燃憑く蝋
あずの
第1話 壱
秋の暮れのことである。
丁度夕陽が山に呑み込まれ、山間から微かに覗く細い橙色の光芒が彼の背を覆い尽くしてその影を地に長く延ばしていた。黄昏時である。
ここ
故に、村は山脈によって周囲から完全に断絶される。
そのせいか周囲から完全孤立し、独特の――陰気な、それでいて妖しげな――気配を抱くこの村は、一種〈異界〉の様に思われる雰囲気をその内に宿している。
うらびれた、しがない寒村と云ってしまえばそれまでである。
しかし、何故か村を出てゆく者は少ない。水戸も村を出ようと思った事等、只の一度たりとも無かった。
そのような気にならぬ。
何故なのか、それは彼にも――判らない。
非常に閉鎖的な村である。村おこしが行われた例も聞いたことがない。
最も、それは彼が村の地域社会に属していないからであって、実際は頻繁に行われているのかもしれぬ。その点を彼が知る由も無かった。
このように何の特色もない寒村ではあるが、唯一誇れるのはその村の規模である。
彼は二十二年前にこの村にやってきた。そして当時の彼は村の余りの大きさにある種の戦慄さえ感じられずにはいられなかった。これ程までに広大な土地を有す村を未だ嘗かつて見たことはなかったのである。
それは今でも変わっていない。無論、その時からこの村を出た事等無いのだから、当然と云えば当然の話である。そして、金輪際この村を出ることなく骨を埋めるのだろう。
何とはなしに、そう予感している。
寂れた村に見合わぬその広さの所為もあって、二十年以上この村に家を持つ彼も、この村の全てを知っているとは云い難かった。
いや、ともすれば殆ど知らないのかもしれぬ。
それほど漠と広がるこの土地の、更に忘れられたような山の僻地へきちに彼は小屋を構えている。 丁度彼はその居に向かっているところである。
慣れた道程であろうが、やはり四十七と云う歳の所為であろうか、軽く息が上がっていた。
しかし、汗は流れぬ。
晩秋の暮れ時、それも田舎の山道となれば空気は一段と冷える。彼は身震いを一つ起こし外套がいとうを身体に掻きよせる仕草をした。吐く息は白い。
右手に釣り具、左手に鼠色のバケツを携えている。彼は何気なく山を振り向き、来た道を見返してみる。日が沈んだ所為か、すっかり昏くなっていた。
彼のいるこの位置からはから見えないが、山の麓には湖がある。小さな薄緑色の湖である。
この村には御舟川と呼ばれる川が南北に奔っているが、その支流の一つがこの湖に流れ入る。湖では淡水魚がよく釣れる。
彼は今、この釣りからの帰り道であった。
しかし――バケツは軽い。中に蠢くものもいない。今日はさっぱり鳴らなかった。
そうして、しょんぼり肩を落としてとぼとぼ歩いていたわけである。
樹々もすっかり葉を散らして乾いた土に枯葉を落としている。それをかさかさと踏んで歩く姿がまた一層哀愁を駆り立てる。なんとも、身ずぼらしい男であった。
山を進んで三合程いくと、これまでの細い道から一転、やや開けた所に出た。山の頂上を正面に見て、向かって右の奥五、六メートル程先に木組みのその小屋は建っている。
二階建ての、今にも打ち壊れそうな安っぽい山小屋である。
彼は心無しか歩調を速め、小屋に駆け寄った。
這入り口の脇に釣り具とバケツを立てかけ、ほっと一息ついて木戸を左に滑らせる。
「只今ただいま」
半分身体を差し入れて声を掛けるが、迎える声はない。
「まだ――寝ているのか」
呟き、靴を脱いで彼は小屋に這入った。
小屋には彼とその細君が住んでいる。細君は妙子たえこと云う女で、彼と四つ違いの四十三である。一昨日から流行り病で熱を出し、寝込んでいる。
おそらく、今の二階の自室に布団を敷き、横になっているはずである。
病床の細君に、滋養でも付けてやろうと思い立ち、麓まで釣りに出かけた水戸であったが、さっぱり腕が振るわなかっただけにばつが悪い。
少し迷ったが、二階には顔を出さず外套を脱ぎ置いた。居間を通って仏間に這入り、ポケットからマッチを取り出してランプに火をつける。
三畳程の小さな部屋である。僅かに線香の香りがした。彼はこの匂いが嫌いではない。
くしゃみが一つ、部屋に響く。
外套を脱いだからか、それとも更に気温が下がったからか、彼は一段と冷え込みを感じた。
そうしてもう一つマッチを取り出し、火をつける。湿気っていたものか、少々時間が掛かった。
蝋に火を移し、温かさが広がってやっと彼は人心地ついた。
小屋に帰ると、まず仏間でこうして暖を取ることが晩秋から冬明けまでの彼の習慣となっている。
「はあ……」と疲れた様なため息をついて、彼は畳に腰を降ろした。
疲れと温かさに、眠気を感じる。
ぼんやりと仏壇を眺めていると、白黒に印刷されたその遺影が目に入る。四十がらみの綺麗な女性が映っている。それは彼の母であった。
じっと見つめていると、柔和なその瞳に吸い込まれそうな心地になる。眠気が押し寄せてぼんやりとしていたことも手伝って、彼の記憶は現在を離れ、段々と過去に移ろっていった。
線香が――香る。
*
水戸和博は都会に生まれ、至って普通に育った。
人情味を重んずる父親と、快活な母親に育てられた水戸は決して不幸とは云えない幼少期を過ごす。彼は全くもって凡とした人間であった。
高校を卒業した水戸は、やがて市内の呑み屋で働くようになる。都会での刺激的とは云えないまでも退屈のない日々を彼はそれなりに楽しんでいた。
そんな折である。
何を思ったか――水戸の父は自宅に火を放った。
水戸は職場で仲間と遅くまで呑んでいた。この為に災事を免れたが、彼の母親は――焼死した。
連絡を受け、父と母の家に駆けつけた。
そこでは住み慣れた家が轟轟と泣き慄いて、断末魔を上げている。夕陽がほんの目の前に迫ったかの様に視界は真っ赤に染まっているのに、頭の中は真っ白になっていた。
近くで見ているだけなのに身体中が熱を帯びていて、しかし心は凍てつくように冷たい。
焼け跡から、父と母が搬出される。
母は真っ黒に焦げ、それが元々人間であった事等信じられる筈もない姿だった。蛋白質の焦げる、あの反吐が出る異臭に身体をくの字に折った。
父は大火傷を負ったが、命は助かったらしい。後に精神病院へ入れられたと風の噂で知ることになる。
丁度、彼の二十五の誕生日である。
父がなぜあのような行為に手を染めたのかを水戸は知らない。
夫婦仲は上手くいっていたし、さりとて仕事も問題があったわけではなかった。原因と呼べるものは何一つ無かったと云える。
父は善良な人間で、例え何かの気の迷いがあった所でそれに家族を巻き込むとは思えなかった。
魔がさした――。
水戸はそう判ずるしかなかった。
父ではない、父に憑いた〈そういうもの〉の仕業である。そこに父の意思はなく、ただ行き遭ってしまった運の悪さを嘆くしかない。
水戸はそう納得した。
故に、今でも水戸は父を恨んでいない。
それでも、元いた町では確実に暮らし辛くなった。呑み屋の仕事場でこれ以上働くことはできなくなったし、その町にい続ける限りは、どこにいても色眼鏡で見られることは避けられぬ。
心機一転を兼ねて、彼は田舎に移り住む決意をした。
そして水戸は後ろ髪を引かれる思いで町を去った。呑み屋から貰った形ばかりの退職金を使い、電車を乗り継いで当てのない放浪の旅に出た。水戸和博の二十五にして人生初の旅であった。
そうして、どこで見知ったものか――雑誌かあるいは風の噂だったか――水戸は御舟村の名を知った。
小さな駅に着き、これまた小さなホームを抜けて名も知らぬ町のバス停でバスに乗る。
そうして四、五十分程身体を揺られた。バスは山奥へと進んでいく。やがてくすんだ看板の立つ停車場に降り立った。
眼下に村は広がっていた。とても大きな緑に囲まれた村で、ここからではとても全景は見渡せない。一目見て――魅入られた。彼はここを居にすることを決めた。
あるいは、この時彼は村に囚われたのかもしれぬ。
彼は村外れの山に小屋を建て、そこに移り住んだ。山の麓に田畑を営み、近くに湖を見つけたのでそこで魚釣りをする生活を送った。それは彼の唯一の趣味となった。
そんな生活を十五年も過ごし、四十になった時である。
何時もの様に釣り具を背負って水戸は小屋から湖へ降りてきた。
すると、湖の畔で一人の女が立っている。
歳は水戸より僅かに下であろうか、女は瞳を寂しげに伏せ、視線を湖に投じていた。釣り具を持っている様子はない。
興味を抱いて水戸は女に声を掛けた。女はしどろもどろに受け答えをした。陰気な女だな、と云うのが水戸のこの時の正直な印象であった。
妙子と名乗るこの女と、後に水戸は所帯を持つことになった。
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