その空席

陽澄すずめ

その空席

 なぜ、こんなものが、こんなところにあるんだろう。

 その道を通るたび、私は不思議に思っていた。

 緩やかなカーブが連続するその先に、最初は幻のように小さく見える丸い物体。

 ハンドルが切られるごとに右へ左へと視界を横切りながらだんだん大きくなってくるそれは、すぐに幻でも何でもないことがわかる。

 サービスエリアの入り口を示す緑色の標識には、「ハイウェイオアシス」の文字。

 今や助手席の窓のスクリーンをいっぱいに塞ぐそれを見上げながら、私は運転席の誠くんに聞こえないようにそっとため息をついた。

 本当になぜ、こんなものが、こんなところにあるんだろう。

 抜けるような青空に映える、大きな観覧車。

 よもやこれに乗るためにわざわざ高速道路を通る人はいないだろう。ざっと目を走らせた限りでは、色とりどりのゴンドラの中に人影を見つけることはできなかった。

 独りぼっちで立ち続ける観覧車――と思ったら急に哀しくなってきて、私は正面に視線を戻した。

「めぐみちゃん、どうかした?」

 誠くんは顔を正面に向けたまま、目だけでちらりと私の方を伺っていた。

「ううん、なんでもない」

 ひょっとして、観覧車をじっと見ていたことを気づかれてしまっただろうか。そう思うと少し恥ずかしくなった。

 誠くんの車の助手席に座ってこの道を通るのは、三回目になる。

 ハンドルを握る彼の横顔には、正直まだ慣れない。慣れる日など来ないのではないかとすら思える。

 手持ちぶさたになった私は、エアコンの吹き出し口に取り付けられた芳香剤をいじったり、シートベルトのふちを指でなぞったりした。カーステレオからはごく小さくFMラジオが流れていて、耳慣れない外国の歌がとぎれとぎれに聴こえてくる。

 誠くんはそれから何も言わなかった。もともと口数の多い人ではないので、沈黙は特に気にならない。それでも私は身の置き場のない気分で、次々に流れていく案内標識をなんとなく数えていた。

 いくつもの長いトンネルを抜けて、目がちかちかするのにも耳が詰まるのにもようやく慣れてきたころ、目的のインターまで残り一キロであることを示す標識が頭の上を通過していった。

 久々のウインカーの音で、急に現実に引き戻される。

 料金所へ続くらせん状の道で緩やかに重心を振り回されながら、誠くんはあまり車線変更しない人なんだな、などと今さらどうでもいいことを思ってみたりした。



 誠くんは、姉の恋人だった人だ。

 最初に姉から誠くんを紹介されたとき、なんて大らかな雰囲気の人なんだろうと真っ先に思った。

 昔から神経質なところのあった姉だったが、誠くんと一緒のときはいつもにこにこと柔らかい表情をしていた。この先もずっと二人が並んで歩いていく姿をたやすく想像できた。

 誠くんは私を対等の個人として扱った。五歳も年下の女の子、ましてや恋人の妹に対してそんなふうに接する人がいるなんてことを、私は初めて知ったのだった。

 二人が付き合い始めた当時はまだ高校生だった私を、彼は姉とデートに出かけるついでに一緒に連れ出してくれた。三人でのデートが回を重ねるごとに、まるでずっと昔から三人でいるかのような気分になった。

 姉が就職して一人暮らしを始めてからは、私が姉に会うときは誠くんも必ず一緒だった。誠くんがよく姉の家に入り浸っていて、半同棲状態だったのだ。

 もともと仲良し姉妹だったので、離れて暮らす姉と会えるというだけでも嬉しかったのに、ついでに誠くんとも会えるなんて一粒で二度おいしい、と私は思っていた。それを誠くんに言ってみたら、「俺はついでか」などと言って拗ねるふりをした。その様子がおかしくて、私と姉は二人してきゃたきゃたと笑った。

 姉と誠くんは紛れもなく恋人同士だったのだけれど、そこに私が加わってもごく自然なバランスが保たれていた。あたたかい空気がふわりと三人分に膨らんでまるごと包み込むような、不思議な関係だった。


 私にとって誠くんは何かと問われると、ぴったりくる言葉はなかなか見つからない。「お姉ちゃんの彼氏」というのもなんだかしっくりこないし、「お兄ちゃん」とも違う。誠くんは誠くんだった。

 姉の葬式では何人もの「お祖父ちゃんの妹」だとか「お父さんの従兄弟」だとかいう人々と出会ったが、そういう人たちよりも誠くんの方がよほど近い存在だった。





 姉の部屋の片づけは、三回目にしてようやく終わる目処がついた。

 何しろ姉は唐突にいなくなったものだから、部屋はしっかりと人一人が生活しているそのままの状態になっていたのだ。誰も姉が死ぬだなんて準備ができていなかった。あの事故の日以来、父も母も抜け殻のように日々を過ごしている。

 いるものもいらないものも、リスのようにこまごまと整理して溜めこむくせは昔から変わっていなかった。

 テレビボードや鏡台、食器棚などの引き出しという引き出しに整然と物が詰め込まれ、本やCDはタイトルの五十音順に並べられていた。姉の整理整頓の仕方は姉にしかわからないルールがあるらしく、昔姉の本棚から勝手に漫画を借りたことがなぜかばれて怒られたことを思い出した。

 洗面所の棚に化粧水やコンタクトレンズの保存液などが背の順に並べられているところも、姉らしかった。

 姉が生きている間に何度も遊びに来ていたのに、姉がいなくなって初めて、この部屋のあまりの「姉らしさ」にはっとなった。こんなにも姉の気配があるのに当の本人がいないことが嘘のように思えた。

 誠くんは誠くんで、恋人の残していったものをどう整理すべきか思案しているようだった。私たちはほとんど口を聞かず、黙々と片づけをした。



 姉の葬式の日、私は一粒も涙を流さなかった。棺桶に横たわる姉はなんだか作り物のようで、葬式自体が夢ではないかと思えた。

 次々掛けられるお悔やみの言葉に頭を下げるうち、自分が水差し鳥にでもなったかのように感じた。

 両親は事故から葬式までの一連のごたごたで憔悴しきっていた。それでも母は「やることがたくさんあって良かった」と言った。「きちんとしなくちゃいけないうちは、保っていられるから」と。

 静かにすすり泣く声、きれいに並んだ椅子、黒い服を着た人々の行列。

 よく太ったお坊さんの読経が、頭蓋骨の中で反響した。私は視線を落として、黒いワンピースの裾やストッキングに包まれた膝頭や、その上にきちんと重ねられた十本の指をぼんやりと見ていた。全部が全部、あまりにもきちんとしすぎていた。

 誠くんはやはりきちんとした姿勢で、最前列の端の席に座っていた。そしてずっと不思議そうな目で焼香の行列に並ぶ人々を眺めていた。今まで彼のそんな表情は見たことがなかったので、私は少し驚いた。

 そうだ、きっと。

 誠くんの目にも、この「姉の葬式」という現実が夢のように映っているのだろう。そう思って、私はようやく深く息をついたのだった。



 無数のように物があったこの部屋も、一つずつ箱に詰めたり捨てたりしているうちに、だんだんと姉の痕跡が薄れていった。

 最初に片づけのために入った日は、もしかしたらひょっこり姉が帰ってくるのではないかと思えたほどだったが、物がなくなってしまえばここはただの空き部屋だった。

 すっかりきれいになった部屋からいよいよ出て行こうとするとき、下駄箱の上の写真立てに目が留まった。それまでごく自然にその場所に置かれていたそれは、今や完全に異質のものだった。

 写真立てには、私と姉のツーショットが入っていた。半年ほど前に遊園地に遊びに行ったときのものだ。背景に観覧車の脚とゴンドラが写っている。

「あぁ、その写真」

 背後から誠くんが声を上げる。久々に彼の声を聞いた気がした。

「あゆみのやつ、結局俺とのツーショットはあんまり飾らなかったんだよな」

 そう言う誠くんはいつもどおりで、私は小さく苦笑した。


 帰りの車の中では、やはりどちらも口を開かなかった。

 タイヤが道路の継ぎ目をまたぐときの振動音が、やけに大きく聞こえた。

 傾いていく日の光が窓から深く差し込んでくる。それが誠くんの頬に濃い陰を作り出していた。

 視界の端で何かがきらりと光る。あの観覧車だ。行きと変わらぬ姿で、それは同じ場所に立っていた。

「観覧車、乗りたい?」

 突然誠くんに話し掛けられて、私ははっとした。

 夕陽をはじくゴンドラ。誠くんの横顔の輪郭。ふいになぜだか、息が止まりそうになった。

「……うん」

 ウインカーの音が、かちかちと胸に響く。私たちはゆっくりと「ハイウェイオアシス」に入っていった。



 驚いたことに、そのサービスエリアはそれなりに賑わっていた。

 そこには観覧車だけでなく、おみやげ売り場やレストランや小さなゲームセンター、なんと水族館まであった。家族連れで賑わうあたたかい雰囲気はちょっとしたテーマパークのようだ。

「こんな山の中に水族館なんて、作った人の気が知れないなぁ」

 誠くんがぽつりとこぼしたのに、私は同意した。

「ただでさえ魚が水槽に閉じ込められて苦しそうなのにね」

 言ってから、しまったと私は思った。

 彼はほんの一瞬まばたきを止めて、横顔のまま小さくうなずく。

 それは姉がよく口にしていた言葉だった。だからあんまり水族館には行きたくないの、と。

 どうして私はこういうとき、気の利いたことが言えないのだろう。胸の奥がじくりとした。

 私たちはそれ以上水族館のことには触れず、観覧車のチケット売り場へと向かった。


 観覧車は空いていた。それこそ、こんな山の中で観覧車に乗ろうと思う人なんて、あまりいないのだ。

 誠くんはチケット売り場で二人分の料金を払った。係の人に促されて、私たちはゴンドラに乗り込んだ。

 私は、窓を左手にして腰を下ろす。

 誠くんは、その斜め向かいに座った。

 扉が閉められ、ゴンドラはゆっくりと上り始める。

 窓から差し込む夕日が、なめらかに滑るように影の角度を変えていく。

 まるでこの空間だけ、世界から切り取られたみたいだった。

 私はぼんやりと、徐々に小さくなっていく建物や車を見下ろしていた。

 たくさんの車が高速道路を流れていく。みんなどこから来て、どこへ向かうのだろう。少なくともこの道では、誰もが前を向いて迷いなく突き進んでいる。

 私たちは、どこへ向かうのだろう。

 ふと何気なく、誠くんの方を見た。

 彼はまっすぐに顔を向けていた。その視線は、私の右隣に注がれている。

 誰もいないその席に。

 私が気づかないふりをしていた、その空席に。



――観覧車、乗りたい?

 あの日も誠くんは、私にそう尋ねた。

 抜けるような青い空の、あたたかい春の日だった。

 私は遊園地の乗り物の中で観覧車が一番好きだったので、乗りたい、と答えた。やわらかい日差しを受けて、ゴンドラはきらきらと輝いていた。

 抗議の声を上げたのは姉だ。

――やだ二人とも、私が高所恐怖症なの知ってるでしょ。しかもあんな狭いところに閉じ込められる乗り物なんて。

――大丈夫だよ、お姉ちゃん私にしがみついてなよ。

 私が力強くそう言うと、誠くんはぽりぽりと頭を掻いた。

――なんかめぐみちゃんがそういう風だと、俺の立場ないなぁ。

 いつものように少し拗ねたふうの誠くんに、私と姉は大喜びした。

 私たちは三人で観覧車に乗った。

 ゴンドラが上がっていくにつれて、姉は私の右腕を掴む手に力を入れた。

――全然大丈夫じゃん、ほら、下見てみなよお姉ちゃん。さっき乗ったメリーゴーランドが見えるよ。

――やだ、無理! 下なんて絶対見ない!

 姉はほとんど泣き出しそうな顔で、ゴンドラの内側の手すりに視線を固定していた。

――ねぇ、あの遠くの山、まだ雪残ってるよ。

 姉は恐る恐る顔を上げ、私の指さす方へ目を向けた。肩にかかる姉の長い髪がくすぐったい。

――……あ、ほんとだ。

 姉が呟く。

――次の冬こそはボード行きたいな。

 私が応える。

――うん、行きたいね。

 リフトの上で同じように私の右腕を掴んで震える姉を想像してみた。白い息を吐いて、柱の滑車のところのがたがたでいちいち声を上げる姉を。お姉ちゃん、あれうさぎの足あとじゃない? え、どこどこ? なんて。

――そういう訳で誠、運転手よろしくね!

――誠くん、よろしくね!

――えっ、また俺がずっと運転手?

 姉の正面の席で、きゃあきゃあ騒ぐ私たちの様子をにこにこと嬉しそうに眺めていた誠くんは、素っ頓狂な声を出した。私たちはそれがおかしくて、また笑い声を上げた。



 気づけば、私の目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。

 今、私の右隣には誰もいない。

 あの日は確かに姉がいたのに、今はいない。

 ゴンドラが頂点に差し掛かる。

 燃えるような夕焼けが、私の目を焼く。

 恐ろしいくらいに静かだ。

 あぁ、そうだ。

 姉は決定的に、どうしようもなく、いなくなってしまったのだ。


 頑なに私の腕にすがりつくお姉ちゃん。

 助けを求めるような視線を誠くんに送るお姉ちゃん。

 震えながらも、それでも楽しそうだったお姉ちゃん。

 お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん――


 あの日、ゴンドラの中を満たしていたやさしくあたたかい空気は、もう戻ってこない。

 姉はもう、二度と戻ってこない。

 言い逃れようもないほどに、私はそれを理解してしまった。

 あの時交わした約束が、果たされることはないのだと。

 誠くんを見ると、彼も同じように静かに涙を流していた。

 それを目にした途端に歯止めが効かなくなり、私はわあわあと声を上げて泣いた。

 ぽっかりと空いた心の穴から激しく脈を打つように哀しみが溢れ出す。それは透明な雫となって、止めどなく流れ落ちていった。

 ゴンドラはゆっくりと下っていく。

 山の向こうからは、夜の帳が徐々に迫ってきていた。





 家に着くころには、辺りはすっかり暗くなっていた。

 観覧車を降りてからも私たちはあまり口を聞かずに、それでも同じ空気を共有し続けていた。

 姉の部屋から持ち帰った荷物は、二人で家の中に運び入れた。うちで夕飯を食べて行きなさいという母の申し出を、誠くんは丁寧に断った。

 じゃあねと短く手を振って、彼は運転席に乗り込んだ。

 車が闇の中に走り出す。

 見慣れた横長のテールランプが遠ざかっていく。

 突き当たりでウインカーが点滅して車は角を曲がり、とうとう見えなくなった。

 そのとたん、胸がきゅうっと締め付けられるように苦しくなる。

 私ははっとした。

 この感情の正体に、気づいてはならない。

 しんと冷えた玄関の灯りの下で、私はしばらく立ち尽くしていた。



 自室に戻った私は、姉の部屋にあった写真立てを自分の机の上に置いた。

 楽しそうに笑う、私と姉。観覧車から降りた後に撮ったものだ。

 以前、私も姉に訊いたことがある。どうして誠くんとではなく、私と写っている写真を飾るのか、と。

 すると姉は言った。

 だって私とめぐみがこんなに楽しそうに笑っているんだから、カメラマンは誠だってわかるじゃない、と。


 誠くんにはもう会わない方がいい気がした。

 私と誠くんの間には、決定的に姉の存在が足りなかった。

 彼と一緒にいると嫌でも思い出してしまう。姉がいたことを。そしていなくなったことを。それはきっと彼も同じだろう。

 姉抜きにして、私と誠くんが何らかであってはならないのだ。

 誠くんの車の、姉の指定席だったシート。やはりその席は、私には相応しくない。

 彼に対する感情を、何と呼ぶのかは知らない。

 でもこれだけは言える。

 あんなにあたたかくて、自然で、やさしい気持ちを、この先もう一度手にすることは恐らく難しい。

 姉と誠くんと三人で過ごした、奇跡のような日々の記憶。

 それは観覧車のゴンドラに乗って、きっと私の中から一生消えることなく、くるくると回り続けるのだろう。



―了―

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