爪〈前篇〉

 自分を『オレ』と呼び始めたのは、中学デビューの頃からだ。

 周りの連中の中には、もちろん小学生の頃から『オレ』デビューしている奴もいたけれど、ずっと『ボク』と言い続けてきた奴が『オレ』に変わるには何かきっかけが必要だった。


 そんなわけで、オレは『オレ』になった。一人称が変わっただけじゃない。クラスでいまいち目立たない地味な生徒だったオレは、中学にあがってから大人に反抗するようになって、授業をサボるようになって、髪を逆立てるようになった。小学生時代には、ゼッタイに仲良くならなかったような連中と好んで遊ぶようになった。夜に出歩くようになった。


 べつにヤバいことをやるようになったわけじゃない。タバコも酒もやらないし、ヤクなんて聞くだけでも怖気が走る。だから、そういう連中が集まるような場所には近づかないようにしていた。友達のタクヤも、そんなオレのことをビビりだと嗤ったりしなかった。だから、タクヤとはよく夜に抜け出して遊んだ。


「イイもん持ってきたぜ」


 とはいえ、タクヤはオレよりも少しヤバいことをやっているらしい。

 公園に設けられた東屋の下。まだ昼間の熱気が微かに残っていた。輪唱めいた鈴虫の歌に迎えられながら、今夜もタクヤはを携えてやって来た。


「また盗ってきたのかよ?」

「へへ、まあなー」

「パクられても知らねぇぞ」

「え、ダジャレのつもり? はは、つまんな」

「ちげーよ、ボケ」


 タクヤはとにかく手癖が悪かった。万引き常習犯なら他にもいるが、タクヤの場合は空き巣までするらしい。百円ライターやお菓子といった安価なものしか盗まないのが、かろうじて可愛げのあるところだが。


「で、今日はなに持ってきたわけ?」

「今日のはすごいぜ」

「めんどくせぇな、早く見せろよ」

「はいはーい」


 タクヤはニタニタ笑いながら、Tシャツの中に隠していたものを取り出した。拳よりも二回りほど大きな物体がでてきて、オレは少し困惑した。


「なんだそれ、壺か……?」

「おっ、大正解!」


 タクヤが暗闇の中でぺちゃぺちゃと手を鳴らした。壺を叩いて鳴っている音のようだった。少し濡れているような、湿っぽい音。


「またよくわかんねぇもん盗ってきたな。漬物でも入ってるのか?」

「それがわかんないだよなぁ。でも、たぶん違うぜ。これ見てみろよ」


 そう言って壺を差し出してきたタクヤは、一方の口端をつり上げた不気味な笑い方をした。

 気持ちわりぃ、と毒づきながらも、オレは壺を受けとる。べつに濡れているわけではなさそうだ。表面はつるつるしていて冷たい。縦横に縄がかけてあるせいで、それが手にひっかかった。なんで縄? 疑問に思いつつ矯めつ眇めつしていると、どうやらこの縄が壺の口にのった蓋を固定しているようだと気付く。


「漬物ではなさそうだけど、やっぱよく解んねぇな」

「蓋のところ、よく見てみ?」


 見てみろと言われても暗がりなので、あまりよく見えない。触れてみると、ざらざらした。紙か、木か――微妙だ。具体的に何なのかは判然としない。仕方なく、明かりを点けることにした。周囲に人の気配がないことを確認してから、スマホをとりだした。タクヤがヒヒッと笑った。明かりで蓋を照らした瞬間――


「う、うぉあぁ!」


 思わず壺を落としかけた。

 何故なら、そこには血のような赤い字をしたためた札が何重にもして貼られていたからだ。


「おいおい、大声だすなよ!」


 そうオレのことを咎めておきながら、タクヤのやつは両手を打ち鳴らして笑った。ヒッヒと肩を上下に震わせる様は、オレをひどく苛立たせた。タクヤの頭を一発ひっぱたいてから、いきおい壺を押しつけた。正直、触れているだけで不気味な予感がした。壺の中でしきりに何かが蠢くさまを想像せずにいられなかった。


「さすがにビビるよなぁ」

「こんな夜中にヘンなもん持ってくんなよ」

「夜中だから面白いんだって。近頃、夜も暑いだろ? ちょっとゾッとするくらいがよく眠れるかもしれないぜ」

「夢にまで出そうだけどな……」

「おれの家の近くに空き家があんだよね。もう何年も放置されてて苔むしてるやつ」

「マジで肝試しすんのかよ?」


 オレはあまり乗り気じゃなかった。べつにオカルトとかを信じているわけでもないけれど。馬鹿馬鹿しいなんて鼻で笑えるほど現実主義者でもなければ、豪胆でもなかった。

 タクヤはそんなオレを嗤った。ずっと封印してきた――のかは定かじゃないけれど、ここぞとばかりにオレを煽り立てる一言を言ってのけた。


「お、ビビってんの?」


 不良というほど不良じゃないのかもしれない。ヤンキーなんていうほど危なかったしいガキじゃないのかもしれない。それでも、ファッションでも、のは嫌だった。教室の隅っこで目立たない『ボク』に戻ってしまったら、今後の学生生活になにか致命的な傷を負うような気さえした。


「ビビってねぇよ!」


 タクヤの案内を受けながら空き家へ向かうことになった。

 道中、オレは短く切り揃えられた爪をかじっていた。タクヤが大事そうに抱える壺から目を離せなかった。一歩、また一歩。タクヤが歩みを進めるたび、壺が音をたてるのを聞いていたからだ。


 カリッ。カリッ。


 乾いた音だった。

 ささくれた木の皮を、爪の先っぽでこそげとろうとしているみたいな。

 ちょうど。そう。

 あの赤字の札の貼られた蓋を、邪魔だじゃまだと苛立っているような、そんな音が、しきりに聞こえてくるのだ。


「……タクヤ」

「ん?」


 お前には聞こえないのか。確かめておきたかった。

 けれど、もし、聞こえないと言われたら? オレにしか聞こえないのだとしたら? 

 ますます恐怖は膨れあがってゆくだけだろう。考えすぎだ、と嗤われるかもしれない。いや、オレ自身がそう思い込むべきじゃないだろうか。


「その空き家まで、どんくらいかかんの?」


 結局、音については何も聞けなかった。

 タクヤはもうすぐと言って笑った。

 すると突然、どこからかバタンと扉の閉まる音がした。

 オレはピンと背筋を伸ばし、辺りを見回した。


 今度ばかりは壺の中から聞こえた音ではなかった。公園をでた通りには、家々や田んぼが連なっていて、どこからでもちょっとした生活音や生き物の声なら聞くことができた。鈴虫、カエル、蝉までまだ鳴いている。等間隔に並んだ項垂れた街灯のあかりの下には、猫の尻尾がふっと横切ってゆくのが見えた。


 タクヤの横顔にも怯えた様子は見られなかった。


 大丈夫だ。オレは言い聞かせた。努めて、虫の声や自分たちの足音に注意を向けた。そうしていると、次第に恐怖は薄らいでいった。むしろ、無人の暗い街の中、中学生のオレとタクヤ、ふたりの足音しかないことに全能感にも似た高揚を覚えはじめた。


 景色を眺める余裕もでてきた。公園は待ち合わせの定番だったけれど、こちら側の通りに来るのは初めてだった。一般住宅に交じって、ときおり零細企業らしい事務所の看板が見てとれた。二階に明かりが灯っているところもあれば、すっかり人気のないところもあって、街はまるで眠っているというよりも、どこかで時を止めてしまったように見えた。


 やがて比較的おおきな四辻に出た。手前の建物がまた事務所で、玄関のまえに自販機が置かれていた。場違いな明かりが道路の白線をくっきりと浮かび上がらせていた。


 ちょろちょろと水の流れる音がする。道路の反対側に水路でも掘られているのだろう。端っこの錆び付いたガードレールは、やや道路側にせり出していた。


 バタン。また扉の閉まる音がした。

 今度ばかりは出処がはっきりしていた。

 ガードレールの向こう側だった。

 雑草に囲まれた、一見すると小屋のようにも見える小さな家。その横っ腹、どういうわけか水路側に設けられた裏口が、風を受けてキィ、バタン、キィ、バタンと開閉をくり返していた。


「あれだよ」


 タクヤが言った。あれが例の空き家らしかった。空き家のある通りには、他にもぽつぽつと住宅の屋根が並んでいるものの、どこも明かりは落ちていた。街灯もないせいか人の住んでいる気配も感じられなかった。車があるところを見ると、人の入っている家もあるようだが、どこか打ち捨てられたような寂れた雰囲気を感じる通りだった。


「行こうぜ」


 車の往来もない道を渡った。

 空き家は本当に何年も手入れがされていないようだった。屋根は苔むして、トタンの外壁も朽ちて粉をふいていた。正面玄関など明らかに斜めに傾いでいた。猫も通れそうな隙間が空いていた。鍵などかかっていないように思えたが、タクヤは雑草を踏み越えながら裏口へと回りこんでゆく。


 雑草がこすれて耳障りな音をたてた。折れた雨樋を跨ぐと、足の下で瓦の割れる音がした。

 誰かに、聞かれてやしないか。

 オレの中の『ボク』が警告した。近所の人間にバレるかもしれない。そんなくだらない怯えしか感じないなら、どれだけ楽だっただろう。胸の内、またぞろ育ち始めた恐怖心は、もっと得体の知れない何かが耳をそばだてている様子を想像した。


 オレたちの目の前で、空き家の裏口がひとりでに開いた。

 オレはタクヤの後ろに立って、その肩越しに空き家の様子を観察した。けれど、何も見て取ることはできなかった。まるで行き止まりのような、質量さえ感じさせるような闇が広がっているのを見ただけだった。


 引き返せ、と『ボク』が言う。あの闇に融け込んでしまったら、もう二度と出てこられないような予感がした。ここに来て、タクヤが怖じ気づいてくれればいいと思った。

 けれど、そうはならなかった。タクヤは臆する様子もなければ、オレに行こうと合図することさえなかった。一言も発することのないまま、まるで吸いこまれるように闇の中に踏み入ってゆく。


『ビビってんのか?』


 その背中が暗に告げる。

 引き返せという声を、『オレ』はうるさいと一蹴する。

 闇の中に、一歩踏みだしてゆく。


 一寸先。

 カリと蓋を掻く音が聞こえたような気がした。

 しかし、背後で閉まったドアの、強烈な響きが、すべてをかき消した。

 空き家の中には、もはや一点の明かりもない。

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