第7話 「大切な誰かのいない世界」


 娘の部屋は、客間のすぐ上だった。

 階段を上ると、空気の淀みはひどくなった。重く、体にまとわりつくような感触。一歩踏み出すのも違和感がついてくる。

 それは部屋に入ると、なおのことだった。部屋の中には滓のように、暗いものが沈んでいた。



「これは……ずいぶん、重いね」



 ツバメに次いで部屋に入ったメイが口元に手をあて、眉根を寄せる。それにはツバメも同意だ。

 召使はこの部屋には入らない方がいい、と外で待たせることにした。静かに部屋へ立ち入ったツバメは、まるで息をしていないようにも見える少女の枕元へ近づく。


「――――」



 布団を腹の辺りまで捲る。蝋のように生気のない顔だ。年は十五、六くらいだろうか。ほとんど眠ってすごしているといっていた通り、体の肉は削げ落ちている。

 ツバメは寝巻きのボタンに手を掛け、開く。白い肌が露になった。その、骨の浮く肋の、少し上。胸の中心に、黒い紋様が浮き上がっていた。メイのそれに比べてずいぶん大きい。鎖骨や臍のあたりまで広がっている。正しく蝕んでいる、と言える。その紋様は、おそらく――



「キリギリス、かな」


 メイが呟く。ツバメはそのメイを肩越しに一瞥し、頷く。



「もう大分進行してるね。離すには向こうから離れてもらった方が早いかも。メイ、どう」

「んー……原因の器は、んー、あっちだ。机の下」



 ベッドの左手にある白い机の下。布がかけられていたが、メイは容赦なくそれをとる。話に聞いたとおり、黒々とした弦楽器が姿を現す。ケースはなく、剥き出しのまま机の内側に立てかけられている。

 メイが弓を手に取ろうと、その指が触れた瞬間、ベッドで眠る彼女が「うっ」と呻く。メイはすぐさま指を離す。娘は眉間皺をよせ、腹を押さえて唸り始める。仰向けになっていたのを腹を抱えるようにして体を曲げる。



「――――」



 出る。

 この娘は、魔力を吸われている。

 器に宿るのは精霊。かつての世界の魔力であったものだから、魔力が満ちていないこの世界では姿を取るには外部からの魔力の供給が必要になる。

 出る。彼女から魔力を吸い取って、この場に顕現する。

 メイは弦楽器と、ベッドで呻く少女からツバメを離すように間に入った。

 少女が呻くほど、弦楽器に黒い煙のようなものが発せられる。

 じわじわ、じわじわと広がる煙の先がするりと細くなり、五つに別れ、それを指だと知った。掌、腕、肩、と徐々に形作っていき――



「なんの――ようだ」



 黒い男が現れた。

 この娘は魔術を扱えるほどの魔力は無く、それが彼を完全に顕現させることは出来ていない。影がただそこにいるように見える。けれど、こんな風に顕現することがまず、彼女にとって致命的にもなり得る。



「貴方を迎えに来たよ。ここは貴方の居場所じゃない」



 臆することなく、ツバメはそう告げる。「だから、その子のことを」



「離すわけねえだろ」



 一蹴される。黒い影の中、赤い口と、血走った目だけがはっきりと浮いて見える。口角が吊りあがる。



「それは、どうして?」



 彼は机に腰を掛け、ハッと鼻で笑う。



「どうしても何も。おれにはおまえの話を聞く理由はないってだけだ」

「……」



 話を聞く気はない、とぎろりと睨まれる。どうしたものか。下手に暴れられては彼女が根こそぎ吸い取られかねない。

 魔力というのは、この世界になってから僅かを残して殆どが溶けて消えたという。彼女のようにその素養があることも、極々稀に存在する。ただし、素養といえど、魔術師として扱えるものはない。この弦楽器のように波長が合い、目覚めさせることもあるだろうが、供給できるほどの魔力を持たないのが当然だ。となれば、魔力の代わりに持っていかれるもの――

 それは、生命力と言って差し支えない。



「彼女の命を食い尽くす、つもりかい」

「さてね。命を食い尽くしたところで何があるわけもない」

「じゃあ何が目的なんだい」



 軽く笑っていた口がすっと元に戻る。いつのまにか、左手が変形している。あれは弓だ。その弓で、抱えた足に現れた弦にふれる。



「――っツバメ!」



 その音は。



「たとえば、誰もいない世界をどうでもいいとか思わないのか」

「ッ――」



 まさに呪い。何をするのかいち早く理解し、メイがツバメに何か言うより早く、ツバメが自力で耳を塞ごうとするより早く、わずか一小節分の音が部屋を満たし、意識を落とした。




 意識が失われていたのはほんの数秒であっただろう。



「ツバメ、ツバメ、大丈夫?」



 体を抱え起こされ、心配そうに呼ぶ声に意識が完全に返ってくる。床に手をついて自力で上半身を起こすと、頭がぐらぐらするのが分かった。



「ツバメ、ごめんね。刃物じゃないからってちょっと気が抜けてたみたいだ」

「それは僕もだろ」



 ひとつ大きく呼吸を置く。肺を新鮮な空気で満たし、吐き出す息とともに体内に残った違和感を取り除くよう意識する。三度ほど繰り返した。

 部屋を見渡すと、窓が開いていた。娘も、楽器も部屋には残っていない。



「逃げられた?」

「そう、だね。多分、あの子の体を借りて」



 契約者の体を乗っ取ってしまうほうが、魔力の消費は少なくてすむだろう。そうだからと言って、それが彼女に負担をかけないというわけではないので、急がねばなるまい。

 少女はずいぶん衰弱していた。あの娘から奪った魔力を返す形で同調しても、あの体を動かすのは至難の業であろう。そう、遠くへはいっていないはずだ。

 追いかけなくては――



「メイ、道案内して」



 さきほどの客間にて待機している屋敷の主人に探しに行くと旨を伝えて慌ただしく外へ出た。下手に呼び止められて説明を乞われてもそれをしている時間はない。

 外は冷え込んでいた。暗く、ちかちかと消えかけの電灯が道を照らす。



 ――たとえば、誰もいない世界をどうでもいいとか思わないのか。



 あの音ともに、その言葉が耳の奥に蘇えった。

 精霊器という、かつての世界のかけらを閉じ込めた存在にとって、誰も、とは何を指すのだろう。ツバメは少しばかり、過去に思いを馳せる。



 ツバメは何の縁か、魔力というものをその身にたくさん秘めている。その魔力を見初められて、現在は旧世界の遺産、主に精霊器を探して集める任に着いている。その魔力の使い道を教えてもらうよりもずいぶん前の、あの日。

 今日のような雪の日だった。ツバメは数年前、己が生家で、今回のように蔵から一振りの小振りの剣を発見した。細い柄に、精巧な鍔つば。細い刀身のその剣は、彼女の家に禍わざわいをもたらした。

 まずは発見したツバメの祖父。剣を自室に保管した祖父は、数ヶ月と経たないうちに持病が悪化し、そのまま亡くなってしまった。

 次に彼女の両親。祖父の残したその剣を肩身として受け継ぎ、母親がその管理を受け持った。すると、それまで健康に不安など全く無かった母は、みるみるうちに体調を崩し、病に臥ふしてしまった。母が完全に起き上がれなくなる頃、父も同じようにして倒れ、一年と経たないうちに帰らぬ人となった。

 これだけ短い間に立て続けに剣に携わった人が亡くなったことで、一族はようやく剣が原因なのではないか、と気付いた。これは呪いだ、と。

 当然早々に処分してしまいたいと考えた。けれど、適当に処分してしまったらなにが起こるか見当もつかない。下手に何かして、一族全体に悪い結果となれば、それこそ困る。



 そこで、夫婦の子どもに受け継がせることにした。幼い娘に剣を渡し、そのまま呪いに負けてしまうのならその娘と遠くへ葬ってしまえばいいという結論を出したのだ。

 どうせ両親を亡くした娘など厄介なだけだ。そうしてツバメは剣とともに過ごすことになる。

 しかし、幾月と経ってもツバメに異常はなかった。何も、何もだ。

 何もないならそれでよかったはずが、今度はツバメの方に忌避の視線が向けられるようになった。大好きだった祖父を亡くし、両親も亡くし、ひとりぼっちとなった彼女に味方はいなかった。



 ――その後、その剣が精霊器であり、彼女がこの世界において珍しい魔力を膨大に内包する体質であったことを知るのは、とある島に行ってからのことだった。

 旧世界からどういうわけか生き残っているひとがいることはそこで知った。けれど、ツバメは紛れもなくこの世界に産まれ落ちた存在である。

 前の世界は水に沈んでいるという。精霊器は世界から切り離されているため、水に沈んだ後も残っているという。

 その彼らの指す誰も、とは。



「ねえ、メイ」

「ん?」



 精霊器同士はその存在を互いに感じ取れる。魔術師もそれを感じられるらしいが、ツバメはあんまり得意ではないので、メイに任せきりだ。



「誰もいないってどうなんだろうね」



 ツバメにとって、誰もいないというのはあまり理解できなかった。肉親を亡くしても肉親によって悲しみを上回る苦汁を舐めさせられた。誰もいないと感じる前に――彼女の心は壊されてしまった。

 うーん、とメイは、探しながら唸る。

 メイは今でこそツバメを大切に扱っているが、その内には忘れられないひとがいた。それはもう二度と会えず、また彼の考えうる限り最悪の別れをしたのだという。



「前も言ったけど」

「うん」

「俺は大事な人……大事だった人とひどい別れ方をしたし、それを後悔してもいる。すごい悲しかったしね」



 淡々とした声音でメイは語る。



「だから、その人がいない世界がどうでもいいっていうのは、少し分かる」



 俺たちは、そういうふうに作られてるのかも。

 メイとこんなふうに精霊器を集めるようになってしばらく経つ。触れた精霊器は未だ数少なく、ツバメ自身、それがどういうものであるのか、わかっていないところもある。ただ一様に。彼らは心をかつてに残しているようだった。

 たぶん、それはひとりではどうにもできないのだ。



「ツバメ、俺はツバメに会えてよかったよ。あのキリギリスもそういう人に会えればよかったけどさ、俺が特殊なんだ」



 雪が降り始めた。大きな牡丹雪だ。これは積もるかもしれない。

 気配をはっきり感じ取ったらしい。連なる屋敷の群れを抜け、大通りへと駆け抜ける。



 

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