降りかかる災い〈前篇〉

 風呂上がりに妻のサヨコから言われる一言は、いつも決まって「裸でうろうろしないで」だった。

 それに対するわたしの反応も、毎日変わりがない。ごめんごめんと心にもない謝罪を口にしては、冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを手にするのである。

 そして、五歳になった娘のカノンも「パパ、ママけんかしないで」とすっかり聞き慣れた仲裁の言葉を投げかけてくる。悲しそうに眉尻を下げながら。


 この日も、わたしは妻から注意を受けるとわかっていながら、パンツ一丁でリビングに現れた。サヨコが眉をひそめた。今にもあの文言を口に出そうとする気配を感じた。


 ところが、今宵はどういうわけか一拍の間があった。

 それを奇妙に感じたわたしは、冷蔵庫を開けたところで手を止め、振りむいた。サヨコが怪訝な顔つきで、わたしを見ていた。ピカピカの泥団子を磨く、カノンの頭を撫でながら。


「……なに?」

「あなた、お風呂入ったのよね?」


 わたしは、ぽかんと妻を見返した。たしかに、脱衣所で服を脱いでから小用を思い出し、家の中をうろうろすることはあった。だが、風呂に入ったかどうかは、濡れた髪や肌に浮いた汗の照りを見れば一目瞭然のはずだった。


「入ったけど」

「じゃあ、その髪どうしたのよ」

「髪?」


 サヨコの言っている意味がわからず、わたしは髪の毛をかき上げてみた。しっとりと濡れていた。もっと真ん中のあたり、と彼女が言うので、すこし広くなってきた額の上あたりに指を入れてごしごしと擦りあげてみた。すると。


「ん、なんだこれ……?」


 指先にざらざらした手触りを感じた。髪をひと房つまんで指を滑らせ、そこに付着したものを取ってみる。指先に黄色く細かな粒子がのっていた。


「砂……? おかしいな。ちゃんと洗ったんだけど」

「疲れてるんじゃないの。入り直してきていいわよ」

「ごめん。頭だけ洗って、すぐに出てくるよ」


 おかしいとは思いつつも、自分にはこういうところがあるよなと妙に納得する部分もあった。毎日、同じ注意を受けても改善しないわたしだ。ちょっといい加減で怠惰なところがあるのだ。


 それにしても、一目みて砂が付いているとわかったのか。サヨコに視力がいいイメージはなかった。それどころか、近頃はスマホやパソコンを見るようになったせいか、目が悪くなったとぼやいていた気がする。


 変だな。

 風呂に入り直す前に、脱衣所の鏡を見てみることにした。

 さっと血の気が引くのがわかった。

 

「なんだよ、これ……」


 髪色がまだらに見えるほど、大量の砂が頭に付着していたのだ。

 何が起きているのか解らなかった。

 やがて頭に過ぎったのは、脳や神経の病気を患っている可能性だった。

 どこでこんな量の砂を拾ってきたのか思い出せなかった。頭はたしかに洗ったはずだが、鏡に映った自分を見たあとでは、その記憶も疑わしく思えた。


「と、とりあえず、洗い流さなくちゃな」


 サヨコとカノンが入浴の順番を待っている。あえて、その事に注意を向けた。

 シャワーをだして、まだお湯になり切っていないうちから、そこに頭をつっ込んだ。透明な液体が、次第に黄色くにごって排水溝へと流れてゆくのが見えた。

 それがまた澄んだ色に戻った頃、顔を上げて鏡をみた。もう砂は付着していなかった。今度こそ洗えた。ほっと息を吐きだした。謎の自信、あるいは安堵感が不思議と胸を満たしていった。



――



 酒で腹が温まってきた頃には、砂のことなど忘れていた。

 サヨコがカノンを連れて浴室へ行ってしまったので、わたしはひとりソファに体を沈めながら、バラエティ番組を観ていた。大して面白くはなかったが、好きな女性タレントが出ていた。グラビアアイドル上がりのタレントで、整った顔立ちをしており、胸も大きかった。


 同世代の女性と比較すれば、サヨコもきれいな方だ。日々、美容に気を遣っているのも知っている。それでもアラサーと呼ばれる年齢層に突入してからは輪郭がぼやけてきたし、さすがにグラビアアイドルのファンタジーめいた巨乳の持ち主ではない。微かな罪悪感に胸を衝かれながらも、わたしはテレビの中の美女にだらしない笑みを向けていた。


「きゃあああああぁああぁぁぁああ!」


 そこに突然、悲鳴が届いた。サヨコの声だった。

 わたしはソファの上で跳ね上がった。一気に酔いが醒めた。どうした、と浴室に呼びかけても返事はなかった。わたしは慌てて脱衣所に駆けこんだ。浴室の磨りガラスのドア越し、ふたり分の輪郭がぼんやり窺えた。


「サヨコ、カノン! どうした!」


 ドアに拳を叩きつけ叫んだものの、シャワーの音しか返ってこなかった。

 嫌な予感がした。わたしは浴室のドアを押し開けた。

 きょとんとしたカノンと目があった。その一方で、膝のうえに娘を抱いたサヨコは、怯えたような、縋るような目をわたしに向けた。

 何があった? そう訊ねようとするのを、とっさに呑みこんだ。見れば、状況は明らかだったからだ。

 シャワーだ。シャワーの水が黄色く濁っている。


「砂がでてる……」


 サヨコは小刻みに震えながら、シャワーから離れた位置でカノンを抱いている。当然、ふたりとも裸だ。カノンが鼻をすする。わたしはバスタオルを持ってきて、ふたりの体を包んでやってから、シャワーの栓を捻った。

 すると、とつぜんサヨコが子どものように泣き出して、わたしの体にしがみついてきた。妻と触れ合うのは久しぶりだったが、いまはその喜びよりも、彼女への憐憫の情が勝った。わたしは妻子の背中を、バスタオルの上からゆっくりと撫でてやった。


「大丈夫。大丈夫だよ。きっと水道設備になにかあったんだ。明日、業者を呼んでみてもらおう」


 砂が出ているのには、わたしも驚いた。修理にはそれなりの金が必要になるだろうと思うと、胃が重くなるというか、運の悪さを呪いたくなる。だが、それだけの話のはずで、妻の様子は不可思議だった。明らかに尋常でない怯えようだった。

 急な出来事にパニックを起こしただけかもしれない。わたしは自分にそう言い聞かせながら、妻子の背中を撫で続け、サヨコが落ち着くのを待った。


「……違うの」


 しかし、サヨコの恐怖は一向に立ち去る気配をみせなかった。違う、ちがうとか細い声で、彼女は幾度もくり返し言った。次第に、その声が大きくなってゆく。


「違うちがう、違うのよッ!」

「お、落ち着いてくれ。なにが違うんだよ」

「こ、これ……!」


 バスタオルの中、サヨコが恐るおそる右腕を伸ばしてみせた。白い腕の産毛に、乾き切らない滴と砂粒が見てとれた。彼女が示してみせたのは、しかしそのどちらでもなかった。

 手首。そこに多頭の蛇が巻き付いたような痣ができていた。無論、それは蛇が巻き付いた痕ではなかったが、サヨコの味わった恐怖を察するには充分な証拠だった。


「だ、誰にやられたんだ?」

「わかるわけないじゃない……!」


 とうとうサヨコが泣きだした。わたしは、その華奢な体を抱きしめることしかできなかった。

 サヨコの手首に刻まれた痣は、人の手形をしていた。


「……砂なの」


 それまで両親のやり取りを見守っていたカノンが、ふいに口を開いた。潤んだ瞳でわたしを見上げながら、サヨコの身に起こったことを説明してくれた。


「砂がね、ママの手にまきついてきたの」

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