降りかかる災い〈後篇〉
しばらくの間、わたしたちは家を空けることにした。サヨコの意思を尊重し、彼女の実家に泊めてもらうことになった。
事情は、話さざるを得なかった。サヨコの怯えようは尋常ではなかったし、彼女の手首についた痣について、他に説明のしようがなかった。一時は、わたしがサヨコに暴力を振るったのではないかと疑われもしたが、サヨコ自身がそれを否定してくれたおかげで、なんとかその場はおさまった。
当然のことながら、サヨコは風呂場をひどく恐れていた。お義母さんには申し訳ないが、カノンを含めた女性陣には銭湯に通ってもらうことになった。
そうして、三人が家をでてゆくと、お義父さんと家のことについて話した。双方とも引っ越すべきだろう、と早々に意見は一致した。なのに結論は毎夜、先延ばしにされた。互いに釈然としないものを抱えていた。
「どうして、突然おかしなことが起きたんだろうねぇ……」
その点でも、わたしとお義父さんの意見は一致していたのだ。
わたしたちが新居で暮らし始めたのは、カノンが生まれる一年ほど前のこと。あの家には、もう六年も住み続けている。しかし、つい先日まで怪奇現象の類いが起きたことは一度もないのである。
だとすれば、原因は家ではなく他にあるのではないか。
怪異に合理性を求めること自体、そもそも間違いかもしれないが、わたしとお義父さんのふたりは、どうしてもその点が腑におちず決断を下すことができなかった。
「どこかで貰ってきたんでしょうか」
「そんな変なところに行ったかね?」
「いえ、憶えはないですが……」
「貰ったんじゃなくて、拾ってきたりは?」
「まさか。わたしは骨董とかにも興味ありませんし」
「きみにないなら、カノンちゃんはどうだ?」
「ないと思いますけど。外出するときは、わたしかサヨコが一緒で――」
いや、待てよ。
その時、雷に打たれたような衝撃が、わたしを襲った。
あの日――怪奇現象が起きたあの日、風呂上がりのわたしをサヨコが怪訝に見ていた。どうしたのだろうと思った。だが、あの時、わたしの目が捉えていたのは、サヨコの姿だけではなかったはずだ。カノンもいた。確かにいた。泥団子を磨いていた。
「……あれだ」
「なにか、心当たりがあったのかい?」
お義父さんが前のめりになる。わたしも額を突き合わせるように、前に乗り出した。
「確証はありませんけど、例の出来事が起こる前日、泥団子を持って帰ってきたんです」
「はあ」
「海水浴に行ったんですが、カノンの奴すぐに海に飽きて砂遊びを始めちゃったんです。最初は砂のお城とかを作ろうと頑張ってたんですけど、なかなか上手くいかないのか機嫌悪くなってきて、それでわたしが助け舟をだした」
「それが泥団子?」
「ええ。サヨコも昔作った、懐かしいってはしゃぎだしまして。磨くのにはストッキングがいいとか、泥だらけになるのも構わず遊んでましたよ」
「それを持ち返ってきたと」
「汚いから置いていくって言ったんですけどね。持って帰るってカノンが駄々をこねて……それで」
ちょっと調べてみます、とわたしはスマホを取り出した。海水浴場の名と『事故』のワードを組み合わせて検索をかけてみる。
「うっ……」
たちまち、わたしは色を失った。それらしい記事が無数にヒットしたからだ。さらに衝撃的だったのは、その事故の凄惨さだった。
『K中学校水難事故』と記されたその事故は、およそ七十年前に起きていた。K中学校の女生徒たちが例の海水浴場で水泳訓練をしていたところ急な高波に襲われ、実に三十六名もの生徒が溺死したというのだ。
もしかしたら、という予感はあった。だが、これほどまでに痛ましい事故が起きていたとは思いもよらなかった。砂の怪異は、非業の死を遂げた女生徒たちの無念のあらわれかもしれない。
わたしはテーブルにスマホを置き、反転させてお義父さんに差し出した。お義父さんは鼻にのったメガネを額まで押し上げて、スマホを覗きこんだ。見る見るうちに顔が青ざめ、眉間のしわが深くなってゆく。やがて記事を読み終えた頃、呻きにも嗚咽にも似た声が零れた。
「……正直、霊とか呪いとか、そういった類いのものには懐疑的だよ。しかし、こんなものまで見せられると、いよいよ泥団子が原因のように思えてくるね」
「泥団子を元の場所にかえすべきでしょうか?」
「まずはお祓いしてもらってはどうだね。泥団子も一緒に」
「お祓い、か……」
これまで霊的なものと縁がなかったせいもあって、お祓いをしてもらうという発想自体がなかった。厄年の厄除けくらいしか経験もない。実際に効果があるかどうかも疑わしいというのが本音だった。
そういった疑念や不安といったものが顔に出ていたのだろう。わたしの心を解きほぐそうとでもするように、お義父さんがふっと微笑を覗かせた。
「近頃は、電話相談やネット予約なんかもあるって聞くよ。中にはインチキくさいのもあるだろうが、とりあえず一度、調べてみてはどうかね」
「そうします。サヨコやカノンに、また何かあってからじゃ遅いですから」
理由はそれだけではなかった。もちろん、妻子の安全は最優先事項だ。家族より大切なものなど他にない。だが、もし、この怪異を鎮めることができるなら、妻子の他にも救われるものがいるのではないだろうか。
およそ七十年前に亡くなった子どもたち。その魂。
カノンという娘がいるからこそ、わたしは彼女たちの無念を想わずにはいられなかったのだ。
――
サヨコとも相談し、それから三日と待たず、お祓いをしてもらうことに決めた。
こちらからお家に伺うこともできますよ、と住職は言ってくれたが、サヨコの気持ちを斟酌して、直接、寺へ向かうことにした。
寺にはあの泥団子も持参した。移動中に何かあるのでは、と私とサヨコのふたりは気が気でなかった。一方で、カノンはお義父さんの禿頭を撫でるのと似た手つきで、泥団子を撫でまわし続けていた。
寺につくと電話口にでた住職が迎えてくれた。わたしより十かそこらしか変わらない若い住職だった。いくらか世間話をして、住職の奥さんから頂いた茶をすすり、退屈したカノンが眠ってしまった頃、ようやくお祓いを始めることになった。
最初に祝詞が読み上げられ、白い
「すみません」
向き直った住職に頭を下げると、住職がいいえと微笑んだ。
「お子さんは感じやすいですから。ぐっすり眠れているのは好いことですよ」
それから、今度は憑いている霊とお話します、と住職は言った。
祭壇の前に丁寧に泥団子を置き、一礼してから経のようなものを唱え始めた。
わたしたちは、住職の背中を黙って見ていることしかできなかった。しかし住職の胸にまで染み入るような声、その独特の抑揚、香のかおり等を感じていたからか、不思議と亡くなった子どもたちのことが頭に浮かんできた。すると、ひとりでに口が開いていた。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――と。
いつの間にか、お堂はしんと静まり返っていた。住職がわたしたちの方を向いていた。サヨコも遅れて気がついたようで、わたしたち夫婦は互いに顔を見合わせてから、住職に向かって頭を下げた。
それから座敷に通され、また少しばかり世間話をした。住職の奥さんが和菓子を運んでくると、カノンが目を覚ました。皆、笑った。
寺をあとにする段になって、住職が言った。
「もしかしたら、憑いていたのは事故で亡くなった子どもたちだけではないかもしれませんね」
「え?」
「わたくしも直接お話ができるわけではありません。仏様を通して、否、仏様がわたくしを通して霊とお話をしたとでも言うべきでしょうか。その際に、おやと感じましてね」
そう言うと住職は、袈裟の内側から柄にもなくスマホを取り出してみせた。何事か打ちこんで、わたしたちに画面を見せてくれる。
「これって、わたしがお話した事故の記事ですよね?」
「ええ。ですが、ここには事故の詳細が記されています」
どういうことだ、と疑問に思いながらも、わたしはサヨコと横並びになってスマホを覗きこんだ。そして、ふたりして声を失った。記事には、事故から生還した女生徒のインタビューが記載されていた。それによると女生徒は、波から生えた無数の砂の腕が、クラスメイトたちを海中へと引きずり込んでいったとあった。記事はこう続いていた。
『事故が起きる十年前――T市は米軍の空襲を受けていた。生徒が見たという砂の腕は、儚くも戦争によって命を失った人々の無念のあらわれかもしれない』と。
「わたくしにも真相はわかりかねますが、あの泥団子に憑いていたものたちには、あるべきところへ還っていただきましたよ」
「極楽、ですよね? 事故で亡くなった子どもたちも、空襲で亡くなった人たちも、極楽へいけたということですよね?」
どこか縋りつくような口調になってしまった。今回の件を通して、なぜかわたしは感じやすい人間に変わってしまったようだった。
さいわい、答えは住職の鷹揚な頷きによって知れた。わたしはサヨコを見、それから彼女の腕に抱かれたカノンを見た。ふたりとも、わたしの様子にやや面食らった様子だったが、そんなふたりの姿がこの上なく愛おしく思えた。
住職は、念のため泥団子を改めて供養すると言った。わたしは、またカノンが駄々をこねるのではないかと危惧したが、不思議なことにカノンはもう泥団子に拘泥しなかった。
あとになって、その理由を尋ねてみた時、カノンはこう言った。
「うーん。もうさみしそうじゃなかったから」
――
お祓いを受けたその夜、わたしは夢を見た。その地平に立っている自分を認めた瞬間、これは夢だとすぐにわかったのだ。
そこは、瓦礫と黒煙と炎がくすぶる大地だった。空は赤く、どこからか赤ん坊の声が聞こえていた。その儚い生命の足掻きさえ許さぬかのように、ブゥンという重々しい唸りが空気をかき回していた。遠くの空に目をやれば、豆粒のような黒い機影が幾つも列を成しているのが見えた。
地獄のようだ、とわたしは思った。
実際、それは地獄だったのだと思う。人の愚かさから生じた命の奪い合いだ。地獄以外にも、それには呼び名がある。多くのものが忌み嫌う、それは戦争と呼ばれている。
見渡す限り、そこに人の姿は認められなかった。わたしはただ一人、そこに立っていた。サヨコもカノンもいなかった。夢だとわかっているのに、ひどく不安な気持ちになった。今すぐ、ふたりを抱きしめたい気持ちになった。
「あ」
その時、立ち尽くすわたしの隣を、誰かが通りすぎていった。
脂ぎっていて、けれど煤だらけの乾いた髪が、防災頭巾からちょろちょろと覗いていた。モンペ姿の、それは少女だった。
呆然とその背中を眺めていると、一人また一人と、焦土に人影があらわれた。いずれもまだ子どもだった。皆、不安そうに辺りをきょろきょろと見回していた。その姿を見ていると、胸を締め付けられるような気持ちになった。
助けてくれ、とわたしは思った。自分のことではない。あの子どもたちを、だ。
大人になるにつれ、そんな「誰か」への願いは大概かなわないものだと知っていくのが人間だ。それでも、わたしは願った。
すると、灰色の煙が立ちのぼる地平線に、ぽつぽつと影が浮かび上がりはじめた。それらはゆらゆら揺れながら、わたしたちの方へと近づいてきた。すぐにも、それらは人影であるとわかった。そして次の瞬間には、それらが人間の大人であることがわかった。子どもたちが歓喜に喉を震わせ、駆け出したのはその時だった。
大人たちは、駆け寄ってくる子どもたちを、笑顔で迎え入れた。懐に飛んできた男の子を抱き上げ、足もとに縋りついた女の子の頭をわしゃわしゃと撫でた。
どこを見ても父と母がいて子がいた。皆、再会をよろこび、泣き笑いの表情を隠そうともしなかった。
わたしはこれが最初から夢であることを知っていたが、ここに現れた者たちが何者かは、この時になるまで知らなかった。そして、ようやくわかった。彼らは戦争の引き起こした無念によって、この世とあの世に引き裂かれていた家族なのだ、と。
地獄に立ちながら、わたしは思った。よかった、と思った。
住職は、真相はわからないと言った。だが、真相はここにあった。この家族すべてが救われたのだ、とわたしは理解した。わたしは涙した。
そして、気が付くと暗い部屋のなかにいた。枕もとのランプだけが淡く光を放っていた。
隣にサヨコの寝顔があった。わたしと妻の間に、カノンの小さな体がすっぽりと収まっていた。
わたしはふたりを起こさないように、ゆっくりと腕を伸ばした。そうして抱きしめたふたりの体は温かった。
とある夜に 笹野にゃん吉 @nyankawa
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