エロスか、タナトスか〈前篇〉

 テレビ画面に映っているのは、中央から十字に区切られた四つの映像。それらのドアや廊下は全て同じものを映していて、映像ごとに角度だけが異なっている。上半分の映像はドアを左右斜め上から撮影したもの、下半分の映像は左右の低い位置から撮影されたものだ。


 いま、そのドアがゆっくりと開かれてゆく。モノクロームの画面はザラついていて、闇の中に何かが蠢いているかのようだった。

 その時、画面から目を背けたナツコが、ぴったりと俺の体にはり付いてきた。天敵につままれたカエルのような声を上げながら。


「まだ何も出てきてないよ」


 俺は小さく鼻を鳴らして、ナツコの頭頂部を見下ろした。そこを一直線に縦断する頭髪の分け目を、俺は女性器のようだと感じた。その瞬間、ナツコが顔を上げ、上目遣いに睨み付けてきた。ぷくっと頬を膨らませたかと思うと、抗議の声を上げた。


「それはそれで怖いじゃん!」


 俺は子どもをあやすように、その頭を撫でてやった。すると、テレビの明かりを受けて白々と光るナツコの目が猫のように細められた。

 室内は明かりが落とされ、カーテンも閉め切られている。心霊映像の臨場感を演出するためにあえてそうしたのだが、ナツコに胸を押し付けられるとたちまち別の感情が湧き上がってくる。


 このくだらない心霊映像を見終えた後のことが頭を過ぎる。きっとナツコもそのつもりだろう。ふたりで寄りかかったベッドの感触が生々しい。わざわざ心霊映像を観賞するなんて、結局そういうことをするための口実でしかないのだ。


 思い切ってナツコの肩を抱き寄せ、その白い首にキスをする。くすぐったそうな笑い声が上がる。


「まだダメだよ」


 そう言われると、ますます気持ちが昂る。だが、待たされるのも嫌いではない。要は遅いか早いかその違いでしかない。待ち受けているものは同じだ。

 俺は大人しく引き下がることにした。テレビに目を戻すと、ちょうどドアの向こうから寝間着姿の男性がまろび出てきたところだった。ナツコが小さな悲鳴を上げた。俺はまたそれを嘲るように笑った。


「この人はお化けじゃない。急にドアが開いたからびっくりしてるだけだよ」

「わかってるって!」


 絶対わかっていない。けれど、些細なことでいちいち意地になるのが可愛い。ナツコもそれが解っているはずだ。あざとい女だ。俺はそういう女を好きになってしまう馬鹿な男だ。そうと解っていながら誘惑に逆らえないのだから救いようがない。前に付き合った女もナツコと同じようなタイプだった。学生が住むような格安アパートの部屋の隅っこで、こうして心霊映像を見ているのは何も会社の給料が安いことだけが理由ではなかった。


 ふいに職場の上司の叱責が思い出された。汗ばんだ手で俺の腰を思い切り叩きながら上司が声を上げる。お前は何度おなじミスを繰り返したら学習するんだ?


 途端に血の気が引き、ブルッと体が震えた。勘違いしたナツコが脇腹を小突いてくる。


「なんだ、怖いんじゃん!」

「べつにそういうわけじゃ」


 いや怖いんでしょ。ナツコは決めつける。

 そんなんじゃない。俺は食い下がる。

 怖い怖くないの小競り合い。子どものケンカのようで情けない。

 だが、却って憂鬱とした気分からは抜け出すことができた。

 

 やがて二人して画面に目を戻すと、いつの間にか閉まったドアが映し出されていた。それが先程と同じようにゆっくりと開いてゆく。おっかなびっくり現れたのは、またあの男だ。男はきょろきょろと廊下を見回し、何もいないのが解ると首を傾げてドアの向こうに戻ってゆこうとした。


 その時だ。


 四つの画面すべてに白い影がフェードインしてきた。

 白いワンピースのようなものを着た長い髪の女だ。一目でそれは〝違う〟と解る。俺はとっさにナツコの手を握った。


 女は滑るように廊下を移動した。男はそれに気付いていない様子だ。女はあっという間に男の脇をすり抜けた。後ろに回り込むと動きを止めたのか、顔面だけが男の肩越しに窺えた。まるで男を後ろから抱きしめて、肩の上にあごをのせているようだった。


 やがて、ドアが閉まり始める。ふたりの姿がドアの向こうに消えてゆく。完全に消えてなくなる。その寸前だった。ふいに、女の顔が左上の画面を振り仰いだ。


 俺はびくっと肩を震わせた。見られたことに恐怖したわけではなかった。女の顔が、どことなくナツコに似ていたように思えたからだ。俺は喉の渇きを覚え、床に直置きした汗だらけの缶ビールを呷った。ぬるい。爽快感など微塵も感じられなかった。粘つくような苦味が食道を滑り落ちていった。


 きつく瞬きをすると、テレビ画面のドアはもう閉じていた。画面が暗転し始め、中央におどろおどろしい字体のテロップが浮かび上がってくる。


『この映像が撮影された翌日、男性は帰らぬ人となった……』


 テロップが消えると、テレビ画面に映りこむ自分自身の姿が窺えた。真っ青な顔で目を見開いている。呼吸が浅い。喉が渇く。

 恐るおそる隣を見る。ナツコは眠っている。穏やかな寝息が聞こえる。その横顔。やはり映像の女によく似ているような気がする。


 俺は彼女を起こさないように立ち上がる。シンクの前に立って水道のコックを捻る。コップに注ぐのももどかしく、蛇口から直接水を飲んだ。胸の奥を冷たい感触が満たすと、ふいにナツコの言葉が思い出された。先程の映像を再生する前に、彼女が言っていた。


「なんかさ、これイワクツキなんだって。怪談とか心霊映像とか、そういうのの中には見たり聞いたりしただけも祟られちゃうのがあるらしいの。でね、そのうちの一つが、これなんだって!」


 ウケるよね。あり得ないよね。ナツコはそう言って笑っていた。

 俺も笑い返していた。きっと彼女と同じ気持ちで。

 それなのに。

 あの女の顔は……ナツコの顔は……。


 今度はコップに水を注ぎ、それを一息に飲み干した。

 ごくりと喉が鳴った。その時。


 ぺた。


 素足が床に触れる音が聞こえた。

 足元からぞわりと怖気が込み上げる。たちまち氷の上に立っているような心地になる。気配。背後の静寂が質量をもつ。

 途端に、体がバネ仕掛けの機械のように動いた。振り返った先に、ナツコが立っている。


「……ど、どうしたの?」


 声が震える。後退った先に逃げ場はない。尻にシンクの冷たさが沁みる。それが却って俺を冷静にさせた。


 あれ?


 眠気眼を擦りながら見上げてくるナツコの顔は、ちっともあの女になど似ていなかった。恐るおそるナツコの頭に触れてみても、その髪は柔らかく滑らかで、そして温かい。悪戯っ子のような笑顔が、俺を見上げる。


「それよりごめんね。先に寝ちゃって」


 指がシャツの中に入って来る。その指先が俺の腹を這う。くすぐるように撫でるように。腹から鳩尾へ、鳩尾から胸元へ。背筋がぞくぞくと震える。冷たい震えではない。燃え滾るような震え。ナツコの寝間着の隙間に豊かな谷間が覗いている。


「今からしよっか?」


 熱が脳を焦がす。返す言葉もなく、いきなりナツコの唇に獰猛なキスをする。

 相手の唇を貪っていると、焦燥めいたものが腹の底に燃え上がってゆくのを感じた。


 ナツコもいつかはいなくなってしまうに違いない。俺から必要なものさえ引き出したなら。なのに、俺はいつまで経っても同じことを繰り返し続けている。またぞろ上司の言葉が脳裏を過ぎる。学習能力のない、俺はクズだ。


 ナツコと唇を重ねたまま、ベッドに向けてよたよた歩く。この先が切り立った崖ならいいと思う。性への渇望。死への衝動。互いが複雑にせめぎ合う。


「ねぇ、来て……」


 けれど、彼女と体を重ねれば、何もかもどうでもよくなってゆく。体中の熱が高まり、俺を衝き動かす。耳もとに彼女の喘ぎ声。ベッドの激しく軋む音。それに混じって、カチャリ……ドアの開く音がする。

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