エロスか、タナトスか〈後篇〉

「……起きて」


 声で目が覚める。女の声。毎日、聞いている声だった。

 目を開けずとも誰かは解る。彼女に応えたい。そう思う。けれど、とても瞼を上げる気にはなれない。重く圧し掛かっている、幾度も果てたあとの倦怠感。濡れたシーツを何枚も被らされているような気分。俺は赦しを乞うような呻き声だけを返す。


「起きて」


 しかし彼女は頑なだ。こうなってしまっては俺は女の奴隷だ。仕方なく瞼を開ける。枕元に彼女が佇んでいる。顔はよく見えない。カーテンの隙間から闇が融け出している。その濃淡。夜明け前。


 華奢なシルエットの、しかし豊かな胸の膨らみを見ながら、最後に果ててからどのくらい時間が経っただろうと考える。が、すぐ面倒になってやめた。どうせ明日は仕事もない。どれだけ自堕落に過ごしても朝のアラームに急かされるようなことはない。


「起きて」


 彼女は繰り返す。廊下のほうを指差しながら。

 俺は欠伸をしつつ首を傾げる。あの狭苦しい廊下にあるものと言ったら、流しとトイレくらいしかないからだ。まさかトイレに付いて来て欲しいのか?


 そんなことはないだろうと結論づけようとするが、次の瞬間には、やはりトイレだと思い直す。あの映像のことを思い出したからだ。きっとナツコはあの映像を見たせいで、ひとりでトイレに行くのが怖くなったのだろう。確かに、あんなものを見た後では、真夜中のトイレになど行きたくもなくなる。水場にはよく出るなんて話も聞く。ましてや、あの映像は曰くつきだと、他でもない彼女が言ったのだ。


「仕方ないなぁ」


 俺は彼女に右手を伸ばす。彼女はその手を引いて、俺を立ち上がらせてくれる。重度の冷え性なのか、彼女の手は氷のように冷たい。ベッドの上で絡め合ったあの火照りは、もうすっかり冷めてしまったらしい。


 トイレまでの、ほんの数歩の間に、彼女は三度も俺を振り返った。ちゃんと付いてきているか確認しているようだった。俺はそんな彼女を愛おしく思う。これも俺の心を縫い付けておくための戦略だとは解っている。それでも不快には思わない。ただ猛烈に死にたくなる。


「大丈夫だよ。ちゃんとここにいるから」


 何が大丈夫だ。微笑の裏側で、俺は自分自身を罵る。ここにいて欲しいと思っているのは俺のほうじゃないのか。ずっと彼女に側にいて欲しい。くだらない仕事で、くだらない上司から叱られ、くだらない家に独りきりだなんて耐えられない。もう誰にも捨てられたくない。軽んじられたくない。


 ふいに母のことを思い出す。

 いつも香水と汗の臭いを放っていた母。あんたのことなんか産むんじゃなかったと言った母。しきりに俺の頬を打った、あの焼けるような手のひら――。


 ガチャリとドアノブを回す音で、俺は我に返る。そして縋るように彼女を見る。彼女は俺を顧みもせずドアの向こうに消えてしまう。無性に彼女のあとを追いかけたくなる。だが、そこはトイレだ。いくら恋人同士でも付いていくなんて非常識だ。壁にもたれかかり、ずるずると座り込む。


 すると、ドアがキィと耳障りな音を立て俺の肩に触れた。彼女はドアを閉めていなかった。ああ、密室になるのが怖いのか。束の間、そんな考えが浮かんだ。だがすぐに思い直した。そんなはずはない。廊下は真っ暗なままだった。怖いなら、明かりを点けずにトイレに入ったりしないだろう。 


「……ナツコ?」


 返事はない。頼りなく恋人を呼ぶ声だけが暗闇の中に染みわたる。俺はその沈黙を、こんな時に話しかけるなというメッセージだと解釈しようとする。ところが、いつまで経っても用を足す水音さえ聞こえてこない。


 背筋をじわじわと寒気が侵してゆく。亡霊の冷たい舌が這い上がってくるかのように。俺の目はやがて自分自身の右手に向けられる。彼女の冷たい手の感触を思い出しながら。


 あれは誰の手だった?

 彼女は本当にナツコだったか?

 目が覚めた時、俺は一度でも隣を確認しただろうか?


「……どうしたの?」


 その声で、俺は跳び上がりそうになった。しかし実際は、体中が凍りついたように動かなかった。振り向くのに、たっぷり十秒ほどかかった。暗闇に慣れた俺の目は、見慣れた部屋の輪郭を映し出していた。ベッドの端に腰かけるシルエット。その目が闇の中でかすかな光を放っている。


「ナツ、コ? えっと、ナツコだよね……?」

「そうだよ。何言ってんの?」


 訝しげに彼女が答える。その声には不快感さえ滲んでいる。俺はようやく確信する。こっちが本物のナツコだと。


 では、俺をトイレに導いたのは……?

 あるいは今もトイレの中にいるのは……?


「ヤバい……!」


 俺はとっさにトイレのドアを叩き閉めた。そして、突然の出来事に驚くナツコのもとへと駆け寄り言った。


「逃げなくちゃ!」

「なにっ、え、なに?」

「あの映像、本物だったんだ! さっき、あれに映ってた奴が出た!」


 そう言われてもナツコは事態を理解できない様子だ。しきりに部屋のあちこちに目をやり首を傾げながら、「え」とか「なに」とか呟いている。しかし、こちらの剣幕に気圧されたのか、手を引くと大人しく立ち上がった。


 俺は玄関までの道のりを見やる。ここから出るには、トイレの横を通らなければならない。もし、あの女が飛び出してきたら……。そう考えると心臓が破裂しそうになる。


 その時、ナツコが俺の手をぎゅっと握った。温かかった。その熱が、たちまち稲妻のように全身を駆け巡った。暗闇の中で、ナツコが俺を見つめている。見開かれた目玉は真円。ふいに頬を激しく打ちつけられたような心地がする。


「ッ!」


 俺はたまらずナツコの手をふり払った。頬に触れると、そこに幼い頃の痛みが蘇ってきた。耳鳴りがした。


「――!」


 ナツコが何か言って、俺の腰に腕を回した。またぞろ、その熱が俺の腰に爆ぜた。身を捩らせその熱から逃れようとすると、ナツコが唾を飛ばしながら何か叫んだ。金属質な耳鳴りの中に、どっと声が雪崩れ込んでくる。


「お前は何度おなじミスを繰り返したら学習するんだ?」


 俺は頭を抱え、その場に蹲る。ナツコがしきりに俺の肩を揺らす。それではダメだと解ると、優しい手つきで俺を抱きしめる。俺は恐るおそる顔を上げる。ナツコの顔が、すぐ目の前にある。その慈悲深い顔つき。いつか俺が求めた理想の母よりも深い母性が、そこにある。


 けれど、俺はもう騙されない。すべて嘘っぱちだ。俺が本当に求めていたものは、ナツコではない。だって、そうだろう? ナツコの手は温かすぎる。


 母はごめんねと泣き崩れた翌日には俺を殴った。上司はお前はよくやってるよと言った次の瞬間には俺を詰った。かつての恋人たちは愛してると言ってから一月も経たぬうちに、俺の財布の中身とともに消えた。


 俺はそんな世界に、ずっと光を探し求めてきた。そうすることが正しいと思い込んできた。だが、それすらも嘘だったことに、ようやく気付いたのだ。


 カチャ。


 ドアの開く音が聞こえる。

 ナツコの肩越し、トイレのドアがゆっくり開くのが見える。ぬらりと女が現れ、こちらを向く。女の顔には表情がない。怒りも失望も優しさすらも、何もない。ただ空虚な穴のような瞳が俺を見つめる。


『この映像が撮影された翌日、男性は帰らぬ人となった……』


 女のもとへ行けばどうなるか。俺は知っている。

 エロスか、タナトスかだ。

 答えなど端から決まっている。ナツコを押しのけ立ち上がる。女はじっとトイレの前に佇んだまま、俺を待ってくれている。ずっと前から。ずっとずっと前から。死にたい。俺は彼女の声を知っている。耳鳴りが止んだ。


「……起きて」


 彼女の声が聞こえる。ようやく目の覚めた心地がした。追いかけてくるナツコの声を無視して、トイレに駆け込んだ。ドアを閉める直前、俺は自分を生かしてきた未練を探した。右に、左に。


 床にチューハイの缶が転がっている。流しの油っぽい水桶に食器類が沈んでいる。膨らんだゴミ袋から蝿が飛び立った。


 一体、こんな世界の何に執着していたのだろう?

 俺は首を傾げながら、そっと目の前のドアを閉じた。

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