かざぐるま〈後篇〉

 息苦しさで目が覚めた。胸のうえに重石を載せられているかのようだった。疲れのせいか、酔いのせいか、あるいはその両方か――体調を崩したのかもしれない。瞼を透かす光がないから、きっとまだ夜だ。私はもう一度ねむりに就こうと、目は閉じたまま暗示をかけはじめた。眠れねむれ。朝になれば楽になる、と。


「うぅ……!」


 しかし、胸の重みはいや増していき、ついに暗示をかける余裕もなくなってしまう。背中に汗がにじんで、異様な寒気がしてきた。水の一杯くらい飲んだほうがいいかもしれない。そう思い直して目を開けた。すると、そこにまん丸い顔があった。


「ひ……ぃ!」


 私は叫びだそうとして、逆に息を呑んでいた。いや、喉がひきつって声が出なかったのだ。身体にも力が入らない。頭と胴体を切り離されてしまったような気分だった。


「あそぼ」


 目の前の顔は、にっこりと笑った。それが却って恐怖だった。

 闇の中でもわかる。子どもだ。五、六歳のおかっぱの女の子。真っ赤な小袖を着たこけしのような女の子が、胸のうえに跨っていた。

 尋常の存在でないのは明らかだった。肌が白すぎる。むしろ、透けている。真っ白い肌に、天井の木目が重なって見えている。


「あそぼ」


 女の子はくり返す。人懐っこそうな眼差しで、じっとこちらを見下ろしている。

 私は、女の子をふり払おうと気持ちばかりもがいた。すると指先の感覚が、わずかに繋がるのを感じた。腕にも血が通っていくような気がした。必死に両腕をもち上げ、細い腰をつかんだ。つかめた。触れられた。その事実に、肌が粟立った。


 私は目をつむり、歯を食いしばって力をこめた。しかし、女の子の身体は地蔵のようだ。重い。重すぎる。どれだけ力をこめても、びくともしない。


「ねぇ、あそぼ」


 呼吸はますます苦しくなる。一時、とり戻した身体の自由もきかなくなっていく。

 このままでは死ぬ。私は戦慄する。そして、一か八か賭けることにした。女の子の言葉に、うなずいてみせたのだ。


「あ……っ」


 その瞬間、嘘のように胸の重みが消えた。恐るおそる片目を開けると、女の子はもう跨っていなかった。枕元に立つ足だけが見えた。私は飛び起きて、部屋をでようとした。ところが、酔いと恐怖で足許の覚束ない私は、布団の上にすっころんでしまった。


 頭の中が真っ白になった。また捕まる、と身体が震えた。這ってでも逃げようと畳を叩いたときだった。背後できゃらきゃらと女の子が笑った。その笑い声があまりに屈託のない響きだったから、私は恐怖より困惑を覚えて、ついついふり返ってしまった。


「もっとやって! もっとやって!」


 すると、女の子は手を叩きながら跳びまわった。私を捕まえる素振りなど見せなかった。彼女の期待を裏切ろうとしていた私を疑ってもいないようだった。ふいに罪悪感めいたものが胸にこみ上げてきた。この子は悪いものなのだろうか、と己を疑いもした。


 私はやはり正気ではなかったのだろう。


 つと、その真偽を確かめたくなって、道化を演じてみることに決めた。おもむろに起き上がれば、大仰にたたらを踏んで、ふたたび布団のうえを転がっていた。


「きゃははは!」


 女の子は飽きもせず笑った。無邪気なものだった。

 だが、こう何度も大きな物音をたてるわけにはいかない。宿の人たちが起きてきてしまう。何か他の方法はないのか。私はすっかりこの子は悪いものではないと決めてかかっていた。


「きみは、どんな遊びが好きなの?」


 話しかけまでした。

 女の子は穏やかに微笑むと、腰をひねって広縁のほうを指差した。かすかに、カラと音がした。


「かざぐるま」


 舌足らずな口調で、女の子は言った。

 私はふかく頷くと、広縁まで歩いていって窓を開けた。涼やかな夜風が吹き込んできた。


「わあ!」


 ぱたぱたと女の子が駆け寄ってきた。花瓶から風車を抜けば、窓のほうにかざした。すると、まっすぐに切り揃えられた髪が舞い上がり、くすんだ赤い羽根が回りだした。


 カラカラカラ。


 女の子は目をいっぱいに見開いて、お椀のような髪をつんと逆立てた。腹の底からぞくぞくと興奮が湧き上がるのが傍目にもわかった。やがてこちらを見上げた彼女は、満面の笑みを浮かべた。


「ありがと! ありがと!」


 私はうんとひとつ頷いて、椅子に腰を下ろした。女の子はその後、二度とこちらを見ようとはしなかった。いつまでも、いつまでも風車を眺めていた。私は、その横顔を眺めていた。そうしているうちに、うとうとしてきた。おやすみも言わぬまま、私は眠ってしまった。



――



 ガタガタと襖の揺れる音で目が覚めた。光が眩しい。朝だ。

 襖はまだ揺れている。よほど風が強いのだろうかと思ったが、襖のたてる音と一緒に、しわがれた声が聞こえてきた。


「おはようございます」


 宿の人間だと気付いて、私は布団から飛び起きた。そう、私はいつの間にか布団で眠っていたのだった。昨夜の出来事は、すべて夢だったのだろうか。あやふやな頭で、ろくに身支度もできぬまま、私は襖を開けた。


「お、おはようございます!」

「ええ、おはようございます」


 廊下に立っていたのは、おじいさんだった。背筋のピンと伸びた上品そうな。昨日はろくに挨拶も――とかなんとか言って、おじいさんは頭を下げた。


「いえいえ、お気遣いなく。こちらこそ、挨拶もなくすみません」

「いいえ。ところで、今日はすぐにお帰りですかな?」

「朝食をとったら帰ろうかと」

「そうですか。では、うちで食べていかれませんか」

「いいんですか?」


 予約の際に食事の用意はいらないと告げていた。ロードバイク一式を揃えたおかげで、近頃、財布が軽いのだ。余計な出費は抑えたかった。


「簡単なものでよければ。べつにお金もいりませんので」

「ありがたいですけど……どうして?」


 そう訊ねると、おじいさんはちょっと身をのり出して部屋の奥を覗きこんだ。例の広縁。その花瓶に挿してある風車を見たのだった。


「昨夜、あの子と遊んでくれたでしょう?」


 その一言で、頭にわだかまっていた眠気が吹っ飛んだ。おじいさんが、あの女の子のことを言っているのは明らかだった。昨夜の体験は、夢ではなかったのだ。


「やっぱり、あの子いるんですね」

「ええ、いますとも」


 おじいさんは柔らかく頷いた。そして、続きは食事をたべながらでもと私を朝食に誘った。寝癖を撫でつけた私は、おじいさんと一緒に階段をおりていった。玄関のすぐ近くの部屋に入った。古い台所の正面、テーブルがぽつんと置かれただけの質素な部屋だった。おばあさんや娘夫婦の姿はなかった。


 どうぞ、とおじいさんは奥の椅子をひいて私を座らせた。テーブルの上にはラップのかかった白米、焼き魚、味噌汁が置かれていた。おじいさんの手前にも、同じ献立が用意されていた。


 食べてくださいとも何とも言わず、おじいさんはいただきますと手を合わせ、さっそく焼き魚に箸をつけた。私も合掌して、おずおずと白米を口に運んだ。ラップがかかっていたから、すっかり冷めているのかと思えば、白米はまだ温かかった。焼き魚も味噌汁も、しっかり熱が残っている。おじいさんは食事が冷めないうちに、私を起こしてくれたのかもしれない。


 ズズズと味噌汁を啜ったところで、ようやくおじいさんは女の子の話を切り出した。


「あの子の姿は見れましたか?」


 やはりあの子は目に見えない類の存在なのだと、私は改めて理解した。


「小さな女の子でした」

「そうですか。そうでしたねぇ」


 おじいさんは嬉しそうに、そして懐かしそうに目を細めた。


「実はね、あの子は誰にでも見えるわけではないんです。わたしもずいぶん長い間見ていなくて」

「そうなんですか」

「ええ、でも小さな頃に一度だけ見たことがあるんですよ」


 たった一度だけね、そう寂しそうにくり返すと、おじいさんは食事の手をとめ語り始めた。


 当時、おじいさんには四人の兄弟がいたそうだ。家の中はいつも騒がしく、子どもたちがはしゃぐ所為で家が揺れていたという。だがその日は、兄弟以外にもうひとり子どもがいた。それが私も遭遇した、あの女の子だった。


「赤い着物の、こけしみたいな子でした」


 その子はただひとり縁側に腰かけて庭を眺めていた。見覚えのない子だったが、あの時は、親戚の子どもでも遊びに来たのだろうとさして気にも留めていなかったらしい。


 おじいさんは女の子の隣に腰を下ろして、何をしているの、と声をかけてみた。すると女の子は、母様を待ってるのと言って、片手にもった風車に息を吹きかけた。風車は笑い声をあげるようにカラカラと回った。それをかき消すように、二階からドンドンドンと兄弟たちの足音が降ってきた。


 それ楽しいの? 楽しくないなら仲間に入れてあげようという気持ちで、そう訊ねた。

 けれど女の子は、迷う素振りひとつみせずに、楽しいよと答えたのだった。


「その時、あの子こう言ったんです。あたしはここで待ってることしかできない。外には出ていけない。でも、風は外のものをたくさん運んできてくれるでしょうって」


 その後おじいさんは、やかましい天井を見上げ、ふうんと気のない返事をした。

 隣に向きなおると、女の子はいなくなっていた。持ち主のいない風車だけが、ぽつんと残されていたという。


「風は本当に色んなものを運んできてくれる。ひとというのもきっと、その風のようなものなんでしょうねぇ。あの子と遊んでくれて、ありがとう」



――



 正午を迎える前に、私は宿をでた。

 ロードバイクに跨りながら、なるほど私は風だったのかと微笑んだ。道理で家のなかを窮屈に感じるわけだ、と。


 そして、こうも思うことができた。

 私が風なのだとしたら、未来とか将来なんてものに怯える必要はないと。


 風はどこへだって行けるのだ。山に砕けても、波にさらわれそうになっても吹き続けることができるのだ。


 家に帰るまえに、私はちょっと道草をした。雑貨屋を走って回ったのだ。

 目当てのものを見つけると、それをふたつ買って、民宿に一度立ち寄った。その時、ちょうどおじいさんが出てきた。私は雑貨屋で買った風車をとりだして、おじいさんに手渡した。


「泊めていただいた部屋の風車、ずいぶん古くなっていたので」

「どうもありがとう。きっとあの子も喜びますよ」


 私はおじいさんと握手を交わした。また来ますと約束をして、今度こそ家に帰るべくロードバイクに跨った。適当な位置にもうひとつ買っておいた風車を挿して、私はペダルを踏みこんだ。


 風の音がゴッと耳のなかで勢いづく。梅雨の名残りか、湿っぽい空気が肌にまとわりついて来る。田畑の合間を切り裂いて、見知った街から遠ざかる。不思議と蝉の鳴き声まで、馴染みないものへと変わっていくようだった。


 その間中、ずっと風車はまわっていた。笑い声のように、カラカラと。

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