第2話 弐

  まんじりとした追想を打ち切る様に水戸は遺影から目を離した。気づけばぼおっと遺影を眺めていたようだ。

 どうやら火が及ぼす温もりに微睡んでいたようである。

 黒い燭台の上に白い蝋が頂き、その先端でちろちろと炎が揺れている。

 自在に形を変えるそのほむらの在り様は、まるで生き物の様であると一瞬錯覚する程生々しかった。

 身体を起こしてみると線香の匂いが服に染み付いていることが分かる。磨り硝子の向こうから外を覗くともうすっかり昏くなっていた。


 山の日没は早い。

 どうやら夕食時の様である。


 と、ここで水戸は細君が床にふせっていることを思い出した。

 妙子は未だ二階で寝込んでいるであろう。このままではいつまで経っても食事は出来ない。どうやら自分で作るしかなさそうである。

 水戸は頭の中で献立を考えた。魚は釣れずじまいだったので、畑で採れたあり合わせでなんとかするしかない。何とか二、三品を頭の中に思い浮かべ、さて作ろうと思ったが身体を動かす気にならぬ。

 力を入れようにも気怠さや倦怠感が勝って一向にその場から立ち上がる気になれないのである。

 未だ眠気も収まらず、どうやら熱っぽさもあるようだった。僅かに眩暈の気もある。気が付けば、悪寒を感じないでもない。

 この寒い中表で魚釣りをしていたのが祟ったのか、あるいは妻に流行り病を移されたのかもしれぬ。そう思い当たると益々この暖かい部屋から動く気が失せた。


 水戸はぼんやりとめらめら燃える蝋の明かりを見つめていた。

 蝋は一寸程溶けて出て、燭台の底に粘度の高い白い海を作っている。黒い燭台と白い蝋が混ざり合い、一つになってゆく姿は、まるで現実と虚構が混ざりあってゆくようにも感じられ、思わず身震いした。


 その時――水戸の耳朶じだを囁くようなか細い声が打った。


 消え入りそうな、それは小さな泣き声のようだった。

 不思議に思い、辺りを見渡すが、仏間に彼以外の姿は見えぬ。この小屋には彼と細君しか住んでいないのだから当然である。

 では――細君か? 

 否、彼女は二階で寝込んでいるのである。

 そもそも、囁きはこの部屋の中から発せられているのだ。三畳程の小さな部屋に人が隠れられそうな場所は無かった。

 しかし、それは絶えることなく聞こえてくる。じいっと耳を澄ましていると、


「しくしく……しくしく……」


 と、やはり泣き声らしきものが認められるのだ。

 恐怖か、あるいは悪寒の所為か、水戸はぶるぶると身震いをした。腕に手をやってみると、毛が逆立ち、鳥肌が一面を覆っている。全身が総毛立っている様だった。


「だ……誰かいるのか」

「しくしく……しくしく……」


 彼の声に呼応してか、あるいはそれは関係ないのかもしれぬ。〈声〉は依然として同じ様にさめざめと嗚咽を繰り返すばかりだった。


 水戸は小さな悲鳴を上げた。


 根が小心な男である。彼は脚を生まれたての小鹿の様に震わせながら、畳の上で奇妙な舞踏を繰り広げるかのようにグルグルと回転し、声の主を必死に探そうとした。歯と歯が噛み合わず、楽器の様にガチガチと聞き苦しい音を鳴らしている。


「だ、誰だ。姿を見せてくれ……」


 すると、誰何すいかの声にピタリと泣き声は止んだ。続いて二三分程の沈黙が仏間を支配する。一切の音が無くなっているが、しかし、水戸にとってはその静けさが耳に痛い程に感じられた。

 それでも、水戸はやや平静を取り戻していた。誰何の声に声を止めたと云う事は、少なくとも話の通じる相手だと判ったからである。

 奇怪な声の主がどのようなおぞましい姿を宿した魑魅魍魎か知れぬが、主はあくまでも人語を理解しているようである。その事が彼に気休め程度の安心を与えていた。

 やがて声は恐る恐ると云った様に初めて意味のある言葉を発したのだった。


「嗚呼、嗚呼、酷い仕打ちだわ……私が一体何をしたと云うの……」


 艶のある、それはどうやら女性の声の様だった。陰気な妙子の声とは似ていない。耳に吸い付くような、それは一種の色気を含んだ妖しげな声だった。

 水戸はハッとした面持ちで声のした方を向き、そして先程以上に身体を大きく震わせた。


 その声は仏壇――それも遺影の方から発せられた様に感じられたのである。


 その意味に気付いた彼は呼吸困難に陥ったかのように胸に手を当て、苦し気にゼエゼエと息を吐いた。


「アラ……一体どうなさったの。そんなに苦しそうになっちゃって。落ち着いてゆっくり息を吸えばスッカリ良くなる筈よ……」


 水戸が驚きの表情で顔を持ち上げたのには、二つの理由があった。

 一つにはその〈声〉が存外にも優しさの色を持っていたことがある。こちらを心配するその声に、彼は真実の気配を嗅ぎ取ったのだった。

 そしてもう一つには、声は確かに仏壇の方向から発せられたのだが、それは遺影からのものではなかったのである。

 てっきり母の写真が冥界へと繋がってしまったんじゃないかしら、と恐ろし気な想像をしていた彼は、安心半分、しかし驚き半分の表情でおっかなびっくり声の居所に視線を運んだ。


「アッ…………」


 視線の先――それを捉え、彼は思わず喉から掠れた声を絞り出した。それは「やっと気付いたの?」と嗤う様にその頂に揺れる焔を一際ゆらゆらと揺すって見せた。


 それは燭台に据えられた白い蝋燭だったのである。



「こ、こりゃあ一体……」


 放心の体と云った様子の水戸に、蝋は優しく諭すように話しかけた。


「オホホ……信じられないと云う様子ね。蝋が物云うのがそんなに不思議かしら……」


 この頃になると、ようやく彼にもこの蝋が人語を巧みに操っている事を認めざるを得なかった。 そもそも、人が隠れる隙間など全くない小さな部屋である。腹話術であるとか、そう云う探偵小説的な仕掛けを施す余地など一寸たりともないのだ。


「キ、君は……一体……どうして……」

「アラ、貴方は人と話す時ご自身のお名前も仰らないのかしら……」


 うふふ、と科を作った様に焔が動き、思わず水戸はその動きに見惚れた。そしてどもったようにつっかえなが


「し、失礼した。水戸和博と云う」


 と喘ぎ喘ぎ零した。

 すると蝋はもう一度、うふふと嗤い乍ら


静江しずえって云うの……」


 と艶っぽくある名前を呟いた。何だか愉しそうな様子だった。

 蝋にも名前があるというのか、と彼は思った。


「……ナ、成程。じゃあ静江さん。聞くが君は何故僕に話しかけたんだい」


 蝋が愉しそうに話すので、水戸はもう少しこの対話を続けてみようと思った。身体の震えはいつの間にか収まっている。

 しかし、これを聞くと蝋は自身の怒りを示すかのように焔を轟轟と息まかせた。

 炎の勢いにつられる様に、ポトポトと物凄い勢いで蝋も溶けていった。

 蝋の背が少し下がった様だった。


「それよ……。嗚呼、なんて酷いんでしょう。なんて悍ましいでしょう。私はこんなに酷い人に会ったことはないわ……しくしく……しくしく……」

「一体誰が君をそんなに悩ませているんだい。教えておくれ」


 すると蝋は、ピタリと火勢を弱めて、漏らす様に一声……。



「……アナタ……」

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