第2話 「血溜りと白い少年」

 走る。

 走る。走る。走る。



 ここはどこだ。なんで自分は、あんな袋に詰められて、こんなところにいるのだ。知らないところだ。見覚えも無い。見たことのないひとがいる。

 いや、ひとと言っていいのだろうか。自分と明らかに違う容姿のひとばかりだ。耳が犬のようで、肌が蛇の鱗のようで、ああ、あれはひとなのか。



 怖い。怖かった。とても、とても。どうしようもない。涙がぼろぼろと溢れ、視界がはっきりしない。



「あッ」



 何かに躓いた。前へと進もうとする上半身はそのまま地面に叩きつけられた。顔面を打つ。痛い。なんとか置きあがると、膝も、肘も血が滲んでいた。じんじんと傷の辺りが熱を持つ。痛い。



「なんだ、坊主、転んだのか」

「真っ白なガキだなあ、薄汚れちゃいるが」

「ん? 見ねえ顔だな」



 痛くて、涙がさらに止まらなくなったと思うと、さらに知らないひとたちに囲まれた。みんな大きいひとで、影が自分に落ちる。怖い。



「新しく来た奴かね」

「さあな。喰っちまおうぜ、こんなところで一人でいるほうが悪い」

「いや、まて。さっきカラスがいたぞ。ってことは秋もいるだろ、それは面倒だ」



 なんの話をしているのだろう。どうしよう。分からない。喰っちまう、ってなに。何の話。ねえ。何の話をしているの。おかあさん、どこ。おかあさん。怖い。怖いよ、おかあさあん。

 怖い。



「あ――なんだ、こい――」



 怖い。怖い。



「い――いた、やめ――」



 怖い。怖い。怖い。



「この、やめ――ああああああああああああああああああああああ」



 怖い。怖い。怖い。怖い。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――





  ◇





「白い子どもねえ」

「はい、白くて、ガリガリで、小さい子どもです」



 部下が背負っている時は、起きないように強めの睡眠薬を飲ませていたのだが、人用のものでは効きが悪かったらしい。加えて袋の口が緩んでいて、明るさに目が覚めた可能性もある。

 秋さんは顎に手をあて、考える仕草をする。



「わざわざ連れてくるんだから、それだけってことはないだろ」

「……はい、そのとおりですね」



 そう。ただ白いだけではないのだ。白いだけの子どもならば、帝都でも帝都じゃなくてもきっと生きていける。むしろこの島に来た方が、生きていけまい。



「その子どもは――刃が。刃が生えるんです。体に」



 最初にその子どもを見つけたのは、私の同僚だった。町外れの寂れた工場の中で倒れているのをたまたま見つけ、保護しようとしたところ、斬られた。



 雪を欺くその二の腕から、すらりと生える白刃。

 骨と皮しかないような体は衰弱し、意識もない状態のその少年は、近づこうとすればするほど、鋭い刃が生えた。まるで、敵から己が身を守ろうとするかのように。



 幸いだったのは、見つけたのが一般人ではなく、それも私と同じくらい長く『帝都の小烏』に所属している者だったことである。

 そうした不思議な子どもは、この帝都ではごくたまに発見される。発見されると、まずはカラスが引き取り、そう日をあけないうちにこの火螢の御島へ連れてくることが決まっていた。



「刃が生える、ね。獣人じゅうじんの類ではなさそうだし、呪い持ちか」

「おそらく」

「まあいいや。この島にいるなら探すのはそう難しくない」

「そ、そう、難しくないって……」



 そこで、ようやくまともに口が利けるくらい冷静さを取り戻した部下が口を挟んだ。冷静とはいっても、顔は青ざめたままだが。



「この島、結構広いですよね……? 街の中ならともかく、こんな似たようなのがたくさんいるところで、しかも、あなただってまだ子どもじゃないか」



 秋さんを指差して、信じられないという。秋さんはちらりと部下を見て、「こういうの、ちゃんと教えておいた方がいいぞ。この島の担当になったんだったら、見た目で判断していいことはない」と淡々と私に忠告する。まったくだ。



「じゃあ探すか」



 秋さんの後を、半信半疑どころか微塵も信じていない様子の部下とともについていくことにする。たぶん、慣れているのだ。こうして探し物をすることも、見た目で侮られることも。

 秋さんは、小柄だ。金色の髪は幼い顔を隠すように長く、体は服に着られているような細身だ。ここの住人と比べても、目立つ『らしさ』はなく、部下が見た目で判断するのも仕方ない。

 しかしだ。彼自身が言うとおり、この島で見たものをそのまま信じるのは命取りだ。部下は知らぬことだが、秋さんも例に漏れず――もう何十年も、その外見は変わっていない。

 秋さんはしばらく耳を澄ませるように目を閉じる。



「外には出てないみたいだな」

「分かるんですか?」

「外では波の音がしない」



 波の音? と訊ね返す部下を放って、秋さんは広場を抜け、島の奥のほうへ歩みを進める。どちらにしてもこの島から出るにはあの電車に乗るか、線路を歩くか、船を使うほか無い。あの幼子には厳しいだろう。

 広場は酒や食べ物の匂いが充満していて、空腹を擽くすぐる。美味くなければ売れないのは帝都と同じで、島の食べ物は安価の割に美味しいのだが、今夜は寄る暇はなさそうだ。広場を抜け、左右に店が立ち並ぶ商店街のような道へ入る。秋さんは店には目もくれず、賑わう店と店の間を抜け、裏手を進む。



「あの、アカザさん」



 部下が私の耳打ちするように呼びかける。質問の内容は、およそ想像できる。



「カラスがこんな仕事するなんて、知らなかったです」

「こんな?」

「火螢の御島に、来るなんて」



 小声で、僅かな恐怖を滲ませて。

 『帝都の小烏』というのは、帝都を守護する警察組織のようなものだ。丹本各地に警察は数あれど、この『小烏』の名称を持つのはこの帝都ただひとつのみである。警察としての仕事は――すべて表向きなのだ。



 火螢の御島には化け物がいる。

 そこを訪れる化け物は自らの足で踏み入れられる者もいれば、そうでない者もいる。帝都以外のところで化け物が現れれば連れに行くこともある。つまりはそういうことだ。『帝都の小烏』は、島へ行くことの出来ない化け物を連れて行く役目も担っている。つまり化け物の相手は化け物がする、ということだ。



 この仕事が『帝都の小烏』の主なものだが、当然あまり知られていない。そもそもカラスは少数であり、この部下も、ある程度の素質はあって採用されているのだが、どうにも自覚がないようだった。教育係の怠慢を疑う。




「いた」




 秋さんが小さく、しかし手振りははっきりと静止を示す。

 そう遠くへは行っておらず、かつ人のいない店の裏側をうろうろしていたようだ。体から刃が生えることを考えると、都合がいい。

 ――と、そう思った矢先。

 ぶわっと、生臭い匂いが鼻を刺激する。背後で部下が口を覆うのが分かる。遅かったか。これは――血の匂いだ。



「少年」秋さんが声を掛ける。「怖がらなくていい」



 上背のある部下や私は建物の影に身を潜め、様子を伺う。秋さんは、暗がりに蹲うずくまってこちらを睨みつける白い少年に目線を合わせるように膝を折った。白い少年は、建物の黒い影のなかにいて、さらに赤が張り付いているため、その白さが際立つ。炯々と赤い瞳がぎらぎらと光っている。



 少年と秋さんの間には三人の男が転がっている。あたり一面血の海だが、ここからでは彼らの傷は見えない。

 秋さんは、転がる男たちには一瞥もくれず、少年をただまっすにみている。いや、あるいは、私の気づかぬうちに状況を把握し終えたのかもしれない。それでいて放置しているのなら、命に別状はない傷なのか――すでにこと切れているのか。



「大丈夫、怖いことはしない。ただ、ある人に会ってもらわないといけない」



 少年はフーッとまるで子猫のように域を荒げ、威嚇する。ぼろぼろと涙を零している。逆立つ毛並みの代わりに、白い切先が数本、膝を抱えた少年の腕から生えていた。秋さんはもう一度「大丈夫だから。一緒に来てくれ」と、穏やかな声で語りかける。



「おかあ、さん。おかあさんは、どこ」



 しかし、少年はその紅玉のような深い赤をゆらりと滲ませた。涙が量を倍にして零れていくと、刃はするすると体の中へ引っ込む。膝をよりいっそう力強く抱きしめて、「おかあさん」と泣き始めてしまった。睨みつけてくるその目だけは逸らさないでいる。

 背後で部下が「あの子のおかあさんって」と口走りそうになるのを、私の手が塞ぐ。



「……仕方ないな」



 秋さんはかすかなため息を吐くと、すっと立ち上がった。迷いなく、少年に歩み寄る。口を塞がれたままの部下が悲鳴を漏らす。

 ――シュッ、と秋さんの左の袖が裂かれる。次いで右側の頬を刃が撫でる。

 少年も悲鳴を上げる。来ないで、と。同時に数本の白刃が閃き、秋さんの足を貫く。部下が私の手を振り払って、そちらを見ない。かくいう私も思わず眉根を寄せる。動じないのは、本人くらいだ。



「大丈夫だ。痛くない。俺はおまえがいくら刺そうと大丈夫だから、おいで」



 鮮やかな赤を滴らせて、少年に手を伸ばす。少年は目を見開いたかと思うと、刃は体の中へ戻り、ふっと意識を失った。力なく倒れた少年を、秋さんは軽々と抱き上げる。



「アカザ」



 急に声を掛けられ、返事が遅れた。「はい」



「笛を鳴らしておいてくれ。鴻衆おおとりしゅうを呼んで、こいつらを医者に見せてもらわないと」

「はい、わかりました」



 外套の胸元から首に掛けていた紐を引き上げる。紐の先には鳥の形をした銀の笛だ。それを一度、大きく吹く。音は澄んだ高い音で、きっと鴻衆にも届いたことだろう。

 そして、秋さんがそんな風にいうということは、彼らにも息がある。



「あの、アカザさん。鴻衆って……なんですか」

「……はあ、そんなことも教えてもらわなかったのか」



 恐る恐る訪ねてくる部下には、本当にため息しか出ない。教育係は誰だったんだ、一体。帰ったら探す。

 今そう言ったところでこの部下が何も知らないのはどうにもならない。今私が説明するしかあるまい。



「この御島には鴻衆と犲衆やまいぬしゅうという自治組織がある。まあ、警察みたいなものだな。当人同士でもうまくすり合せきれなかったり、こういうことの処理をしてる」

「なるほど……」

「詳しくはおまえの教育係に聞け。帰ったらな」



 鴻衆と犲衆でいささか役割は違うが、今はそれはいらない情報だ。

 秋さんはこちらの話が済んだのを認めると、少年を抱えなおした。



「さて、沙月様のところに行くか」



 何事もなかったかのように歩き出した秋さんの傷口からは、もう赤い血は流れていなかった。



 ――まるで水。血の代わりに透明な液体が流れ出ていた。




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