晩夏──⑩

 昨晩の曇り具合が幻だったかのようにすっかりと晴れ渡った空の下をエコは歩いていた。

 太陽が中点に差し掛かろうとするこの時間帯。かつては人間たちの住宅街であった東地区の大通りはケダモノたちの息吹で活気づいていた。まばゆい日差しが降り注ぐアスファルトを大荷物を抱えた巨大なミノタウロスじみたケダモノが行き交い、四本腕のカエルが路端でブルーシートを広げてニワトリを解体して内臓を長い舌で舐め回し、特殊な粘液で鶏肉の腐敗を防いでから道行くケダモノたちに販売している。彼はその場で燻製をつくるサービスもおこなっているようだった。

 修道服姿のエコは背中にバッグを背負っていた。

 バッグの中身はメーチェの頭蓋骨だ。

 メーチェの腐りきった遺体を骨の髄まで貪った後で洗浄処理を施したため、しゃれこうべには脳髄の痕跡や乾いた肉片などはまったくこびりついていない。きれいに磨かれた人間の──女の子の骨。遺骨を穴に放り込む前に教会のそばを流れる小川でエコが遺骨の一本一本を丁寧に手洗いしているためだ。それが死者への手向けであり、礼儀であり、哀悼にも通じる彼女なりの敬意を込めた儀式だった。

見た目よりも軽い少女の頭蓋骨をおぶいつつ、エコは朝食の席でのやり取りを思い出していた。

 固めのパンと温もりをたたえたシチューを前にして、毎朝の感謝の祈りを捧げたあと、エコはメーチェに、昨晩に人間たちの都市から訪れた仮面の調査員について話したのだ。

 彼がメーチェを探していること。

 メーチェの生存を確認できたら保護することも視野に入れていること。

 彼の保護下に入れば人間社会へ帰還できる可能性のあることなどをエコは包み隠さず告白した。

 メーチェは頑としてノーを告げてきた。取り付く島もなく「それはダメ」と首を横に振るばかりだった。

 メーチェは外界の人間とは、だれであろうと会いたくないという。彼女はその理由を語ろうとはしなかった。外の世界には『幽霊を見かけたら即刻ポリスへ通報すること』という法律があるのだ。メーチェはそれを恐れているのだろうとエコは思う。

 メーチェが幽霊と化していることを知ったら、あの捜査官はどのような反応をするだろうか。図書館の猫型人工知能からえ得た情報によると、幽霊は電撃に弱いという。

 炎や毒、風などを操るケダモノはマリアヴェルに存在するが、電気を使用するケダモノなどエコが知る限りは存在しない。電流はあらゆる生物に対して痛烈なダメージを与えてしまうため、わざわざ諸刃の剣を選んで使う物好きなケダモノはいないからだ。

 しかし、人間は違う。人間は電流を手足のように使いこなすという。

 火を吐くサラマンダーも、強力な毒で捕食対象の自由を奪うゾゾムカデも、シルフもウンディーネも風や水といった媒体を特化して使いこなす腕に長けている。基本的にケダモノはスペシャリストであり、逆にいえばそれ以外の属性にはまるで疎い。

 ところが人間は電気どころかそれらすら十把一絡げに操ってしまうという。小学生だったころ、北地区の工場でウォーターカッターが鉄板を切断する様子をエコとともに見学した水の精ウンディーネは「もう人間だけでいいんじゃないかな」と気弱な発言をしていた。

 ドライアドハーフであるエコも植物操作や虫の使役といった能力を使いこなすことができるが、その反面腕力に劣り、知能で秀でているわけでもなく、空も飛べず、ボコボコと子供を産めるわけでもない。その点はほかのケダモノたちと異ならない。算数や理科も小学生程度の知識しかなく、電気の扱いかたさえよくわかっていないのだ。対し、あのEU警察からの使者は手のひらから電気を放出させていた。もしゴーリー捜査官がその気になれば……。

 エコは頭を横へ振った。

 まだメーチェが幽霊と化したことはバレてはいない。その点さえ黙秘を押し通せば大丈夫なはずだ、余計なことを告げる必要はない。それに彼の口からケダモノたちに「教会に幽霊がいる」という情報が漏れない可能性はゼロではない。メーチェのためにも、幽霊うんぬんは伏せておかなければと思う。

たくさんの笑い声が遠くから聞こえてきた時、エコは空耳だろうと思った。その陽気な笑い声は東ゲートの方角から聞こえてきたのである。東ゲートは先日の一件によって野次馬たちが好奇心で近づかないようにケダモノ払いがされているはずだ。間違ってもバカ笑いが聞こえてくるはずなどない。

それなのに次は山から吹き降ろす風に乗って手拍子のようなリズミカルな音まで聞こえてきた。それにクラシックギターの音色まで。

 どう考えてもおかしい。

 エコが胸騒ぎを覚えつつ足早に東ゲートへと向かっていくと、さらに歌声のようなものが聞こえてきた。発声法や声音からして人間の男性二人によるデュエットのようだ。


 ~ロビンソン夫人 あなたに伝えたいことがあるんだ

  神さまはちゃんと あなたに祝福を与えているんだよ~


 聴く者の耳に溶け込むような澄んだ歌声だった。二人で歌っているとは思えないほど見事な調和のとれた和音に、哀愁を感じさせるクラシックギターのトーンが絡み合い、音だけで透明な世界をイメージさせるほどの歌唱力。人間の声。東地区の片隅に響き渡る歌声に混じって、笑い声、陽気なおしゃべり、手拍子が聞こえてくるのだ。怒鳴ったり、がなったり、暴れたりといった揉め事とは程遠い、まるでお祭りのような……。

 忙しなく交差されていたエコの脚のペースが落とされた。響いてくる歌声を耳にしているうちに気持ちは落ち着きを取り戻していた。

 ほんの少し走っただけで肌がじっとりと湿り気を帯びてしまっていた。南から北へ注がれていく海風が修道服の裾から忍び入って全身を駆け巡り、体温をうばっていく。頭のベールが風にすくわれて軽やかにはためいた。

 大海原を歩いている錯覚すら覚えつつ、エコは足取り軽やかに東ゲートに到着した。

 なんとまあ、和やかな光景だろう。

 いかつい筋肉をぶら下げた肉食タイプのオスのケダモノたちが輪になって踊り、やや離れた木陰ではメスのフクロサギたちが談笑している。鉄製の門の前で昼寝をしているのは、先日ゴーリー捜査官からコテンパンにのされたサンドワームだった。土にまみれた彼の体皮を小鳥がついばんでいる。

 小さな広場の中央から男性二人組のデュエットが聞こえてきていたが、そこに人間の姿は見えず、代わりに一台のバイクが停車していた。どうやら歌声はバイクに内蔵されているスピーカーから流されているものらしい。

 バイクの後ろには鉄製の荷台らしきものがくくりつけられていた。荷台にはビア樽が六ケースも積み込まれている。エコは目を疑った。ビア樽なのだから、中身はお酒だろう。どうしてお酒がこんなに。マリアヴェルではお酒は高級品なのに。わざわざ市外から運ばれてきたのだろうか。

 どっと喝采がきこえたので振り返ると、広場の中央からやや離れたところにケダモノたちが車座となって座っており、その中心に黒の甲冑に身を包んだゴーリー捜査官がいた。オスのケダモノたちに囲まれて身振り手振りを交えながら談笑している。昨晩はあれほど剣呑とした雰囲気だったのに。

 門番たちと殺しあいしかけた男性は、たった一日でいとも容易くケダモノたちの心を掴んだらしかった。

 ゴーリー捜査官は、離れたところで呆然と立ち尽くすエコの存在に気づいたらしく「ちょっと待ってね、メインゲストが到着したようだ」と断りを入れてからゆったりとした足取りでエコのほうへと歩み寄ってきた。

「いやぁ、ご足労さまです。人間はマリアヴェルに入っちゃいけないなんていうルールができたせいで、自分の足では回収に迎えなかったのが心苦しいかったですよ。昔はこんなことはなかったんだけどねぇ。で、そのバッグが例の?」

 ゴーリー捜査官がエコの背中のバッグに視線を送った。エコは軽く挨拶をすませてからバッグのチャックを開いた。ゴーリー捜査官は黒いマスクの下で、タオルに梱包された少女の頭蓋骨を見てどのような表情をしているのだろうか。

「ご協力感謝しますよ、シスター。ふむ、保存状態は悪くないようだね。頭蓋の一部が破損して歯が欠けているようだけれど、これなら鑑定しやすいでしょう。三十分ほど時間をいただいてもいいかな」

「……すみません。それにあたって、ひとつお願いがあるのですが。用がお済みになりましたら、その骨を返してはいただけませんか」

 エコの胸中は綱渡りも同然であった。遺骨の返納の要求は、つまりはエコが少女の骨に執心していることを示すに他ならない。人間の捜査官から腹を探られるのは望ましくないが、メーチェの遺骨の保管はホーリースター教会でするべきだというのがエコの見解であり、よそ者の手に委ねるべきではないと思っていた。

 が、ゴーリーは拍子抜けするほどあっさりとエコの意図を汲んでくれたらしかった。

「この骨を? もちろん返すとも、いまからおこなう鑑定が終わったらね。我々の仕事は証拠に基づいた情報の収集であって、そのデータさえ確保できれば物証そのものに大きな意味はないんだ」

「そ、そうですか」

 てっきりノーと断られるか、あるいは理由を問いただされると踏んでいたエコは胸をなでおろした。その油断した喉元へゴーリーが質問を突き刺してきた。

「ちなみに遺骨にこだわるのはやはり宗教上の理由かな。それとも個人的な事情で?」

「え? ええっと……ど、どっちでしょうね」

 エコの間の抜けた返答にも、ゴーリーは「んん~、初々しいねぇ」とよくわからない感想を述べただけで、怪訝そうな気配ひとつ漏らすことなかった。

 彼はエコからメーチェの遺骨を受け取ると、まずはそれをバイクの上へ安置してから腰にぶら下げていたカメラで数枚の写真を撮り、さらに頭蓋骨を裏返してまた写真を撮影し、さらにカメラのレンズからまっすぐに照射されている緑色の光線をドクロの歯と眼窩、鼻孔と耳孔へと舐めるように滑らせた。緑色レーザーが頭蓋骨の特定の部位へあてがわれるたびに、カメラからコミカルな電子音が鳴り響く。彼はときおりじっとカメラを覗き込んでは左手首のベルトへ向かって言葉を発していたが、エコには彼がなにをいっているのかさっぱりわからなかった。

 エコがゴーリーの遺骨解析を待っているあいだに、バイクから流れている二人組の男性ユニットの歌が変化していた。さきほどの明るいノリとは打って変わって、ややスローペースで物寂しい曲調。


 ~その日の糧を得るために 戦うボクサーはリングに立つ

  だが彼が忘れることはない

  だれもが彼を這いつくばらせ 怒りと惨めさにまみれて

  「もうたくさんだ! おれは故郷へ帰るんだ!」

  と叫ぶまで切り刻もうとしていることを

  それでもボクサーの戦いの日々はいまも続いているんだ~

 

「はい、終わりました。待たせちゃいましたね」

 エコが歌に聞き惚れているあいだにゴーリー捜査官の遺骨鑑定は終了したらしかった。彼は鹿爪らしい気配を漂わせつつ、金属製のマスクに覆われたあごを指先で撫でた。

「んむ。疑う余地はなさそうだなぁ。この骨の主は年齢、性別、人種、体格まで目撃証言と一致しているし、シスターの説明とも矛盾なく噛みあいますね。そうかぁ、やっぱり少女は亡くなっていたのか。残念な結果になってしまった……あ、シスターは少女の延命に尽力してくれたようですし、彼女の死については、なにひとつ非はありませんからね。いやホントに、気にしすぎないでね」

 彼の言葉の片鱗からエコを気遣う気配がにじみ出ていた。先日はあえてメーチェを看取った晩の詳細を省いたが、もしかしたら彼はエコがメーチェの死に対して責任を感じていることを見抜いたのだろうか。

 いまなら質問をしてもいいかもしれない。

「あの……この少女の名前はなんというのでしょうか」

「ん? ああ、まだ話していなかったっけ。メーチェというファーストネームらしい。ファミリーネームはないんじゃないかな」

「名字が、ないんですか?」

「そういう出生の子は、世の中にけっこういるのさ」

「では、彼女の家族は?」

「家族はいなかったんじゃないかなぁ。この子がMS(メシア・ステート)に奴隷として身請けされるまでの経歴が一切不明なんだもの。もっとも、家族がいたとしてもいまさら確認を取るのは不可能だろうけれどね」

 エコは息を呑み、大きな瞳を痛ましそうに細めた。

 MS(メシア・ステート)。世界でもっとも悪名高いカルト教団のひとつだ。

 頭のネジの外れた教祖の命令により、数十万人もの信徒たちが連日のように国境を股にかけて人間爆弾や細菌兵器を用いたテロをおこなっているという。人身売買や武器の密輸、麻薬やダイヤモンドの密売などにも手を染めており、世界中から蛇蝎のごとく忌み嫌われている宗教である。

 メーチェがその教団で奴隷として日々を過ごしていたとは……しかし、それならば彼女の無教養も粗野な振る舞いも説明がつくとエコは思う。そして、メーチェがマリアヴェルに命を賭してまで侵入してきた動機も見当がついた。

 メーチェは逃亡奴隷だったのだ。

「あの……この頭蓋骨の少女が、とある放火殺人事件の重要参考人だとおっしゃいましたよね。いったいどんな事件だったのですか。MSとどういう関係があるんですか」

「ん? んー」

 ゴーリー捜査官は口ごもってから、

「あなたは知らないほうがいいです。人間同士の諍いにケダモノが巻き込まれるべきじゃないからね」

 その言葉が純粋な配慮からくるものだとエコは察したが、どうしても気になった。

 人間同士の諍いとはなんなのか。もしかしてメーチェはメシア・ステートとなにかしらの争いごとに巻き込まれていたのだろうか。

「お気づかいありがとうございます。ですが、わたしの身体には半分ですが人間の血が流れています。それにここまで関わりましたし、肝心なことをなにも知らないままではどうにも気になってしまいまして」

 食い下がるエコの言葉を受けたゴーリー捜査官は、広場でどんちゃん騒ぎをしているケダモノたちの様子をうかがうような素振りを見せてから、やや声を潜めた。

「メーチェ本人から詳しい話をきけなかった以上、すべては憶測の域を出ないんだよね。放火殺人についても目撃証言と状況証拠ばかりで、実際に彼女がやらかしたことかどうか怪しいもんだしさ。ただ、とある人物の生死について白黒をつけるために彼女の証言が欲しいところだったんだよねぇ。捕虜にした信者たちを尋問しても知らぬ存ぜぬを貫きとおすばかりでさ。その真実さえ見極められれば危険分子たちの戦意を根底から削げそうだったんだけど……まあいまさら詮無いことだね。いまは、彼女の死を確認できただけでも収穫とさせてもらいましょう」

「……その、とある人物というのは、どんなひとですか」

「そこから先はあなたの安全のためにも、いまは知らないほうがいい。とはいえ、いずれは必ず我々の手で真相が暴かれて世界中のニュースで流れるはずだよ……とはいっても、きみたちケダモノの生活とは関係のない話だから、忘れてちょうだいね」

 いまいち要領を得ないことをいうと、ゴーリーは広場にたむろする人外たちを振り仰いで声を張り上げた。

「おおい、ケダモノ諸君。名残惜しいけれどそろそろぼくは御暇するよ」

「えー」

「なんだよ、もう帰んのかよ」

「またこいよー。酒もってなぁ」

「次にくるときゃ東地区のゲートからこっそりこいよぉ。ほかの地区だと門前払いされるぜ」

 と、銘々に声をかけると、ゴーリーは柔らかな口調で、

「ええ、またぜひ」

 と告げると装甲車じみた黒色のバイクにまたがった。バイクのスピーカーから流れる曲調がふたたび変化した。ギターを中心とした物悲しげな音色とデュエットから、ピアノを伴奏にした静かな歌へと。


~ぼくはいつもきみのそばにいる

 辛いとき 友達が見つからないときに

 ぼくが 激流の川にかかる橋になって

 きみを救い出してあげよう~


「あ、そうそう。もうひとつだけいいかな、シスター・ランチェスター。ここのケダモノたちにもきいて回ったんだけれど、有力な情報を得られなくてさ。こういう花を、この街で見たことないでしょうかね」

 ゴーリー捜査官はバイクにまたがったまま左腕のベルトに巻きつけられている端末を操作して、その小さなディスプレイに赤みがかったオレンジ色の花を映し出した。

 ケシの花だった。

 エコはそのビジョンを頑なな瞳で見据えてから、ふっとため息をついた。

「その花のことでしたら存じています、ゴーリー捜査官。ケシですよね」

「えっホントに? いやぁ、シスター・ランチェスターはなんでも知ってて助かるなぁ。久々にマリアヴェルまで足を運んだのはさきほどの少女の行方を捜索するだけでなく、じつはこの花の運輸ルートを探ることも目的だったんだよ……ふむふむ。その面持ちから察するに、シスターはこの花がどういうものかご存知なようですね」

「……はい」

「なら話が早そうだ。詳しい事情をおうかがいしても? この街のどこで咲いていたか、その花の管理者はだれか」

 そういってバイクのエンジンを切って降車したゴーリー捜査官へ、エコはたずねる。

 エコはすべてを告白した。狐人の三日月からケシの栽培を依頼されたことも、その花の実態を知らずに咲かせたたのち、すべて廃棄したことも包み隠さず。三日月から取引について他者へ伏せておくように言い含められていないし、麻薬の成分となる花の所在を隠し立てする意味も見いだせなかったからである。なによりエコは、目の前にいる鉄仮面の男のほうが三日月よりも信用が置けると判断したのだった。

 ケシの花と三日月についての情報を一渡りたずね終えたゴーリーは、

「ふふふふ。ありがとうシスター・ランチェスター。いやぁ、本当に助かっちゃった。じつはマリアヴェルから近隣の街へのごく小規模の流通ルートがすでに構築されていることは把握してたんだけど、なるほどねぇ、その三日月って狐人の仕業か。MSの麻薬部とのパイプ役さえ暴ければだいぶ捜査が進展しそうだ……あ、当然ですが、あなたが情報提供者であることは伏せておきますからご安心くださいね。それと、もしほかに思い出したことがありましたら、EU警察のゴーリーにご連絡を。情報提供はいつでも歓迎します」

 というとゴーリーは自分の頭に両手を添えて、頭部を保護している鉄仮面を脱いだ。

 ゴーリー捜査官は白髪の白人男性であった。

 年齢は50歳半ばくらいだろうか。エコに初めて見せた素肌はわずかに日焼けしており、普段から笑顔でいることが多いのかほほには笑いじわが浮かんでいる。右側の耳から鼻にかけて白いあざが走っているが、古傷だろうか。彼のブラウンの瞳に浮かんだ穏やかで理知的な光がエコを見据えている。首周りの太さからすると、その老体に似合わずなかなかの偉丈夫のようだが、それにしては頭部のサイズが小さめなのがアンバランスな印象だった。真ん中分けされた短めの頭髪をボリボリとかいて「あー、暑かった」とのたまう人間の捜査官に、エコは静かに語りかけた。

「あの……ヘルメットを脱いでも大丈夫なんでしょうか? この街ではその仮面が命綱だと、たしか先日……」

「いいんです、いいんです。もうここのケダモノたちとは友人になりましたからね。友人を警戒する必要はありませんし、いつまでも素顔を見せないのは失礼にあたるでしょう。ともかく、あなたのおかげでたくさんの人間を阿片の被害から未然に救うことができそうです。では、ぼくはこれで失礼しますね。ほかのみんなも、またここに遊びにきたときはよろしくね」

 ゴーリーはそういってふたたびバイクのエンジンをかけると、今度こそ錆びたゲートを通ってマリアヴェルを去っていった。

 雑草の生えたあぜ道を大型バイクで器用に駆け抜けていく人間の捜査官の背中に、エコは深々と頭を下げた。

 客人が去ったにもかかわらずオスのケダモノたちは酒盛りを続行するらしく、長い胴体を交差させながら踊ったり、スピーカーから流れていたデュエットを真似て歌ったりしている。この宴会はあと数時間は終わらないだろう。そんな光景を眺めながら、エコは思う。

 メーチェはメシア・ステートから逃亡してきた奴隷だったからこそ、自分の出自を明かしたがらなかったのだろう。国際的カルト教団にせよ、逃亡奴隷にせよ、平穏に暮らす民衆からすれば眉をひそめられる存在には違いないのだから。

 メーチェはケシの栽培をさせられていたことがあるといっていたし、地雷が埋まっている地域で生活をしていたような口ぶりでもあった。テロリスト集団のメシア・ステートの領域であれば腑に落ちる話だ。そんな環境であれば、ハサミを握ったこともオシャレをしたこともないのも当然といえよう。彼女がときおり覗かせる凶猛な一面は、MSのよくない影響を受けてのものかもしれない。

 ただ。

 少なくとも。

 メーチェは、エコに迷惑をかけたことは一度たりともないのだ。

 むしろメーチェがきっかけでリィラという友人もできたし、なにより彼女を育てることで教会での生活に一輪の花が添えられたような、張り合いのある日々になった。

 メーチェが逃亡奴隷だとして、メシア・ステートがわざわざマリアヴェルにまでメーチェを追いかけてくる可能性が皆無だし、よしんばケダモノシティへきたところでおいそれと入国できるはずもない──相手がゴーリー捜査官のような重装アーマーを装着しているのであれば話は変わってくるだろうが。

 ゴーリー捜査官。

 もしかしたら、メーチェが幽霊と化していまもホーリースター教会で暮らしていることを彼に伝えてもよかったのではないだろうか──という考えが、ちらとエコの思考をかすめた。が、それを伝えたところで、事態が好転するとは思えなかった。ゴーリーはマリアヴェルに侵入できない身の上だし、メーチェもおいそれと屋外へ出られない。なにより肝心のメーチェが人間社会に戻りたがっていないのだから。

 ともあれ、ここまでメーチェの事情を知ったからには、彼女の過去を本人に問いたださないわけにはいかないだろう。エコはそう腹をくくった。

 彼女は少女の頭蓋骨をバッグにしまってから、飲み干されて空っぽになったビア樽とぐでんぐでんに酔っ払ったオスのケダモノたちに背を向けて広場をあとにした。

 ふと頭上を見上げると、西地区の平原からなびく風に乗った鳥人たちが、白色の薄い翼膜を軽やかに広げて遠い青空を南下しているのが見えた。まだ中天にも差し掛からない太陽は、数日前の肌を刺すような日差しとは打って変わり、柔らかなぬくもりで大地を包んでいる。

 夏も盛りを越えると湿度がぐっと下がり、草陰や放置された自動車の下で涼むケダモノの姿を見かけることもだいぶ少なくなった。さらに気温が下がってくれたら、次は秋野菜を育てる準備に取り掛からなければならないだろう。それにホエホエミツバチたちのハチミツを分けてもらわないと。

 ああ、次はどんな作物を育てよう。お得意さまのリィラさんの要望もきかなくちゃ。三日月さんとはもう手を切ったほうがいいだろうか。畑に植えるのはほうれん草がいいかな。キノコ類もいいな。カボチャは重いから収穫が大変なんだよね──などと考えながら、中央地区まで徒歩で戻ったエコが教会がたたずむ公園を横切って、紫色の花が垂れ下がるフジの迷路を抜けたとたん、

「エコオオオオオッ」

 エコの帰宅を玄関先で待ちわびていたかのようなタイミングで、幽霊少女が礼拝堂の扉を開いて飛び出してきた。メーチェは聖歌隊の白いワンピースのスカートをはためかせながらエコの腕を掴むと、ひどく弱々しい力でエコを引っ張っていく。体重がないに等しいメーチェにとっては、これが精一杯の腕力である。

「こっち。こっちきて、こっち」

「え。ちょっ」

 帰宅したばかりのエコがメーチェに連行されたところは、ホーリースター教会の裏庭だった。

 すわ、またしても泥棒に荒らされたか……と思いきや、一見したところ、視界に広がる槍衾のように地表に根をおろしたトウモロコシの群生と、じゅうたんさながらに地表を覆うバスケットボール並に成長したドテカボチャたちにはこれといった異状は見られない。取り急ぎフジの蔦で裏庭を取り囲んでおいた防犯用の柵も無傷のようだ。

「なにも異変はないみたいだけれど……」

「違うよ、あっちあっち」

 とメーチェが指し示した方向は、ホーリースター教会の裏手の壁だった。あれ、たしかにそこには……と思ったエコの視界が鮮やかな黄色と橙色に染まった。

 ホーリースター教会の壁面に沿って、黄色い大輪の花が咲いていた。裏庭の一画に咲き乱れるヒマワリ。秋の気配を告げる静かな風を浴びて一斉に頭を波打たせる姿は金色の大海原のようでもあり、天から降り注ぐ陽光に照らされた様子は永遠を刻む黄色い花火のように見えた。

 エコがドライアドとしての能力を使わず、地力と日光のみで、自然のままに育ったメーチェのヒマワリ。

 たしかにエコは、メーチェのためにヒマワリの種を準備して手渡し、陽当たりのよさそうな花壇を紹介して、肥料として役立つアオサの保管箱がどこにあるかも教えてあげた。

 でも、それだけだ。

 花壇をスコップで耕すのも、晴天の日を見計らって種を蒔いたのも、文字や数字の勉強の合間に忘れず水やりを続けたのも、鼻をつまみたくなるような悪臭にもめげずに花壇にアオサを埋めたのも、すべてメーチェひとりがしたこと。メーチェがひとりでできたことだ。幽霊少女が費やした三カ月間の努力の結果はいまや、エコの背丈を超えようとしていた。

 夏の半ばというやや遅い時期に発芽したことだけが気がかりだったが、なんのことはない。環境がよければ、花はやがて咲くのだ。

 ヒマワリの群生を見上げながら、誰にともなくメーチェがつぶやいた。その声音から滲み出る、緊張とは無縁な柔らかな気配。

「なんか、嬉しい。花が咲いて嬉しいって感じたのは初めてかも」

 エコは魅入られるようにしてメーチェの表情を眺めていた。

「……エコ? どうしたの?」

「あ、いいえ……ねえ、メーチェ。次は、どんな植物の種を植えましょうか」

「植物の種って、ほかにどんなのがあるの」

「んっとね。食用と観賞用と、それから薬用と……うん。とりあえず、ひとつずつ説明してあげましょう。幸い、ホーリースター教会の倉庫には選びきれないくらいの種がありますし」

「だったらきれいな花が咲くやつを育てたい。いい香りのする実がなる植物でもいい」

 メーチェはそういうなり、楽しくて楽しくてしかたがないという様子でエコの袖を引っ張り始めた。物陰に隠れておどおどと周囲を警戒してばかりだった春先までの彼女は、もういなかった。

 メーチェに引きずられるようにして倉庫へ向かいながらエコは悟った。春の太陽を全身に浴びるような、この温かな気持ちはどこからくるのかを。

 この子の心からの笑顔を初めて見られたからだ。

 そのときエコの中で、ひとつの試練が終わりを迎えたような気がした。

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ケダモノシティ たいらひろし @tairahiroshi

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