Re:you

日櫃 類

第一章 ようこそ、蛍の島へ

第1話 「火螢の御島」



 水の音がする。

 体の内側で遠退くような、近づくような、漣の音。

 穏やかな波の音。荒ぶることはない。

 ただ、静謐せいひつに。

 皮膚の下を、筋肉の表面を、骨の間を、――血管の傍を。

柔らかく、包み込むように、流れる水の感触が在る。

 ――彼の体は、水で出来ていた。



   ◇





 雨の音がしていた。

 しとしと、しとしと。



 静かな夜だ。いつもならもっとがやがやとうるさいというのに、今夜はわずかな喧騒すらも存在していない。どうしたのだと、外へ繋がる戸を軽く開いた。

 なんだ、灯りは点いている。戸に阻まれていた微かなざわめきも耳に届く。



 そのまま靴も履かずに外へ出る。かしゃん、と金網が軋む。足の裏に金網独特の感触が伝わり、それは少し濡れていた。上の方から雨粒が少し落ちてきているようだ。風があるのかもしれない。昨日は春先には珍しい雪だった。白くなることはなく、途中から変わった雨によってすべて解けてしまったが。



 上の方はどうやらまだ寝ているようで、暗い。首の辺りまでの簡易な手すりに身を乗り出し、下の方を見下ろす。この部屋のあたりもまだ灯りが点いていないせいで、少し眩しい。久しぶりの雨だからか、昨夜が季節外れの雪だったからか、今日はいつもより少し見世みせの立ち上がりが遅いようだ。とはいっても、ここは筒状に多くの建物が連なっている。下の方に雨粒はあまり届かないので、関係ないようにも思えた。とすれば、ただ店主たちの気分か。



 下の階、というか金網の下に雑に括り付けられた提灯が灯る。煙草屋が店を

開けたらしい。提灯の上に裸足は熱い。一度中へ戻り、履き潰した草履を足先で拾い、戸を閉めた。見るからに安っぽい戸は完全には閉じることはできない。指二本分くらいの隙間が開いているが、いつものことだ。



 さて、と。

 部屋を出て右に進む。すぐに驚くほど急な坂があるので、それを半ば滑って下る。先の煙草屋の前を通り、さらに進む。今度は適当に組んだのが見て分かるほどガタガタの階段を三段飛ばしに降り、というようにして地上付近まで降った。薄暗かった視界も、気付けば提灯や蝋燭、あとは各々が持つ灯りで赤やオレンジの柔らかい光で満たされた。



「よお、あき。こんばんは」



 喧騒の中、一際響く声で声を掛けられる。「くゆりか」



「ずいぶん眠そうな顔をしているね。どうした、起きたばかりかい」

「……まあ、そんなところだな。今日はこの辺の明かりが点くのが遅かった」

「ん、ん。そうだね。今日は久しぶりの雨だからかな。雨だと、提灯の火をつけるのも一苦労だと、てつの奴が言っていたよ。犲衆やまいぬしゅうもたいへんだ」



 へえ、と頷く。犲衆そいつらは、今頃は上の方の提灯に火を点けているのだろう。 

 くゆりは白い羽毛で編まれた外套を肩に掛けなおし、手に持った紙の束を懐に仕舞った。



「さて、私はもう帰って寝るとするよ。今日は昼間起きていたからね、眠くて

いけない」

「そうか」

「秋、おまえはこれから何をするつもりだい」

「別に、いつもどおりかな。――ああ、いや、でも」



 ざわ、と人の話す声に紛れて。

 りん、と涼やかなくゆりの声の間隙を突くように。

 水の音がする。耳の奥で、掻き分けるような波の音。



「――でも、客が来たみたいだ。それを迎えに行かないと」



 すっと目を細める。このために、身支度もそれなりに下へ下りて来たのだった。くゆりは「そうか」とひとつ返すと、何を考えているのか微塵も気取らせない笑みを浮かべた。



「大変だね、螢守ほたるもりも」






   ◇







 青暦せいれき六〇〇年。

 海に囲まれた丹本にほんというその島国の、ちょうど真ん中辺りに位置する街、帝都ていと。多くの人が集うその街は、しかし、日付が変わる前には完全に眠りに付く。そして日の出まで誰一人も目覚めることはない――ということになっている。



 帝都の中央にぽっかりとあいた、大きな湖。

 そこに浮かぶ島――火螢ほたる御島みしま



 この世のものとは思えない、恐ろしい化け物どもが集うといわれる島。昼間は人、夜は化け物どもの領域であるというのが帝都に伝わる暗黙の了解だった。帝都が真っ暗になると、御島がぼんやりと明るくなる。その光に誘われるようにして、海を越え町を行き――



「化け物どもが、訪れる、ね」



 煙管キセルを吹かしながら、真黒の湖の上に浮かび上がるオレンジを見る。雨が降っているというのに、まるで燃えているようだ。あまり見る機会がないため、いささか背筋が寒くなる。

 今からあそこへ行くのだ。『帝都の小烏こがらす』としての仕事をしに。



「すみません、遅くなりました」



 先月自分の部下に配属されたばかりの青年が息を上げて、現れた。どうやら走ってきたらしい。きちんと黒地に赤で縁取られた制服を纏い、支給される赤い番傘を差している。その背には、ずしりと重そうな袋。



「ちゃんと、来たか」

「仕事ですし、来ます。……まあ、びびってはいますけど」

「まあ、はぐれなきゃ問題ないさ。私らはその袋を届けにいくだけだからな」

「はい」



 一度町の中へ戻る。開けた場所からあの島はよく見えるが、あの町に行くには町の中からしか道はない。暗くなった町の中で唯一灯りのある建物へ入る。

 屋根はあるが、風は吹き抜けるので少し肌寒い。駅だ。古ぼけた電車がそこへ止まっている。夜の間は動くはずはなく、ましてここは終点だった。

 これから行くのは、その終点のさらに先。この町の誰も、本来は行くことのない島だ。



「ゴ乗車、サレマスカ」

「ヒッ」



 物珍しそうに駅の中を見回していた部下が、悲鳴を上げる。まだ小烏になって日が浅い彼は夜の駅に来るのも初めてなのだろう。

 話しかけてきたのは車掌だ。昼間は一般人が車掌をしているが、夜を彼らに任せるわけにはいかない。夜は――彼らの時間ではない。



「乗ります。火螢の御島まで」

「帝都ノ小烏ノ方ト御見受ケシマシタ。スグニ発車シマス。ドウゾ、ゴ乗車クダサイ」



 片言ながらそう言うと、車掌は電車の運転室へと入っていく。幾らとも経たないうちに乗降口がぷしゅーっと音を立てて開いた。ドアは錆び付いていて、ぎしぎしと独特の不快音を発している。

 完全に開ききると同時に中へ入る。怯えるように辺りを見渡していた部下も、慌てて私の後に続く。

 すぐに発車するとの言葉通り、「発車シマス」と放送アナウンスが入る。まもなく動き出した。



 がたん、ごとん。がたん、ごとん。



 ゆっくりと駅の中を出て、暗い水の上の線路へと進んでいく。

 右を見ても暗い水、左を見ても同様。古い電車は地味に揺れるため、嫌でもこの底の見えない暗がりへと沈む想像をしてしまう。部下もそれが怖いらしく、外は極力見ないようにしている。

 ただ、まあ――仮に電車から放り出されたとしても、私には関係ないのだが。

 十分と少しを電車に揺られ、島へと電車は上がる。そこからしばらく林を進むと、門。巨大な門がある。



「ここ……ずいぶん適当な建物なんですね。徐々に継ぎ足されていってるというか、よく倒れないですね」

「実際継ぎ足されてるぞ、ここ」

「そうなんですか?」

「昔はこんなに高くなかった」



 静かだった水上や林とは違って、門のところまで来ると、少し喧騒が聞こえてくるようになる。ざわざわと、楽しそうな喧騒だ。門は上の建物の下を抜ける空洞と一体になっており、そこがこの島の駅となっている。

 電車が止まり、「ゴ乗車アリガトウゴザイマシタ」の放送と共に乗降口が開く。

 電車を降りると、ドアはすぐに閉まり、今来た道を引き返していった。



「え、あの、電車戻っちゃいましたけど」

「基本的には行きっぱなしなのがこの駅だからな」

「ええ、帰りはどうするんですか……」

「さあな」



 それよりも、気を引き締めてもらわねば困る。駅の中を明るい方に向かって進めば、すぐに島の内部へ出られる。

 ふっと視界が明るくなる。縦に連なる建物は筒状で、内部は昼間と間違えんばかりに明るい。提灯や蝋燭を使用しているため、熱気が篭っている。広場には木の椅子がいくつか並び、そこらに並ぶ店で買ったらしい酒や食べ物を頬張ったり、踊ったり唄ったりする、化け物たちで溢れている。目立つところで言うと、着物の裾から覗く下肢が爬虫類の鱗で覆われている者、大きな犬か狼の耳が付いた者。



 後ろの部下は、案の上萎縮しきっている。制服の裾を引っ張り、帽子を深く被って、完全に挙動不審だ。



「おい、大丈夫か。この制服着てりゃ物珍しがられるだろうが、別に襲われたりはしないぞ」

「そそそ、そうですか! わか、わ、わかりました」

「ほんとうに分かってるのか……」



 噛みまくりじゃないか。

まあ、無理もない。この青年は帝都で育ったらしいから、この島の恐ろしさは散々聞かされているだろう。それなのにこの仕事に就いた自分を――こんな仕事があるとは知らなかっただろうが、恨んでもらうほかない。



 さて。

 襲われはしないだろうが、早めにここは退散したいところである。小烏がここを訪れることはそこそこあるし、必要だから来るのだが、やはり島と街は関わることは避けたい。主に島の住人が、あまり街の人と関わることを好まないのだ。一応、迎えが来ているはずなのだが――



「アカザ」



 広場を抜け、片手を挙げて挨拶する小柄な少年がいた。「――秋さん」



「悪い、待たせたな」

「いえ、大丈夫です。こちらこそ急に――」

「うわ、あっ、すみません! ごめんなさい!」



 挨拶する私の、そのすぐ後ろで部下が悲鳴を上げる。振り返ると、どうやら挙動不審が過ぎて店の前の水瓶みずがめを倒してしまったらしい。恐らく酒の入った硝子瓶(がらすびん)が水と一緒に転がり、中には割れているものもある。



「すみません」



 私はおろおろと困惑する部下を背後に庇い、代わりに水瓶を起こし、破片を拾う。慌てて出てきた店主は、部下と私を見遣り、あからさまに舌打ちする。

 この島では、およそルールがない。独自の決まりが横行し、必要に応じて相手と折衷案を出し合う、ということになっている。私たちがカラスであることを差し引いても、どうなるかわからない。



「いくらでしょうか、この者の代わりに」

「アカザ」



 財布を取り出そうとした手を、秋さんが掴んだ。「俺が話しておくから」



「でも」

「いいから、ちょっと離れていて」



 言われるまま、腰を抜かして情けない姿を曝す部下を背負って、広場の隅にある木椅子に座らせるべく離れた。荒っぽい店主と秋さんでは、秋さんのほうがずっと小柄だが、あの人は螢守だ。あの人の言うことは聞いた方がいい。

 暫くして、秋さんが何食わぬ顔でやってきた。大丈夫でしたか、と聞くと、大丈夫、と軽く帰ってきた。秋さんの背後を覗き見ると、水瓶は起こされ、酒瓶は元通り入れられているようだった。このあたりであの水瓶いっぱいに水を入れられる場所は、なかったはずだが。



「もう余計なことしないうちに、沙月(さつき)様のところ行こう」

「はい。……大丈夫か」

「え、あ、……はい」



 部下もようやく落ち着いたらしく、深呼吸をひとつ、大きくしている。そうして立ち上がった彼は、しかし、再び顔を真っ青にした。



「あ、あ、アカザさん、どうしましょう」

「どうした?」

「あの、袋の中身が……空に」



 背には何もなくなり、ただの布があるのみだった。あんな重いものがなくなってなぜ気付かないと言いたくなるが、あの動揺しようでは仕方ない。こうして初めて連れてくる際には問題事はつきものだ。わかっていたことだ。



「今回来た理由だろ、それ。盗られたのか?」

「いえ、盗られるものじゃないんです」

「ものじゃない? 俺、沙月様にアカザたちが来る旨しか聞いてないから、詳しくは知らないんだけど」



 周囲を見て、それらしい異変がないかどうかを探す秋さんに、袋に入っていたものの詳細を伝える。詳細と言っても、ただ一言ですむ特徴だが。




「白い――子どもです。髪も肌も真っ白の、幼い子どもです」




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