爪〈後篇〉

 突然、目の前にパッと明かりが灯った。まとわりつくような闇が飛び退き、タクヤの輪郭がくっきりと浮かび上がった。白目を剝きながら振り向いたタクヤの手には懐中電灯が握られていた。


「ばぁ!」

「お前の変顔なんか見ても怖くねぇよ」


 こういう時、バカが一人いてくれると和む。

 真っ暗闇に、不気味な壺。

 そういったものに怖じ気づいていた自分の方が、よほどバカに思えてくるから不思議だった。


「ちぇっ、つまんねぇなー」


 タクヤは不満げに唇を尖らせながらも、淡々と準備をはじめた。懐中電灯の明かりを上にして床に置き、そこに慎重な手つきで、水の入ったペットボトルをのせたのだ。乱反射した光が空き家の風景をぼんやりと浮かび上がらせた。


「うお、すげぇ。照明みたいだ」

「災害時に役立つ豆知識みたいなやつ。この前テレビでやってた」


 当然、家具の類は見当たらない。腐ってささくれ立った畳が敷かれているだけの殺風景な部屋だった。正面玄関のほうに錆びの浮いたシンクがあって、そこから細長いムカデかゲジゲジのような生き物が這い出してくるのが見えた。

 床に堆積した埃を払い除け、虫がいないのを確認しながら、オレたちはゆっくりと腰を下ろした。懐中電灯を挟んで向かい合う。


「気持ちわりぃし、カビくせぇし、さっさと終わらせようぜ」

「意外と潔癖だったりする?」

「ゴキブリとかはマジで無理。なんていうかな、遺伝子レベルで無理」

「あー、わかる!」


 なんだか拍子抜けしてきた。

 これじゃあファミレスで飯を食ってる時の会話だ。とても幽霊、お化け、魑魅魍魎の類が現れるとは思えない。思えなかった。はずなのに。


「そんじゃ、これ!」


 と、タクヤが壺を床に置いた瞬間、その姿が明かりの中に映し出された瞬間、すっと肌のうえを冷気が伝った。明かりを避けて部屋の隅っこにまで後退したはずの暗闇が、ぬっと背中に覆い被さってきたような気さえした。

 壺を封じた蓋、そこに貼られた札の赤い文字。なんと書いてあるのかは達筆すぎて読めない。読めないけれど、「開けるな」、「触るな」、「近づくな」、そんなようなことが書いてあるように思えた。


 タクヤに気付かれないように生唾を呑みこむ。ゆっくりと視線をあげる。

 そんなオレの姿を嘲笑っているのかと思ったら、意外にもタクヤの方も顔色がよくなかった。


「お前、これどこから盗ってきたんだよ」

「近所のじいさんの所に立派な蔵があって、そこから」

「よくそんなところに入りこめたな」

「古い蔵だからかわかんねぇけど、鍵が壊れてたんだ」

「なんか曰くつきのもんだろ、これ」

「わかんねぇ」

「そのじいさん何者?」

「……わかんねぇ」


 その時、キィと裏口の扉が開いた。

 ふたりしてハッと振り向けば、外の景色が矩形に切り取られて見えた。巨大な亡者の手のようなものが揺れていた。朽ちた外壁を引っ掻き、ザリ、ザリと音をたてながら。


「うぇ……ッ」


 タクヤが情けない声をあげた。

 オレは腕に爪を突き立てて、かろうじて正気を保っていた。


「ビビんな。ざ、雑草だよ」


 道の向こう側、自販機の明かりが逆光になって、不気味なシルエットが浮かび上がって見えただけのことだ。裏口が開いたり閉じたりするのも風のせいだ。バタン。また裏口が閉まった。なんてことはない。なんてことはない。ここは、ただの空き家だ。


 カリ。


 でも、この壺は?

 本当になんてことはない、ただ不気味な札が貼られただけの壺なのか?


 カリ、カリ。


 もし、そうだとしたら、どうして蓋を引っ掻くような音が聞こえるのだろう。


「……タクヤ。やっぱ帰ろうぜ」


 音の理由を、オレは努めて考えないようにした。耳の不調とか神経の昂りとか、きっとそういうつまらないことが原因だと決めつけた。


「そ、だな。今日はもういいや」


 タクヤももうオレのことを嗤うつもりはないようだった。ここに来て、並々ならぬものを感じたのだろう。

 これでいい。つまらない意地なんて必要ない。オレたちはただの友達なんだから。メンツ? 男気? どうでもいい。ふたりの秘密にしてしまえば、誰かにナメられることだってない。


 タクヤが壺を摑んだ。微かに震える手で。

 そこにまた、あのカリ、カリと蓋を掻く音がした。

 タクヤの肩が小さく跳ねた。

 それでオレは気付いた。音が聞こえているのは、オレだけじゃなかった。最初からタクヤにも聞こえていたかどうかはわからない。わからないけれど、少なくとも今は聞こえているのだ。


 カリ、カリ。


 開けろ、開けろ。

 声なき声が聞こえてくるような気がした。


 オレはタクヤを手伝ってやった。リュックの口を開いて、それをタクヤの前に差し出した。タクヤと目が合った。助かる、とその目が言っていた。言葉もなく、オレは頷き返した。その時、またしても裏口のドアが開いた。


 オレたちは一緒になってドアのほうに振り向いた。

 その拍子に、タクヤの手が滑った。

 時の流れがスローになった。

 落ちてゆく壺を、オレは見ていた。

 手を伸ばしたが、間に合わなかった。


 壺の割れる甲高い音がした瞬間、時の流れが戻った。

 いや、止まったのかもしれない。

 オレとタクヤのふたりは、割れた壺をじっと見下ろしていた。互いに一言も発しなかった。頭の中が真っ白だった。


 壺の破片に交じって散らばっているものも白かった。

 三日月型の、白、白、白――。

 いや、黒く変色した扇形のものも幾つかある。

 不思議と、どれも同じものだと解る。


 カリ。


 あの音。あの音だ。

 壺の中に封じられていたもの。

 それは無数の爪だった。

 扇形のものはきっと根元から剝ぎ取られたはずで。だから、黒いものは元々あかい色をしていたはずで。


 ヒュッと喉が鳴るのと同時に、裏口のドアがバタンと閉じた。

 驚いた拍子に、懐中電灯が倒れた。衝撃で明かりが消えた。

 足で蹴っちまったか? オレが? タクヤが? いや、犯人さがしなんてどうでもいい。それよりも。


「タクヤ! もう荷物置いてけ! とにかく出よう!」


 オレは埃だらけの床のうえを這った。バタバタと。爬虫類みたいに。

 耳元に心臓の音。いや、闇のなか全部が鼓動している。

 汗ばんだ手に埃がへばりつく。

 裏口は? わからない。

 遮二無二、手を動かすしかなかった。ふいに、手のひらに硬いものが食いこむ。


「うわッ!」


 みっともない姿で躓いた。顔のすぐ側に明かりが灯った。懐中電灯に躓いたのだ。海底の泥みたいに埃が舞っていた。そういえばタクヤの奴はどうした? オレは地べたに這いつくばったまま振り向いた。


「うわああぁああっひィ! ああああぁあああぁあぁぁああッ!」


 意味不明な叫びを上げたのは、果たしてオレだったのか。タクヤだったのか。今となってはもう解らない。ただひとつ確かなことは、やはりあの壺が尋常なものではなかったということだけだ。


 闇の中に引きずられてゆくタクヤの顔には、無数の指が食いこんでいた。どれも小さく青白い子どもの手だ。団子みたいな赤ん坊の手まである。いずれも共通して爪がない。その意味なんて解るはずもない。


「助けてェ!」


 悲鳴。今度ばかりはタクヤの上げたものだと解った。

 床に爪を立てて、なんとかその場に留まりながら、タクヤがもう一方の腕を伸ばしてくる。


 逃げろ、と『ボク』が言う。ふざけんな、とオレは怒鳴る。

 友達を見捨てられるはずがなかった。

 タクヤの手を取ろうと腕を伸ばした、まさにその瞬間だった。

 タクヤの頬を這っていた指が、眼球に突き立てられたのは。


「――ッ!」


 形容しがたい叫びが闇にどよもして響いた。

 床に突き立てられた爪がバリと根元から剝がれて飛んだ。

 次の瞬間には、タクヤはもういなかった。崖の下に落ちていったみたいに、闇の中へと引きずり込まれて消えていた。


「……タクヤ?」


 呼びかけても答えはなかった。ただ闇の奥のほうから、ミチミチと柔らかいものを捏ねるような音だけが聞こえていた。


 逃げろ。

 また『ボク』が言った。もうオレは逆らわなかった。

 全身を見えない針に貫かれるような恐怖に、ただただ衝き動かされ。

 空き家をとび出し、ひたすら夜の街を駆けた。


 ひどく朝陽が恋しかった。鬱陶しいとはね付けてきた大人に頼りたかった。

 温かな部屋のなかで安らかに眠りたい。誰かの胸にとび込んで泣きじゃくりたい。

 オレはまだ中学生の子どもで、ひとりでは何もできない無力なガキに過ぎなかった。


 気付けば、タクヤと待ち合わせた公園に戻ってきていた。当然、東屋の下に人影はなかった。

 涙がこみ上げてきた。公園を通りすぎて、街灯の明かりの下で力尽きたように立ち止まった。

 その時、ぽろりとどこからか赤っぽい物体が落ちてきた。アスファルトの道路に転がって、それは微かな音をたてた。


 カリ。


 爪だった。まだ赤い血の付いた、根元から剝がれた爪だった。

 タクヤのものだと何故か解った。

 オレはその場にくずおれて、しゃくり上げるように泣き出した。

 

 夜は独りだった。

 自分以外の人間なんて、もうみんないなくなってしまったみたいに。

 そして夜は静かだった。

 子どもの泣き声に交じって、カリと何かを掻くような音がする他には、もう虫の声さえも聞こえない。

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