしている火を吹き消してしまおう。そうすれば君は溶けなくて済むじゃないか」


 彼は子供の様に純粋に顔を輝かせたが、対する蝋の顔色はサッパリ晴れなかった。

 それどころか一層沈んだかのような声で非難がましい視線を彼に寄越した。


「イイエ、イイエ。駄目よ。一度火を着けてしまったら、その炎に命が宿るの……だからそれを消してしまったら私の命も消えてしまうのよ。……私なんて消えてしまえばいいと思っているんでしょう。……この人殺し……」


 そうして三度みたびまたさめざめと嗚咽を漏らすのだった。

 どうやら、蝋燭は仮初かりそめの身体の様で、そこに宿る焔にこそ命が宿っているそうなのだ。

 そうなってしまえば、もう彼にはどうする事も出来ぬ。

 彼は罪悪感で胸が一杯になって、終いには取り返しのつかないことをしてしまったと、嘆き、蝋と同じ様に泣き声を上げるのだった。


「オオ、泣き止んで。御免なさい。御免なさい、もういいの……」


 そんな彼を見るに見かねてか、蝋は優しさの込もった様な声で彼を励ました。

 ちろちろと燃える橙色の光芒が彼を優しく包みこんでいる様である。


「エエ、仕方のないことよ。そうなる運命だったんですもの……私だけが贅沢を云っちゃいけないわ……」

「しかし……しかし……」

「エエ、エエ、もう云わなくていいわ。貴方の気持ちはスッカリ分かったもの。許してあげるわ。……人殺しなんて云って御免なさいね……」


 努めて明るく、蝋は彼を励ますのだった。水戸は心を打たれ、今度は感激でまなじりに涙が浮かんでくるのを感じた。彼は今や、すっかりこの蝋に入れ込んでいた。


 しばらく、沈黙が続いた。

 その間にも確実に蝋の背は低くなっていった。


 やがて蝋がポツリと呟く。


「ねえ。私、死ぬのはチットモ怖くないわ。エエ、へいちゃらよ。でも……でも折角だし、私は思い出が欲しいわ」

「僕に出来る事なら、何でもするよ」


 殊勝気に水戸は相槌を打った。


「貴方……奥さんはいらっしゃるの?」

「ウン。妙子と云う細君がいる」


 彼が云うと、蝋は寂し気に炎を揺らめかせた。


「そう。そうなのね……なら、奥さんの話を聞かせて欲しいわ。ねえ、駄目かしら? 私、それを思い出にしたいの……」


 そんな事でいいのだろうか――と彼はいぶかし気な気持ちを抑えることが出来なかった。

 しかし、他ならぬ彼女の、それも最期の願いのである。

 尚更約束を反故にすることは出来ぬ。

 彼は真っ暗な小屋の二階で臥せっている病床の細君に思いを馳せた。



 先述したように、妙子に抱いた最初の印象は陰気な女――である。

 それは一緒になって七年が経った今でもそう大きくは変わらない。


 まず、妙子は派手な遊びと云うのをやりたがらなかった。

 水戸自身も酒や煙草、ピロポンや女遊びにあまり興をそそられぬ男であったが、全てを完全に絶つことは出来ぬ。

 その事で一つや二つ、細君に云えず墓まで持っていかなくてはならない秘め事もある。

 最も、その事には妙子も薄々気付いている様な気もする。げに恐ろしき女の感と云うやつであろう。


 翻って妙子はと云うと、全くその気も見せぬ。

 所帯を持って七年、秘め事の一つもありそうなものだが、それがサッパリなのである。

 留守中に悪戯心に任せて細君の部屋をそっと探してみたことがあったが何も見つからなかった。

 健全と云えば健全、しかしつまらぬ女であるのも事実である。


 また、妙子は一緒になってこの方願い事の類をした事が一切ない。

 全て彼の云いなりになって、いや、偶に頼み事はするがそれは矢張り家庭の為のものであって彼女個人に益する申し出を未だに一切聞かないのである。欲の無い女なのであろうか。


 極め付けには、何を考えているのか全く判らない女である。

 それを云い出せば、何故彼女は水戸と結婚したのか、そもそも何故水戸も彼女と結婚する気になったのか、それすら判らなくなりそうである。

 ただ、出会って数日で婚約をした事を覚えている。彼女が何故よく知りもしない男の婚約を首肯したのかは、未だに判らぬ。

 彼女はいつもぼうっとしている。

 滅多に笑いもしない。

 一度など、彼が早朝から釣りに出かけ、宵に小屋に戻ると彼女は彼が出かけた時の姿勢のままずっと動かずただ外を眺めていた事があった。食事を取った形跡も無い。

「何をしていたのだ」と問うと、「はあ。お庭の木を蝸牛かたつむりがよちよち上がっていくのを見てたんです」と答えた。

 この時は珍しく、顔に僅かな微笑を浮かべていた。

「直ぐにご飯にしますね」と云って取り繕うように彼女はその場を去った。

 矢張り何を考えているのか判らぬ。

 最も――。そのような細君を彼はそう悪くは思っていなかった。



「とまあ、こう云うのが妙子と云う不思議な女の話なのだ」


 彼はそう話を締めくくった。

 彼が話す間、静江は一言も口を挟まず、黙って炎をゆらゆらさせたりしていた。それが彼女なりの相槌の様だった。

 彼女の背は愈々いよいよ元の半分を下回っている。

 彼は心に針を刺されたかの様な痛みを覚えた。

 やがて蝋が話し出したが、その声は先程より弱弱しいものとなっていた。


「オホホ……。いい話が聞けたわ。いい奥様ね。幸せそうで結構です事……」


 彼はハッとしたが、その声に皮肉の色は無く、蝋はただ純粋に羨望の念を彼に抱いているだけの様だった。

 そうしてまた、沈黙。

 今や静江は喋る事だけでも苦しそうで、それが残った時間があと僅かである事を物語っていた。そうして二、三分程経って、ポツリと


「……私……もう消えちゃうのね……」

「ウン……」

「うふふ……あのね。さっきはへいちゃらだって云ったけど……私、本当は消えちゃうのが怖いの……」


 これを聞くや否や彼は矢庭に立ち上がり、すっかりドロドロになってしまった蝋の元へ駆け寄った。


「ねえ、君。何か……何かお願い事はないかい? 僕に出来る事なら何でも叶えてあげるから、さあ、云ってごらん。云ってごらん」


 急かす様に云うも、蝋は恐縮しきった様に嫌々をするのだった。


「エエ、駄目だわ。きっと駄目に決まってるわ。そう云って貴方はきっと、私のお願いを聞いて出来ないよって云うんですもの。きっとそうなのよ」

「そんな事、云うもんか。云ってごらん。絶対叶えてあげるから。云ってごらん」


 やがて、蝋は到頭とうとう彼の熱意に押された様だった。

 蝋はしばらく沈黙し、考えを頭の中で纏めている様である。

 彼は辛抱強く、しかし焦りではち切れそうな心を抑えてそれを待った。

 炎は益々弱くなり、愈々蝋は燭台の底に着きそうな程である。

 やがて蝋は精一杯甘えた様な声を作って、媚びるように云った。


「私ね、貴方の事気に入っているのよ……」

「ウ、ウン……」

「私、貴女の奥さんになりたかったわ。けれどね。それはもう叶わないでしょう……」

「…………」

「だからね、私……一度でいいから貴方に触れたいの……」

「ウン……いや、しかし……」


 彼はすっかり弱り果ててしまった。

 何と云っても静江に身体は無いのである。確かにそれは水戸には叶えられない願いの様だった。

 けれども、蝋はそれを見越していた――様だ。

 近くに来て――と云うので水戸は顔を近づけて耳を寄せる。

 蝋の声はもう殆ど消えそうな程である。

 湿っぽく、艶を含んだ声で耳朶に囁かれる。

 優しく――しかし意思の込もった声。


「あのね……私、本物の身体が欲しいの……人間の……ネ……」



「――どうすれば」


 無理とも――何故とも――どういう事かも聞かず、彼はどうすればいいかと問うていた。

 静江は悪戯っぽく、嗤っている。


「大丈夫よ。貴方なら出来るわ……」

「私に、出来るのだろうか……」

「出来るわ」


 強い声で、静江は云った。


「今の私はね……蝋燭の仮初の身体なの。でも魂は本物なの。だからそれを本物の人間の身体に宿らせればいいんだわ」


 焔は命の最期を飾り立てるかの様にかつてない程轟轟と燃え立っていた。

 一緒になって、畳に映る彼の影も、激しく揺らめいている。


「簡単よ……さあ、私を持って立って……」

「君を持って立つ……」


 気が付けば、彼は彼女の云った通りに燭台を右手に握り、その場ですっくと立ちあがっていた。

 右手に、狂おしい程の熱。


「ここからは簡単なの……」


 耳元にくすぐったいような囁きが続く。


「私の火……これは私の魂よ」

「……たましい……」

「そうよ。うふふ、いい子ね……これを……」

「これを……?」


 優しく、愛おし気な声。


「これを……アナタの奥さんの身体に宿らせるの……エエ、私をちょこっと奥さんの身体に触れさせるだけでいいのよ」

「…………」

「そうしたら、私は本物の身体を手に入れられるわ。……ねえ、それって素敵なことだと思わない?」


 焔の囁きに、彼は虚ろな目で頷いた。


「じゃあ……行きましょうか……」


 愉しそうに、蝋は嗤っている。

 やがて彼はフラフラと仏間を出る。

 廊下は昏かったが、ランプはいらない。

 右手に携えた赤い炎が明かりとなる。

 廊下の先に、階段。

 見上げると――真っ暗だった。

 二段目に脚を掛ける。

 そうして彼は――暗闇に消えた。


 か細い光がその傍らに嬉しそうに尾を引いていた。

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燃憑く蝋 あずの @azuazuberu

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