晩夏──⑨

 頭でモノを考えない東地区のケダモノたちにしてみれば、地区長のリィラとドライアドのエコが来てくれたことで、すでに勝利を約束されたも同然であった。

 マシンガンをぶっ放されたらエコでさえ即死してしまう事実を知らない彼らは、三人を遠巻きに眺めることをやめてゴーリーへと近づき、写真の少女を訝しみつつ眺めた。

 写真の少女の容姿を確認するや、ケダモノたちは一斉にひたいを突き合わせて、

「これメスか?」「ガキだってことはわかるんだけどなぁ、大きさからして」「体皮が同じ色だから男女の区別なんかつかないっつーの」「ましてや顔つきなんかどれも一緒に見えるよなぁ」「あ、でもカルマールさんは別格だよな。オレたちから見てもすんげぇ美人だし」「シスターみたいに単眼なら、まだ顔の判別ができやすいんだけどなぁ」「無理無理。オレには動物の顔ってどれもおんなじに見えるから。女房の顔だって他人と見分けつかねぇくらいだから」「それはひどくないか?」

 などと好き放題に言葉を交わしあう。彼らの口調にふざけた調子はないものの、あいにくどれも参考にならない意見らしく、ゴーリー捜査官はがっかりしたように肩をすぼませるばかりであった。そんななかでひとり、真剣な面持ちで写真を見つめるケダモノがいた。リィラ・カルマールである。彼女は写真に映る薄汚れた少女を凝視しているが、その視点は少女の輪郭に当てられているものの、見えないなにかに焦点を合わせようとしているように冴え冴えとしていた。

 やがてリィラは押し黙ったままのエコの横顔をちらりと流し見てから、ぽつりと言葉を漏らした。

「いや、あたしは見たことないねぇ。お前たちはどうだい、見たことのあるやつ」

 リィラが背後を振り仰いで大声を出すと、オスたちは我も我もと同調した。

「知らないぜ」「オレももちろん見てないっす」「そもそもこの街にいる限り、人間の姿なんか見るはずないしなぁ」「人間型のケダモノなら少なからずいるけど、人間とは違うしな」「でもよ、人間がマリアヴェルに忍び込んできたことあったじゃねぇか。たしか春先だっけ」

 その、なにげなく漏らされた一言をゴーリーは聞き逃さなかった。彼は声のしたほうへ顔を向け、ほっとしたような気配を滲み出させた。

「それそれ! ああ、やっぱりこの街まで逃げてたんだ。目撃情報を辿っていったらここへきたとしか思えなかったからさ。いやぁ、遠征してきた甲斐があるってもんだよ。ところでその目撃された人間はどうなったのかね」

 ゴーリーの問いに一同は静まり返った。マリアヴェルの大衆たちは逃亡者の少女の行く末などだれも知りはしなかった。ただひとりを除いては。

 沈黙を守り通していたシスターが、意を決したふうに口を開いた。

「よろしいですか、ゴーリーさん」

「うん? なにかご存知のことがあるかな、シスター」

 口調だけで判断するのであれば友好的なその人物に、エコは静静と尋ねる。

「ゴーリーさんはなぜ、その少女を探しているのですか」

「なぜ……か」

 ゴーリー捜査官は、そこにひげでもあるかのように口元を手のひらで撫でた。

「この写真の子は、とある事件の重要参考人でね。その事件の一部始終を目撃していた可能性がありますので、お話をきいてみたいと思っているんですよ。あわよくば彼女を保護できれば、それに越したことはないんですけどね」

「保護、ですか」

「そりゃ、大人は子供を守るものでしょうに。もしこの街に隠れているなら危険だし、早々に人間の街へ戻してあげなければね。彼女に身寄りはいないはずですが、そうであればしかるべき施設へ預けてちゃんとした教育を受けられるようにすべきですな」

 彼は、メーチェの味方なのかもしれない。

 灰色だった未来に光明が差し込んだように思った。自分のアルトの声が無意識の高揚していくことを、エコは努めて押し隠そうとした。興奮してはならない、興奮しては……。

 エコの声がうわずったことを、ゴーリーは耳ざとく感づいたらしかった。

「やはり、この少女についてなにかご存知で?」

「はい。彼女とは春先に会いました」

「おっ。ということは、この少女は生きているの?」

 期待の込められたゴーリーの問いを、エコは否定しなければならなかった。いわねばなるまい。

「……いえ。わたしが食べました」

「なるほど、食べたのね」とメモを取りつつ呟くなり、頭を仰け反らせて「はっ!? 食べたんですか?」と念を押すようにきいてきた。

「彼女を見つけたときにはすでに半死半生の状態でして。手をつくしたのですが回復せず、そのまま息を引き取りました。彼女はすでに亡くなっています。わたしが看取りましたので間違いありません」

「ちょちょ、ちょっと待ってもらっていいですかな。えーっと……よし」

 ゴーリーは手首に装着されているディスプレイを手早く操作した。小さな電子音とともに画面がオレンジ色に光り輝く。彼は申し訳なさそうにほほを指先でかくふりをしてから、

「ごめんなさいねぇ、お話を中断させちゃって。あなたのお話がとても興味深いから録音を取らせてもらいたいんだけれど、構いませんかね。そのお話の内容次第で、ぼくはこのまま直帰できるかもしれないんで、すごく助かっちゃうんですよ」

「……はい、大丈夫ですよ」

「ご協力感謝します。録音の最初にぼく、ちょっと堅苦しいメッセージをこの機器に吹き込むけど、通り一遍の形式的なものだから気にしないでね」

 ポリスからの派遣者は、赤い光へと変化したディスプレイに向かって「あなたの証言は裁判の証拠になりえます」とか「このメッセージが拷問や薬物投与によって強制的に残したものでないことを誓います」など、およそ穏当ではない言葉を吐いた後、ようやくエコに「では、最初から話していただけますか」と水を向けてきた。

 エコはほぼすべてを話した。血まみれの少女が春先の庭で倒れていたこと。右腕も左足も失っていた彼女を手当てしたが救えなかったこと。彼女の遺体を腐れ穴で腐らせたのち、大樹の根を通してエコが食し、養分としたこと。少女の骨は教会の裏の共同墓地に埋葬したこと。あの夜に目撃したことの半分ほどを、エコは語り尽くした。

 しかし彼女の語りには、肝心要の情報が伏せられている。メーチェが幽霊として蘇ったことに関してだ。少女の名前がメーチェであることと、いまなお彼女が幽霊としてホーリースター教会で暮らしていることまでゴーリーに語るべきかを見定める必要があった。

 言葉を挟まずにエコの独白をきいていた調査官は、録音を止めないままさらに質問を重ねてきた。

「なるほどなるほど。とても参考になりました、ありがとうございます。あとふたつみっつばかり質問をさせていただいても構いませんか」

「どうぞ」

「なぜ少女の死体を食べたのですか」

 ゴーリーの口調に非難や侮蔑の色のないことを、エコはゴーリーの声の温度から察した。偽りなく答えねばなるまい。

「弔うためです。この街では死者への手向けとして、ドライアドであるわたしの依代である大樹が死者の肉体を食べます。大樹に取り込んだ死肉を栄養に変えて、街の大地に散布するのです」

「灰は灰に、土は土にというやつですか。そうしますと、彼女の肉体はすべて土に還ってしまったんでしょうかね」

「すべてではありません。さきほどお話しましたとおり、遺骨は教会の裏の墓地に埋葬してあります」

「では、その骨を引き渡していただくことはできませんか」

 みっつめの質問は、エコが予想だにしない要望だった。虚をつかれた彼女は口ごもった。

「それは……どうしてですか」

「我々がまず確認を取らなければならないのは、少女の生死です。ぼくはあなたの証言を疑うつもりなど毛頭ないのですが、裁判所へ報告する際には証拠となる物品が必要になるんですよ。髪や爪、骨などの一部を……そうですね。撮影だけでもさせていただけたら、ぼくはこの街から引き上げることができます。どうでしょう、ご協力いただけないかな。先ほど申しました礼金はちゃんとお引き渡ししますんで」

 エコは返答に窮した。

 メーチェの遺骨を探そうと思えば探せないことはないだろう。しかし見ず知らずの人間にメーチェの骨を引き渡すのはさすがに気が引けた。

「彼女の骨は、どうしても必要なのですか?」

「どうしてもというわけではありませんが、あったほうが助かりますね」

「…………」

「シスター?」

「……一晩、考えさせていただけませんか」

 エコの逡巡をどのように受け止めたのだろう。ゴーリー捜査官は「ふむ」とつぶやいて甲殻に覆われた頭を小さく縦に振った。

「前向きな答えを期待していますよ。それじゃぼくはおじゃま虫でしょうから、このへんで失礼しようかな。近くに人間の街がありますんで、そこで宿を取ります。せっかくだし明日また来る予定だけど、シスターの都合は大丈夫かな」

「大丈夫です……あの」

「ん?」

「その子供は、とある事件の重要参考人だとききましたが、いったいどんな事件なんです」

「ああ、まだ話していなかったかな」

 ゴーリーは明日の天気でも予想するような、気軽な口調で告げた。

「放火殺人です」


────────────


 夜空にかかった薄い雲越しに白銀の月が滲んで見える。ふと立ち止まって頭上を仰ぎ見たエコは、月が一回り大きくなったような錯覚を覚えた。

 七月の天体が広げる柔らかな光がマリアヴェルに降り注いでいる。夜行性のケダモノにとって恵みとなる空からの灯りは、ケダモノたちの街を白と黒の輪郭に切り取っていた。昼の力仕事の疲れを癒やすべく、大通りの出店へと姿を現すケダモノたちの喧騒。昼とはまるで異なる、生物たちの夜の営みがケダモノシティに染み入っていく。

 エコからつかず離れず月蛍たちが飛び交って、彼女の足元を柔らかな緑色で照らしてくれているため、暮夜の帰路を歩くことに支障はなかった。月蛍たちは梅雨の終わる時期に羽化する、北半球の清流にのみ生息できる品種である。むかし雷雨によって砕けた虹が天から降り注いで月蛍たちの腹部に刺さってから、このような幻惑的な朧光を発するようになったというお伽話がある。そんな絵物語の煌きが夏の夜のシスターを包み、小さな世界を儚い輝きで満たしていた。

 ボディガードに見送らせるというリィラの申し出を、エコは丁重に断った。彼女の心遣いはありがたかったし、下僕の蟲たちに守られているとはいえ夜の街をひとりで歩くことに不安がないわけではない。ただ、いまはひとりで歩きたかった。ゴーリー捜査官はバイクで三十分ほどのところにある人間たちの都市で宿をとり、明日の昼にまた訪ねてくるという。再開の約束をしてから、エコは東ゲートから立ち去った。

 経年劣化でひび割れつつあるアスファルトを越え、土塊でいびつに修復された橋を渡り、いつしか中央地区へと差し掛かる頃には時刻は午後九時を回ろうとしていた。

 いまのホーリースター教会にとっては城壁ともいえる垣根の迷路をくぐり、玄関のドアに手をかけた。エコの背中にメーチェが気配もなく近づき、抱きついてきたのはそのときである。

「エコ。エコ。エコ」

 様子がおかしかった。ききたいことがあるとエコが告げようとした矢先に、幽霊少女は異様な剣幕でエコの腕を取って引っ張ってきた。

「こっち。こっちきて」

「えっちょっとメーチェいったいなにが」

 茶髪の少女の腕力は胸が痛むほどに弱々しかった。エコはメーチェに引っ張られるままに教会の裏庭へと誘導されていった。

 エコの大樹が天蓋として空を覆っているため星明かりの届かない教会の畑。夜目のきくエコでさえ瞳を凝らさなければ地面の凹凸さえ把握できない暗闇の世界にエコとメーチェはいた。

 闇夜のなかで、幽霊少女がかすれた声を発した。

「エコ。これ……」

 ようやく暗闇に目が慣れてきたエコは、ああ、と思う。

 畑が荒らされていた。

 闇夜に紛れて作物を窃盗していったケダモノがいたのだろう。西側と北側の畑にたくさんの足跡が残されていた。土は踏み荒らされ、きゅうり、ナス、トマト、とうもろこしも軒並み刈り取られてしまっている。悪事の発覚を恐れてか、教会に近い側の畑にまでは踏み込んでいないらしいことがせめてもの幸いであろう。あそこにはメーチェと育てたヒマワリの花壇があるのだ。

 エコはほっとしていた。メーチェの焦りようから最悪の事態さえ想定していたのだ。キッチンで火事が起きたとか、メーチェが発見されてしまったとか。しかし畑荒らしくらいなら問題なく取り返しがつく。久々だが珍しいことではない。

 エコが被害状況をざっと調べたところ、地面にいくつもの果実が放置されているのを発見した。きっと盗んでいったケダモノが逃げるときに落としていったのだろう。これ以外にも教会にはたくさんの実や種がストックされているため、少なくとも来季に育てられるだけの種は収穫できそうだった。

 しかし、実りたての農作物を奪われてしまっては今期の収入には少なからず響きそうだ。やむを得ないだろう、リィラとハチミツの取引をした蓄えがだいぶ残っていたはずだ。それを費やせば当分は食べるには困らないはず……。

 不意にエコの全身を悪寒が走り抜けていった。全身の肌があわだち、エコは思わず自分の身体を抱いた。これまで感じたことがないほどの猛烈な不安感。

 エコは、そっと、隣を振り向いた。

 少女の姿をした悪鬼が、そこにいた。

「だれがやったの。なんで、エコが一生懸命育てたものを、断りもなく盗んでいくの」

 メーチェの震える声は、途方もない冷たさを帯びていた。

 抜身の殺意が彼女の全身を覆っていた。

 メーチェはときどき怒りの情を露わにすることがあるが、ここまで苛烈な感情を剥き出しにしたのは初めてのことである。エコも激憤に我を忘れることはあるものの、この子の怒りはどす黒い怨念を感じさせる、寒気すらもよおすものだった。不健康な、じめじめとした湿り気を帯びた怒気──いや、怒気というより憎悪に近いだろうか。

 まずい、とエコは思う。いまの彼女を放置しておいては、絶対によくないことが起きる。

「メーチェ。いいんです」

 エコはメーチェの正面に跪き、諭すようにいった。

「メーチェが育てた花は無事でしたし、お野菜はまた育てればいいのですから。あなたが見つからなくてよかった」

「よくねえよ……全然よくないよっ。あたしが早く気づいてれば、こんなことさせなかったのにっ」

 メーチェが声を荒げるなり、彼女の身体中から青白い朧光が発せられた。周囲の木々が不安定な青い光で照らされ、闇に姿を浮き上がらせる。エコの黒髪が霊力に巻き上げられてぶわっと逆立った。

 メーチェの全身からただならぬ気配が撒き散らされていく。周囲の木々が風もないのにざわつき、足元の木の葉が旋風とともに巻き上がった。霊力のコントロールができていないらしかった。庭を囲うようにして植わっていた木の柵が、触れてもいないのに派手な音を立てて真っ二つに折れた。まずい、どうしよう、どうすれば……。

 エコは言葉を選びながら、慎重に幽霊少女をなだめ続ける。

「いい? メーチェ。今回のことではだれも傷ついていないの。お野菜たちも果実をもがれただけだからまだ成長できますし、花も実もつけられます。メーチェと作った花壇も無事ですし、やり直しがきくんです。ですから、あなたが怒ることなんてひとつもないのですよ」

「でも、悪いことじゃん。エコは、損をしてるじゃん」

 メーチェのワンピースの裾が風も吹いていないのにはためいている。彼女は猛毒にも似た言葉を吐き続ける。

「ものを黙って盗むのは、悪いことじゃんか。悪いことをしたら罰せられないといけないんじゃないの」

「メーチェ……」

「あたしは、許さない。犯人を見つけたら後悔させてやる……あたしはもう、弱くないんだから」

 そういってメーチェは握りこぶしを作り、歯を剥きだした。凄絶な笑みを浮かべたメーチェの顔は人間とは思えない表情に彩られていた。いまの彼女の姿を見たら、百人中百人が距離を取りたがるであろう。

 が。

 なぜだろう。

 そんな少女の様相を目の当たりにしたエコの胸を満たしたのは、恐怖でも嫌悪でもなく、憐憫だった。メーチェの言葉から染み出していた痛みと孤独を、エコは感じ取っていた。

 あたしはもう弱くない。

 そう、メーチェはいった。彼女は生前の無力な自分と、莫大な霊力を携えたいまの自分を比較して、そういっているのだろう。

 弱かったから……弱かったから、どうだったのだろう。彼女は生前、どんな目にあってきたのだろうか。

 左腕を折られ、右足をもがれて、瀕死の体で春の教会の庭に転がされていたメーチェの姿が、憤激に我を忘れるいまの彼女と重なった。

「エコ。あたしは、犯人を……」

「……」

 エコは両手を差し伸べるとメーチェを引き寄せ、そっと、その小さな顔を抱いた。息のかかる距離に一つ目シスターの顔を寄せられ、さしものメーチェも面食らったようだった。

 エコは、メーチェのほほにキスを落としていた。

 世界から放逐されたような青白い光の中で、一つ目のシスターが幽霊少女の顔を両の手のひらでそっと包み、顔を寄せ、痩せこけたほほに唇を触れさせた時間は、ほんの数秒たらず。

「許します」

 メーチェのほほから唇を離したエコは、ブラウンの瞳をじっと覗き込みながらそう告げた。

 エコは自覚なく、いつしか柔和な笑顔をたたえていた。先程までメーチェを落ち着けようとして言葉を選んでいたのに、なぜかいまは河を流れる水のように、心からの声がよどみなく口をついて出ていた。

「メーチェ。わたしが、許します。お野菜を盗んでいったケダモノのことを、わたしが許します。いい? だれだって、したくて悪いことをしているわけじゃないんです。生まれたときから悪いケダモノなんていないんです。完全な善人がこの世にいないように、完全な悪人も、この世にはいないんです。だれだって失敗をしますし、過ちを犯します。だれだって好きで悪いことをしているのじゃないのなら、だれからも罪を許されないなんて、悲しいでしょう」

「………………」

「許します。メーチェ。わたしは、許します。許せる限り許せるケダモノでありたいと、わたしはそうありたいと思っています」

 メーチェは心ここにあらずといった様子でエコを見返した。

 メーチェを包んでいた青白い光が、終わりのときを迎えた花火のように夜の闇に包まれていく。騒々しくはためいていた白いワンピースの裾がゆらりと垂れ下がり、周囲の木々に静寂が浸透していった。

 気がつけば、光源を失って宵闇に支配された庭にふたりはたたずんでいた。

 もう大丈夫だろう。機会を逸してしまったが、東ゲートで出会ったポリスの調査員については明日の朝にでも改めて落ち着いてからメーチェに伝えることとしよう。

「さあ、帰りましょう。このお庭は明日、わたしが修復しておきますから」

 エコはそう告げつつ胸中でそっと嘆息すると、メーチェの手を優しく引いた。

 メーチェは、動こうとしなかった。荒らされた土壌の上に棒立ちになったまま、メーチェはじっと唇を噛み締めている。

「メーチェ?」

「エコは……だれでも、許すの。だれがどんなにひどいことをしたとしても、許せるの」

 メーチェは顔をあげようとしないまま、そうたずねてきた。ブラウンの前髪がメーチェの顔にかかってしまい、表情が読めない。

 エコは「もちろんです」と即答できなかった。脳裏をよぎったのは、春先にエコの顔を殴りつけたネズミ男の姿だった。エコの下僕たちから全身を刺された挙句に、彼女自身からも痛めつけられた無頼漢。エコは彼を半死半生にまで追い込んだのだ。

 エコがネズミ男を猛撃したのは、ひとえにドライアドの本能に従ったためだ。自分や家族に危害を加えたものを決して見逃さずにカウンターパンチをお見舞いするのは、エコにとって自然なことである。

 許すことのできない相手は、間違いなく存在する。エコには、すべてのケダモノを許すことなどできはしない。

 なのに。

 許す、だって?

 自分の怒りすらコントロールできず、殴られたら十倍にして殴り返さざるを得ないケダモノの分際で。子供のメーチェでさえエコの言葉を聞き分けて怒りを抑えられるというのに、いざとなれば理性など瞬く間に押し流されて感情に身を任せてしまうではないか。許すなど、随分おこがましい言い草ではないのか。

 自分の偽善的な言葉にいまさらながら羞恥心を覚えながらもエコは、メーチェを見下ろしつつ、偽りのない答えを返した。

「…………そうありたいと思っていますよ」

「……。じゃあ、エコは……あたしのことも、許してくれるの」

「え?」

 エコには、メーチェの質問の意味がまったくわからなかった。

「メーチェ、あなたはなにも悪いことをしていないでしょう」

「そうじゃなくて。そうじゃ、なくて、さ」

 メーチェの声がかすれていく。息切れを起こしてみっともなく声を震わせながらも、少女は訥々と、告解を続けた。

「もしあたしが……い、生きていたころに……とんでも、なく、わ……悪いことを……、絶対に、て、天国へ、い、いけなくなるようなことを、してたとしても……」

 どうしようもなく重い数秒の沈黙を経てから、幽霊少女は最後まで顔を上げず、エコの瞳を覗き込むことなく、衰弱した声で言葉を締めくくった。

「それでも、エコは、あたしを、許してくれるの」

「…………」

 許すも許さないもない。メーチェが生前に犯したという罪を彼女が語らなければ、裁断の天秤に乗せようがなかった。

 とはいえ。

 いまのメーチェの様子を見て、彼女の罪状を追求するほどエコは野暮ではないし、人の心がわからないケダモノではない。そもそもエコは、メーチェのひととなりを知っていた。

 ならば答えは決まっている。

 エコはメーチェに寄り添い、肩を抱いてあげた。

「メーチェ。あなたはここにいていいんですよ。好きなだけここにいていいんです。いつか、神様が定めたお別れの日がくるまで……」

「…………」 

 メーチェがエコの胸元に体重を預けてきた。あまりにも軽すぎる少女の身体を、エコはそっと受け止める。

「…………。ごめん。ちょっとだけ……ちょっとだけ、泣いていい?」

 エコは返答の代わりに、彼女の髪を撫ぜてあげた。

 メーチェのこぼす涙は光の結晶となって夜風にあおられて散り散りになっていった。水を飲むことができないメーチェには、普通の涙を流す権利さえないらしい。

 エコは幽霊少女の輝く涙で修道服を濡らしながら、メーチェの手本になれるようなケダモノ──人間になりたいと思った。

 メーチェが初めて泣いた夜の出来事である。



 ひとつ、補足をしよう。

 もしメーチェがエコに真実を話していたとしても──彼女がかつて巨大な聖堂に火を放ち、子供も神父も妊婦もまとめて焼き殺したという過去を知ったとしても、エコはメーチェを抱きしめていただろう。

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