かざぐるま〈前篇〉

 休日の家ほど退屈で窮屈な場所はない。テレビをつければ何度観たか知れないサスペンスドラマの再放送、母は専業主婦としてのタスクを終えるたび、私の部屋を覗いて「単位落としたりしないでよ?」と釘を刺してくる。アルバイトで稼いだ金を注ぎこみ、ロードバイクを購入したのは、そんな我が家から逃げだす目的もあって――今日も今日とて私は家をとび出してきたのだった。


 ペダルを踏むたび、風の音がゴッと耳のなかで勢いづく。梅雨の名残りか、湿っぽい空気が肌にまとわりついて来る。田畑の合間を切り裂いて、見知った街から遠ざかる。不思議と蝉の鳴き声まで、馴染みないものへと変わっていくようだった。


 どこへ向かうつもりなのかは、自分でもわからなかった。適当なところで足を止め、泊まれる場所があれば泊まるつもりだった。バイトは辞めたばかりだし、今はちょうど夏季休暇中。近頃はサークルの連中から催促されることもなくなっていたので、私を束縛するものは何もない。


 山沿いに道を曲がった。通りには時折車が横切るばかりで人影はない。独りは楽だ。けれど楽と同じくらいに、心細さも募っていった。


 理由はわかっていた。大学にあがってから二年。カラオケやボウリングで騒ぐばかりだった友人たちの口から、近頃、「将来」や「就職」という話題が増えてきた。「△△になりたい」「〇〇を狙ってる」――刹那的に生きていると思っていた連中が、いつの間にか未来に目を向けつつある。なのに私だけが、まだその将来とか未来とかいうものを直視できずにいるのだった。


 独りぼっちで、行き先も決められない。

 それが私という人間だった。


 こみ上げる焦りをふり払うように、私はペダルのうえに立って全身で風を浴びた。叫びだしたい気持ちだった。けれど、辺りにぽつぽつと住宅の屋根が現れ始めたので、私は一度ロードバイクをとめ、鬱憤を呑みこむようにボトルを呷った。


 そうして初めて、山の影が濃くなってきているのに気付いた。西の空はやや赤みがかかっていた。スマホをとり出して見ると、十八時半。そろそろ今日の宿について考えたほうが良さそうだった。



――



「いらっしゃい。いらっしゃい」


 出迎えてくれたのは、ひどく腰の曲がったおばあさんだった。住宅街の細いとおりに突然あらわれた古色蒼然とした屋敷が、今日の宿となった。いわゆる民宿というやつだ。おばあさん一人で切り盛りしているわけではなく、旦那さんと娘夫婦も一緒らしい。


「お邪魔します」


 立派な木目の浮き出た上がり框をあがると、正面はながく薄暗い廊下で、右手には手すりのついた急な階段がのびていた。どうぞどうぞと言いながら、おばあさんは意外にも軽々とした足取りで階段の奥に消えていく。置いていかれないように付いていくと、壁と手すりの間に挿された竹とんぼや風車に目が留まった。


「あ、懐かしい」


 おばあさんは肩越しに私を見ると、子どもがいますのでね、と微笑んだ。


「お孫さんですか?」

「はあはあ。そんなようなもんです」


 なぜか曖昧な返事だった。


「ここです。ここです」


 二階に上がると、すぐ目の前の部屋に案内された。おばあさんが襖を開いたとたん涼やかな空気が汗ばんだ肌を撫でた。ありがたいことに、中はすでに冷房が効いているようだった。部屋自体は小ぢんまりとして殺風景だった。右手の襖、奥の障子戸の他は、飴色になるまで使いこまれたちゃぶ台くらいしか目につくことものがない。


「よければ、ここも使ってちょうだいね」


 ただし、障子戸の向こうには広縁のような空間が設けられていた。窓からは小さいながらも中庭が見下ろせる。日中は、のどかな田舎の景色が心を癒してくれるだろう。


 だが今はあいにく夜で、闇が被さった中庭は少々不気味だった。なんの木かは知らないが、長い葉っぱがおいでおいでをするように風に揺れていた。小さな池もあるのか、水面がなにかの拍子に煌めくと、人に見上げられているような居心地の悪さも感じた。それが態度に出てしまったのだろう、おばあさんが気遣うように言った。


「カーテンもあるでね」

「え、いえ……すみません」


 私は恐縮して肩をすくめたが、おばあさんは気を害した様子もなくいえいえと微笑んだ。そして、私が手にぶらさげたコンビニの袋に目を留めた。


「それより下に冷蔵庫がありますよ。すこしの間、入れときましょうか?」

「あ、じゃあ、お願いします」


 寛大なおばあさんにますます恐縮しつつ、袋を手渡す。

 すると、おばあさんは、あ、そうだと慎ましやかに声をあげた。


「実はね、連絡いただいて急いてしまって、すぐお風呂を沸かしてしもうたんです。今ならちょうどいい具合になってると思うんですけど、よければ案内しましょうか?」

「え、お風呂までよろしいんですか? 銭湯でも探そうかと思ってたんですけど」

「ご迷惑でなかったら」

「とんでもない!」


 暑い中、ずっとロードバイクを走らせてきたので汗みずくだ。ここで入浴できるのであれば、むしろありがたかった。担いでいたリュックを慌ててちゃぶ台の横に置いた私は、おばあさんの後に続いて風呂場へ向かった。おばあさんとは途中で別れたが、特に迷うことはなかった。「浴場」と書かれた案内板が丁寧に置かれていたからだ。


「はぁあ……気持ちいいなぁ」


 浴槽は特別ひろくはなかったが、ちょっと膝が折れる程度で十分に寛げた。なにより檜というのが良かった。家庭にない香りがした。鳥の囀りまで聞こえてきそうだった。早くに沸かしてもらったおかげか、湯加減も熱すぎず、疲れた身体にじんわりと沁みて心地よい。


 脹脛を揉んでいると、表からパタパタと足音が近づいてきた。子どもがいると言っていたのを思い出した。きっと、その子どもが遊んでいるのだろう。きゃっきゃと楽しげな声まで聞こえてくる。


 やがて、風呂場の引き戸にはめこまれたすりガラスの向こう側に、ひょいと小さな人影が現れた。ワンピースのような服を着ているのか、頭の下から膝のあたりまでが赤かった。


「入ってるよぉ」


 私はおどけたように声をかけた。すると、子どもは何がおかしいのか、またきゃっきゃと笑った。喜んで跳びはね、今にも風呂場にまで入ってきそうな勢いだった。ところが、それから間もなく子どもは消えた。去っていたのではなく。吹いたタバコの煙が融けていくように、じんわりと消えたのだ。


「なんだ……?」


 その様がすこし不気味だった。ゆっくり後ろに下がっていけば、ちょうどあんな風に消えて見えるかもしれないが……。

 なんだか見てはいけないものを見たような気がした。温かいはずの身体がぶるりと震えた。


 シャワーだけを簡単に浴びて、私はさっさと風呂場を出ることにした。

 脱衣所を見回すと、急激に身体の火照りが冷めていった。子どもの姿こそないものの、そこら中に濡れた小さな足跡が残っていたのだ。それは廊下にまで続いていて、大きく弧を描きながら壁までも濡らしていた。


 ぞっとした私は、足許を睨むように歩いた。

 深く考えないよう努めた。壁に残っているのは、足跡ではなく手形だ。そう思いこむことにした。


「すみません」


 部屋へ戻るまえに、おばあさんと別れた部屋の前から声をかけた。預けていた梅酒を回収するためだったが、とにかく人の声を聞きたいという気持ちもあった。


「はいはい」


 すぐに返事があった。出てきたのはおばあさんではなく、壮年の女性だったが、独りではないとわかって私は安堵していた。


「ああ、お客様ですよね。挨拶が遅れてすみません。さっき案内をした者の娘です。いらっしゃい。いらっしゃい」


 娘というだけあって癖も同じらしい。お辞儀まで二回くり返した。

 こちらも簡単に自己紹介してから要件を話した。彼女は待ってね待ってねとやはり同じ言葉を反復して、梅酒の入ったコンビニの袋を取ってきてくれた。礼を言うと、いえいえという答えが返ってきた。これも例の反復だろうかと考えながら、私は部屋に戻っていった。


「あ」


 襖を開けると、布団が拡げられていて驚いた。旅館でもないのに、ここまでしてくれるものなのか。ずいぶんサービスの行き届いたところだ。


 私は上機嫌になって、さっそく晩酌をはじめることにした。

 隅っこのちゃぶ台をちょっとだけ動かし、壁によりかかる隙間をつくって、そこに嵌まりこむように腰を下ろした。梅酒はキンキンに冷えていた。それを台の上に載せようとしたところで、ふと違和感を覚えた。


「あれ、リュックここに置いたんだっけ……?」


 ちゃぶ台の上に、リュックが置かれていた。記憶がたしかならば、リュックは床に置いたはずだった。布団を敷く際、邪魔になって上に置き直したのだろうか。べつにそれくらいしてくれて構わないが、荷物が動いているとなんとなく不安にはなった。念のため、中身を確認してみた。特に異常はない。


 一息ついて、缶に向きなおろうとした私だったが、その時、障子戸を開け放したままなのに気付いた。広縁には背もたれと肘掛けの一体になった椅子、そして円卓がある。壁によりかかるより楽そうだった。


「せっかくだから、あそこで飲むか」


 立てた片膝に手をついて、私は立ちあがった。カーテンを閉めて、広縁の椅子に座り直した。畳に直接すわるより、こちらのほうが尻も痛くなかった。円卓に缶を置こうとすると、また新たな発見があった。花瓶が置かれていたのだ。だが、そこに花はない。代わりに古びた風車が挿してあった。私は何とはなしに、その風車を手にとった。


「こんな所にまで、子どもが来んのかねぇ」


 息を吹きかけると、カラカラと回った。それもすぐに止まった。子どもの頃はこんなものでも楽しかったのだな、となぜかうら悲しい気持ちになったが、私はすぐに我に返って、ぶんぶん頭を振り、懐古的な情念を追い払った。


「……オトナが好きなのは、こっち」


 風車を花瓶に挿しなおし、空いたスペースに今度こそ缶を置いた。プルタブを押し上げると、プシュ! 小気味いい音。いきおい呷って喉を鳴らした。風呂上がりの温まった身体に、冷えた梅酒が一気にしみわたる。家でだらだら飲むより何倍もうまかった。


「ああぁ……」


 あっという間に飲み干してしまい、次の缶に手をつけた。それもすぐに喉を冷やして、胃の腑ばかり熱して、やがて滲むように消えてしまった。


「ふあ……」


 乱暴な飲み方をしたせいか、意外にはやく酔いが回ってきた。一緒に、檜風呂で癒したはずの疲れが押し寄せてきた。非日常的な時間をじっくり味わうつもりでいたのに、じっと座っているのも億劫になってしまった。


「梅酒でこれかよ」


 自嘲気味に笑いながら、布団のうえに横たわった。おそらく部屋同士を仕切っているのだろう、襖が目の前にあった。その向こうから、きゃっきゃと笑い声が聞こえた気がした。


「子どもはさっさと寝ろよぉ」


 酔っ払いらしくへらへらと私は注意した。子どもは聞く耳をもたないといった様子で、またきゃっきゃと笑った。それが子守歌のように、深く柔らかい睡魔を運んできた。瞼が覆いかぶさってきた。私は意味もなく、薄弱な抵抗をくり返しながら、ゆっくりと夢の世界に落ちていく。


 それを見たのは、目の前が真っ暗になる寸前だった。

 すぅーっと滑るように襖が開き、真っ白い小さな足がぺたぺた近付いてきたのだ。

 酔っている所為か何なのか、私の目にはその足が、すこしだけ透けているように見えた。

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