第6話 「楽器に蝕まれる少女」

 はあ、と大きなため息が、吐き出されてすぐに白く染まる。

 薄いコートは寒さを防ぐにはいささか心許こころもと無い。マフラーを鼻が隠れる辺りまで引き上げてみる。温かくはないが、顔に触れる冷気は少し減った。



 空を見上げる。どんよりと、重たい灰色が一面に広がっていた。

 高台にあるこの公園は空が近いように思える。



「雪になりそうだね、ツバメ」

「――メイ」



 ふいに灰色の視界に見慣れた青年の顔が入り込んできた。赤いゴーグルが印象的な青年は、にこっと微笑んでみせる。



「そうだね。寒いわけだ」

「寒いならもっと厚着したらいいと思うけどね、俺は」



 ツバメと呼ばれた小柄な人物は「んー、でも、あんまり着込むと動きづらいでしょう」と軽く受け流した。整えられた前髪が風に揺れる。

 よいしょ、とツバメは立ち上がる。冷え切った足は力を入れるとじんわりと感覚が戻っていくのがわかる。小柄な体に見合う、細い手足。コートを着ていてもそれは分かる。少年のようではあるが、おそらく少女だろう。



「もうすぐ、約束の時間だから、そろそろ行こう、メイ」

「ん、このまま行く?」

「うん」

「わかった。じゃあ雪が降り出さないうちに行こう」



 公園を後にし、坂を下っていく。町全体が見渡せるほか、特に何があるわけではない公園に上ってくる人はおらず、坂の脇の商店も雪に備えてか、早々に店仕舞いを始めている。

 坂を下り終えて、二つ目の角を曲がり、さらに三つ角を曲がる。ここからは商店などはほとんどなく、閑静かんせいな空間が続く。この辺りは人とあまり関わることを好まない富豪ふごうが多く居を構えている。静かなのも、頷けた。



 目当ての屋敷は、確かもう少しだ。突き当たりの屋敷を左に曲がり、四軒目。四軒目というと、かなりの距離になった。

 大きな門を静かに開け、中へ身を滑らせる。本来ならば門の外で出迎えを待つべきなのだろうが、おそらく家人はそれどころではない。そう見越して、ツバメは無断で門を潜くぐったのだ。



 とはいえ。

 さすがに玄関を無断で通過するわけにもいかない。ひとこと「こんにちは」と声を掛けると、すぐに濃赤こいあかの着物を着た女性が迎えた。



「ツバメと申します。こっちはメイ。本日お伺いするとお伝えした者です」

「はい、存じております。旦那様は既にお待ちですので、こちらへ」



 その女性は疲れきった顔をしていた。笑顔は作れておらず、声にも感情があまり込められていない。いくら人付き合いの薄い家の多い場所であっても、これは、いくらなんでも。

 屋敷の廊下は、薄暗い。夕方で天気が悪いということもあるだろうが、それとは別に、暗いものを感じる。空気が淀んでいる、とでもいうべきか。

 ツバメは、こういう空気をよく知っている。知っているが、慣れるものでもない。できれば触りたくない部類のものだ。触れば、障られる。

 そうして、通されたのは広い客間だった。畳ではなく絨毯が敷かれており、中央の椅子には初老の男性が座っていた。

 彼は召使が入ってきたことで一瞬安堵を見せたが、ツバメを見るなり、その表情は翳かげった。



「失礼ですが、あなたがツバメ殿だろうか。その、今私たちが困っている問題を解決してくれる、という」

「はい。私がツバメです。後ろのはメイ」

「……御歳はどのくらいだろうか」

「私でしたら、今年で十七と」



 淡々と答えるツバメに、屋敷の主人はあからさまに肩を落とした。

 遊んでいる場合ではないのだ。

 こんな子どもに構っている暇はないのだ、と。

 そう言外に訴えてくる。年の割りに小さな体も自覚しているし、困っている時に頼りになる外見でないことも知っている。後ろのメイもそう背は高くないし細身だ。ついでに言えばちゃらいと思う。



 しかし、さて。



 ツバメとて仕事が出来ないというのは困る。ここで話も聞かされずに返される事態だけは避けたいものなので――



「しかし、それで私どもを追い返されたところで、次の当てはおありなので?」



 と、メイが澄ました顔で口を挟んだ。彼も、こういう事態には慣れていた。ツバメが口を開く前に言ってくれたおかげで手間は省けた。主人はぐ、と歯を噛み締め、「座ってくれたまえ」と促うながす。



「失礼します」



 椅子にはツバメのみが座り、メイはその後ろに立つ。先程の女性とは別の、召使がお茶を運んできたところで、本題に入る。



「それで、お話聞かせてくださいますか」

「……あ、ああ。事の発端は、蔵から黒漆くろうるしの弦楽器ヴァイオリンが出てきたことだ」



 曰く――









 この屋敷は、建てられたのはいつかわからないという。その中でも蔵はいっとう古く、主人は入ったことも数えるほどだという。彼の父や祖父も蔵に入ったことがない。故に、中に何があるのか、詳しくは知らずにいたとのことである。

 その蔵のことを、主人の娘がたいそう興味を持ったらしい。

 物心つく頃から少しずつ興味を深めていき、ここ数年で蔵の中を整理していた。褒められたことではないと思っていたが、何か害があるわけでもなく、娘の好きにさせていた。



 ところが。

 三ヶ月前のことだ。



 蔵の地下に、黒い弦楽器を見つけた。箱にも入れられておらず、ろくに手入れなんかしていないはずなのに、その黒さは暗闇の中においても際立っていたという。

 暗闇に同化することのない艶やかな黒。娘はその楽器に目を奪われた。心も奪われた。

 それを蔵の外へ持ち出し、自室へと持ち込んだ。彼女は楽器など無縁に育ったため、実際に弾くことは無く、その美しい黒を眺めて過ごした。



 そうして、最初の頃は、何事もなかったという。

 おかしくなったのは、それから一月くらいが経った頃。

 眺めるだけでは満足行かなくなった彼女は、その弓を弾いてみたくなった。心得はなかったが、出来る気がした。実際、そっと当てた弦と弓が擦れて、この世のものとは思えない音が生まれた。

 けれど、その音を聴いた瞬間、彼女の意識は落ちてしまった。発見したのは、食事の時間に姿を現さないことを不思議に思って、部屋を訪れた召使だった。

 半分眠りこけたような様子であったため、疲れていたのだろうと判断され、その日は早く休むことにしたし、それから数日もなるべく休むようにしていた。



 しかしだ。彼女の体調は一向によくならない。立つこともままならなくなってから、この弦楽器が原因なのではないか、とようやく気付いた。







「それで、いろいろ探していくうちに、あなたがたに辿りついたわけです」



 そう言う主人の顔も、よくよく見ればやつれている。ずいぶん心を砕いたのだろう。

 彼の話は、娘から聞いた話が大半だったため、要領を得ないところもあったが――



「ふむ」



 ツバメは興味深げに一つ頷いた。事態の把握はきちんと出来たらしい。その仕草に不安を覚えたのはむしろ主人のほうだ。何一つわかっていないなかで説明したことをこうもあっさり納得されては疑いもする。そもそもちゃんと信じたわけではないのだ。



「あの、ほんとうにわかったんですか? それに、ツバメ殿はいったい何者なのかもきいていないのだが」



 訝いぶかしげに問われ、ツバメは「ああ、そうでした」とぽんと手を打った。



「すみません、申し遅れました。私はツバメ、精霊器と呼ばれるものの回収者をしております」

「せいれいき……?」



 聞きなれない単語に、首を傾げる。どういうものなのか、漢字すらも見当がつかない。



「はい、精霊の器と書いて精霊器。かつての世界の遺産です」

「かつての世界? 遺産……? 何の話をしているんだ」



 娘が原因不明のまま衰弱していく姿を見続けてきた。今でもそうだ。もう眠っているのか、それとも息をしていないのか、遠目に見た程度では判別もつかなくなってしまった。そんな中に、わけのわからない話をされては冷静でもいられない。最初に信じられると確信があって話したわけではないだけに、喉元までせりあがってくるものがある。

 激昂して立ち上がってしまう寸前の主人に対して、ツバメは至極落ち着いている。それがまた、神経を逆なでた。



「世界は一度水に沈んでいる、という御伽噺をご存じありませんか」



 知っている。その話は子供のころにさんざん聞かされた、有名な御伽噺だ。誰に聞いても知っていると確信すら持てる。



「その話がなんだ。まさか本当だとでもいうのか」

「ええ、まさに」

「……ッこの、ふざけてるのなら帰ってくれ! 私は真剣に――」

「ええ、僕も真剣に、申し上げています」



 それまでとなんら変わらないはずの言葉だった。ただ、その表情があまりにもまっすぐだった。それに、主人は一瞬なりとひるんでしまった。

 年は十七。およそそんな年の少女がする顔ではない。



「信じる信じないは自由ですし、実際見てみないことには精霊かどうかもわかりませんが、まずは、話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」

「……ああ、取り乱してすまなかった」

「いえ、最初に強引に話を進めるべきではなかった、私の責もあります」



 主人は大きく息を吐き出し、未だ喉のあたりに凝る気持ち悪さをなんとか押し沈めた。話を聞いて、どうにもならないとか言われたなら、その時に言おうと自分に言い聞かせて。



「まず、精霊器とはかつての世界にあった魔道具の一種です。精霊と呼ばれる神秘の宿る器物。それらは普通の道具と違って、まさしく魔法に似た効果を発揮することができます」



 主人は黙っている。たぶん、質問できるほど理解が追い付いていない。



「では、僕の見解を。まず、お嬢さんが見つけてきたという弦楽器ですが、おそらく精霊器であると判断できます。精霊器というのは本来魔術師のみに扱えるものであるので、何もないのに危害を加える、といったことはないのです」



 危害を加えようにも、動くためには魔力が必要になる。だから魔術師にしか扱えず、精霊器が動いたとすれば魔力を流し込まれる何かがあった、ということになる。



「では、娘はその、魔術師だったと?」

「いえ、その素養があっただけでしょう。眠っている精霊器を起こすのはそれをしようと思って魔力を込める必要がありますが、精霊器にも個体差や相性がある。本来扱うには程遠い魔力量であっても、相性次第では仮契約も結べてしまう」

「仮?」



 はい、とツバメは頷く。そして後ろに立っているメイを手招き、椅子の真横に呼ぶ。主人が訝しげに見ていると、唐突にメイの衣服を捲り上げた。



「え……あ、は?」



 主人はツバメの行動が理解できずに固まる。捲られたメイは「まったくこの主は……」と諦観を滲ませて額に手をあて、首を振っている。

 それらを見事に流して、ツバメは話を続ける。



「ここに燕の痣があるでしょう」



 臍の下あたり、浮いた骨のところに一羽の燕が確かにいた。痣というより、刺青のような紋様だ。



「このメイも、精霊器です。今は僕と契約しているので、燕の紋様がこんなふうにでています。正契約ならば精霊器の体の一部に主を象徴とした紋様が浮かびます」

「……」

「ですが、仮契約となると、それは主の側に現れる。主から魔力を搾取する――体を蝕むしばむ証として」



 主人はひゅっと喉を鳴らした。どうだったか。娘が倒れてから、彼女の体にそんなものはあっただろうか。どうだったか。少なくとも服から出ている部分にはなかったはずだ。あれば気づいている。

 しかし、今は冬。肌の露出は少ないし、そもそもこのメイのように腹にあれば気づけない。



「なら、それを、見てみればいいのか」

「はい、ですが、おそらくあなたが部屋に近づくのは危ない。僕らが行きますので……そのお嬢さんは、今どこに?」



 いらだちよりも不安が大きく表情に出ている主人は震える声で答えた。



「部屋で眠っています。ここのところは、もう起きている時間の方が短いくらいで」

「そう。では、先にその、お嬢さんの部屋に案内してもらってもよろしいでしょうか」




 

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