神ではないものを神であると思い込んで崇める

 ライトなノリで展開されるスレイマンさま(覇者として超ヤバイ)とイブラヒム(すっげー雑に言うと諸葛亮)のラブラブちゅっちゅ(物理)をにこにこと眺めていたのですが、後半にいきなり出てきたこの言葉で刺されて、ええと、何と言うか。

 その落差で爆笑しました。
 いやっ、そのっ!?

 自分はイスラームに明るくなく、コーランの向こうにいる人々の顔があまり見えません。だからコーランの「アラビア語のみで書かれるべき。その言葉を一字一句違えぬためにも。外国語で書かれたコーランは、ただの解説でしかない」と言うメンタリティの厳正さに心打たれつつ、そうでもしなきゃ弱い人間の解釈はどうしても揺れちゃうよねーと思い、とは言っても守るのってきつくね? 辺りで考えが止まっていました。

 けど、このお話を読んで、あーまぁそりゃイスラームの人びとも人間ですしねー、と胸をなでおろす感があり。神より賜いし法と、人間たちが実際に暮らしてゆくにあたって布かれる法とには、違いがあってこそしかるべきであります。また、人の法は決して絶対化されてはいけません。常に相対化がなされるべきなのです。

 絶対化って嫌いなんですよ。自分の絶対化もそうだし、他人の絶対化もそう。どちらにせよ「相手」の尊厳を踏みにじる行為です。同じような感じで、宗教にも「何か特定のものを絶対化させる」要素を感じて違和感を覚えていたりもしたのですが、上記の言葉を受けて、はっと気づくものがありました。

「見えない何か」を絶対化させることは、見えるあらゆるものを相対化させることに繋がります。そう認識すると、信仰、つまり大いなるものへの無制限の愛を抱くことで、人と人とが労わり合い、慈しみ合う、あるいは合わない人に対しても極端な否定拒絶を示さず、一定の理解をし、尊重する、ということができるようになるのかな、とか、そんなことを思いました。

 以上の思考を、一言に集約致します。

 にゃーん。

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