最終話 銀狼の娘
異変が起こったのは、村落を出発して、極東軍の本営地のある街まであと一日という距離まで差し掛かった時であった。
夜営し、明朝、一番鶏の鳴く声が聞こえてくるより早く、どこかで聞いたことのある金切り声が突然に部隊の中に響いた。
何事だ、と、兵たちが目を覚ましてテントの中から這い出てくる。
その金切り声は、幌に覆われている馬車から聞こえて来ていた。
「……孵ったか」
そう呟いて、嬉々として笑ったのはウリヤーナだ。
孵ったとはどういうことか。
分からず、僕は彼女の顔を見た。
そんなもの決まっているだろうと、彼女は不思議そうに視線をこちらに向ける。
そうこうとしているうちにニーカまでもが、騒ぎを聞きつけて姿を現した。毛皮のコートに身を包み、紅い軍服をしっかりと着こんだ彼女は――また、その顔に邪悪な感情を浮かべていた。
「卵だ」
「卵?」
「竜の卵だよ。それが孵ったのだ。運ぶ途中に、そうなるかもしれないと、想像しなかった訳ではない。うむ、見事に読みが当たったな、ウリヤーナ」
ようやく、彼女たちの言っている言葉の意味が分かった。
そして金切り声の正体も。
それは、僕が首を刎ね飛ばした、あの青い羽根なしの怪鳥――竜の雛が卵から這い出た、ということであった。
確かに、そういうこともあるかもしれない。
極東部の本営地は、比較的温暖な土地に置かれている。移動する途中で、思いがけず温かくなったことが孵化を早めるなどと言うのは、考えられる話だ。
しかし――。
「この金切り音と付き合って、行軍を続けるというのか」
「仕方あるまい。できれば、孵らずにそのまま研究所に運びたかったが、仕方ない」
「声からするにまだ一体だけのようです。大丈夫でしょう」
僕の不満に、淡々とした言葉を返すニーカとウリヤーナ。
どちらもその身に狂気を抱いている女史二人である。どうしてこのような者たちが、自分より階級が上なのか、嘆きたい気分でいっぱいになった。
まぁ、仕方あるまい。
置かれた環境を嘆いた所ではじまらない。
それは、散々に今回の一件で思い知ったではないか。
その状況の中で、いかにして自分の信じる道を行くか。尊厳を守るか。それだけだ。
やれやれ、こんな明朝から怪鳥の鳴く声にたたき起こされるとは、たまったものではないなと、話を終わらせようとした時だ。
「しかし、念のために餌を用意しておいて正解だったな」
「そうですね。孵化してすぐは、腹を空かせているものですから。もっとも、生まれてすぐに、捕食できる能力があるかは未知数ですが」
餌。
捕食。
あまり、耳障りのよくない言葉が、ニーカとウリヤーナの会話から聞こえてくる。
同時に村を去った時のことを思い出す。
どうして、あの日、アンナの姿は、村の中になかったのか。
「……しかし、可愛そうな娘だ。あと一日、卵が孵るのが遅かったならば。市民になれただろうに。運命という奴は、皮肉なものだ。なぁ、キリエ」
なぜか僕に言葉をかけた。
その理由を察して、僕はすぐにその場から駆け出した。
目指すのはもちろん、幌が張られた荷馬車に向かってだ。
馬鹿な。
馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な。
どうしてそんなことになるというのだ。
それでは、僕がしたことは、全部無駄だったではないか。
人間の尊厳を守る為に、僕は刀を振るったのではなかった。ニーカの邪悪に、舌を出して、己を貫くために戦ったのではなかったのか。
だというのに、こんな結末があってたまるか。
荷馬車にたどり着いた僕は、幌の後部、両開きになっているそれから中を覗き込む。鉄柵の中に、閉じ込められた三つの卵の内、一つが割れていた。
そして――。
「……助けて!! 軍人さん!!」
僕の顔を見つけて、悲痛に叫ぶアンナがそこには蹲っていた。その下半身は、既に、青色をした、羽毛のない鳥の口の中へと納まっている。
金切り声が聞こえない。
代わりに、骨を砕き、咀嚼する音がする。
エメラルドの瞳が、涙にぐしゃぐしゃになって、こちらを見ていた。
すぐに、柵に近寄ってアンナを助けようと思った。
思ったのだが、どうして、僕の脚は、その光景にすっかりと竦んで動かなくなっていた。
あの日、竜の首を断ち切った筈の脚が。
どうして動かない、どうして固まったままなのか。
アンナの死が回避できないものだと、もう、確信してしまっていたからだ。
「あっ、ぐぁ、ぎゃっ、だぁ、あぁ、あが、ぶ……」
徐々に徐々に、下半身から竜の口内へと飲み込まれて言ったアンナ。
彼女の頭を、噛み砕くと、竜は満足気に一度金切り声を上げると、その場に、どっしりとその身を横たわらせた。
……糞。
……糞、くそ、クソ。
どうしてこうなるんだ。
何故、こんなことになってしまうんだ。
彼女は救われたはずではなかったのか。
命の尊厳は守られたはずではなかったのか。
不要な死は回避された、そうではないのか。
「……ニーカァぁぁああああ!!!!」
僕は叫ぶと、腰のホルスターから銃を引き抜いていた。
照星が向かう先は上官――銀狼の娘にして、『偉大なる同志』の第十三女。
彼女は、汚れた雪のような、汚い灰色の髪を揺らして、邪悪に微笑んでいた。
「なんで彼女をこんな目に合わせた!! 生贄であれば、家畜で十分だっただろう!! 何故だ、答えろぉっ!!」
「どうしたキリエ。上官に対する口の利き方を忘れてしまったのか」
「煩い、黙れ!! どうして、どうしてお前はこんな残酷なことを!!」
「餌にするには、適当な家畜がいなかった。それに、何かの拍子に、卵を破壊されても困る。なので、行軍の最中に卵が孵ることがなければ、街の市民にしてやると、取引をして檻の中へと入って貰ったよ」
取引だ。何もやましい所はない、と、銀狼の少女は邪悪に笑う。
取引だと、ふざけるな。
どうしてそんなバカげた取引に応じる奴が居るのだ。
いや――彼女は生活に窮していた。病気の家族のために金を欲していた。
街の市民になれば、村民とは違って、十分な仕事と給金が貰える。
その甘い誘いに乗るかもしれない、そう、思えた。
けれど――。
「不幸にも卵は孵ってしまった。まぁ、こればかりは仕方ない」
「……だからと言って!!」
「もとより、彼女は竜に食われる運命にあった。それが、親であったか、子であったか、それくらいの差しかない。何をそんなに怒ることがあるのだ、キリエ軍曹」
「ふざけるなっ!! そんな、そんな運命が、あってたまるか!! 人の命をなんだと思っているのだ!! お前は!!」
撃鉄を起こして、俺はニーカの胸に照準を合わせた。
それに合わせるように、彼女も胸ポケットから、小さい一発撃ちの銃を取り出す。
上官、部下、その枠もなく、一人の人間として、僕は彼女と睨みあった。
引き金に手をかける。
殺す。
この邪悪を、僕は殺す。
殺さなければいけない。
たとえ、自分の命と引き換えにしても。
この人間の尊厳を踏みにじる邪悪だけは、生かしておくことはできない。
僕の心が叫んでいた。
正義ではない、これはおそらく
けれども、やらなければならないと、体の芯から殺意と決意が湧き上がって来た。
なのに――。
だというのに――。
「キリエ」
彼女は一瞬、殺意を催させるほどの強烈な邪悪を、まるで元からそんなものなどなかったかのようにその顔から霧散させた。
そして、凍てつくように寂しげな顔をして僕を見た。
それはマルファが死んだ日に、彼女が微かに見せた表情――。
「お前も、私を裏切るのか」
引き金にかけた指先が震える。
僕は、そのまま暫く、何もすることもできず、ただ、ニーカと睨みあった。
朱国の地を枯らす乾いた風が、銃口を向けあう僕たちの間を吹き抜けていく。
踏みつぶされた雪のようなくすんだ銀髪が、風に揺れていた。
【了】
НикаНика kattern @kattern
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