第16話
偶然、という一言だけで片付けるには
ふと、僕は何をしているんだろう、と思う。
こんな、どうしようもない、勝率だって決して高くない『賭け』のために、普段ならやらないようなことを重ねてまで、ここに来る理由が、何か僕が得るものが、ある、なんてことは、どうしたって思えない。大体、やろうとしていることだって、今日やる必要なんて少しもない。昨日と、いつかの未来にほんの少しの偶然があれば、それで片が付く話だ。
それでも――きっとこれは、仕方がないことなのだ。
だって、その方がきっと、ずっといい――そうしたい、なんて、僕がそう思ってしまったのだから。
だから。
そうして、待ち続ける時間が、ただひたすらに過ぎる中で――走りながらこっちに近づいてくる足音に、走ったことで乱れた呼吸の音に、目の前に誰かが佇んでいるようなその気配に、それがぬか喜びに終わってしまう可能性があるとしても、それでも僕が期待を抱いてしまうのも、きっと仕方のないことで。
そして。
「……トオル、さん……?」
と、その誰かが、わずかに乱れた呼吸の下、聞きなれた声で僕をそう呼んだ時、不思議と穏やかな気持ちで、僕は。
「——――」
賭けに勝った――その実感とともに、彼女の名前を口にしたのだった。
場所を変えましょう、という彼女の提案で、僕は掴まった彼女の腕に導かれるまま歩いていく。
自分の家以外を『見えない』状態で歩くのはこれが初めてのことだった。だからいくら頼るものがあるとはいえ、ただ歩くだけでもなかなかに難しいものがあったのだけれど、それでも、多分彼女はそんな僕を気遣ってくれたのだと思う。誰かにぶつかることも、つまづくこともないままに僕らは進み、やがて彼女が足を止める。
僕が立ち止まったことを確認するように彼女は少し間を開けて、それから彼女は僕の手を優しく自分の腕から外して――ここからは、手の動き以外にほとんど判断できる要素がないから想像でしかなくなるのだけれど、多分、その手を取ったままで僕の正面に立ったのだと思う。
そうして、彼女は。
「——どうやって、ここに来たんですか」
と、ただそんな疑問を口にした。
どうやって、という手段だけを答えるのであれば――いつの間にか大学から姿を消した僕のことを覚えていて、僕に付き合うだけの時間と精神の余裕があって、ついでに自由に使える車も持っている……なんていう稀有な人物に、ここまで連れてきてもらったからに他ならない。
とはいえ、その『彼』に予想以上に振り回されてしまったところもあって――なんてことを伝えたのだけれど、返ってきた彼女の声には、隠しきれていない、むしろ隠そうともしていないだろう不満がありありと表れていた。
「……そういうことじゃなくて。……あの、私が今日どこに行くか、なんて、言いませんでしたし、聞かれませんでしたよね。……なのになんで、ここがわかったんですか」
「あぁ」
それは――まぁ、偶然とか、神様の気まぐれとか、その類のものではあったとは思う。
「……君の『見たいもの』が何か、って考えたんだ。そして、確証はなかったけど、もしかしたら、って思うものがあって」
あとは、まぁ。
「それで、彼に、どこかいい場所は、って聞いて。それで、ここに来たんだよ」
名所、と言ってもそれなりにはあるもので。だからどう絞り込むかについては悩んだものだけれど――対して、彼の答えは早かった。
ちょっとベタ過ぎる、と僕は思っていたのだけれど――しかし結果的にはその場所で彼女と巡り合うことができたのだから、それに関しては彼に感謝をしなければならないのかもしれなかった。
そんな僕の言葉を、彼女はしばらく何かを考えるように沈黙して――それからふと。
「……なんだ、ばれちゃっていたんですね」
と、残念そうな言葉に、少しの嬉しさを滲ませた。
「……正直、何で言わないようにしているんだろう、みたいなことは今までも何となく思ってはいたんだけど」
「それは、ほら、あれですよ。ベタだなぁ、とか、思われたくなかったんです」
おどけたようにそう言う彼女は、果たしてどこまで本気なのか。
ともかく。
「さて、改めて。……トオルさん」
その彼女の言葉で、場の空気が切り替わる。
そして。
「日付も変わったことですし――今日の解答権、どうしますか?」
それは、いつも名前の話をするときに繰り返していた会話で――そして、繋がっているようには思えない会話であっても、僕らの間では、それは明確に筋の通った意味を持っている。
だって、そう――ヒントは、たくさんあったのだ。
彼女が『見たいもの』とは何だったのか。彼女の『馴染まない』という言葉を、僕は額面通りにしか理解していなかったけれど、本当は別の意味があったのではないか。『花子』が一番近い、というのはどういうことか。ひどいことを言いますね、と、なぜ昨日彼女は言ったのか。
それに――どうして、『最後の日』が、少し早まってしまったのか。
そんな断片を、ひとつずつ拾い集めて。そうしてたどり着いた答えを、僕は静かに口にする。
「——サクラ」
果たして。
「……正解です」
そう、彼女が答えて。
その時――彼女の名前、そんな細い糸をどうにか手繰り寄せたその先が、正しく彼女の元へと繋がっていたことを、僕はついに実感することができたのだった。
少し、私の話をします、と前置きして、彼女は話し始める。
「……私に『サクラ』という名前を付けてくれたのは、父だったそうです」
そんな言葉を、彼女ははじまりに選んだ。
「母のことは、あまり覚えていません。私が小さいころに、父と離婚して家を出て行った、と聞いています。……だから、私にとって、自分一人で私を育ててくれた父の存在は、とても大事なものだった、と思います。実際に、父からはたくさんのことを教わりましたから」
そう語る彼女の声は、どこか誇らしげではあったけれど――それでも、だった、という言葉に、引っかかりを覚える。
そして、その予想通りに。
「その父が、数か月ほど前に、亡くなりました」
淡々と、彼女はそう語った。
「……それは」
「いえ。……当時は、悲しかったですし、どうすればいいんだろう、とも思いましたけど……幸い、親戚の方が、身元を引き受けてくれましたし、私自身も、時期や年齢のこともあって、この春からは一人暮らしをすることになりました。だから、その辺りはもう落ち着いているんです」
一拍置いて、けれど、と彼女は続けて。
「……それでも、一つだけ、どうしてもわからないことがあって。……それが、名前のことでした」
ぽつりと、そう言った。
「父は、桜が好きだから、私にこの名前をつけた、と言っていました。とても美しいものなんだ、とも。……けれど私は、生まれつき目が見えませんでしたから、桜の美しさ、というものが、どうしてもわからなくて。何度も父にそれがどういうものなのか聞いて、父も懸命に答えてはくれましたけど、どうしてもそれはイメージ以上のものではなくて。
……だから、ずっと、父が好きだ、と言う、美しいと言う桜を、いつか見ることができたらいいのに、とずっと思っていたんです」
そして。
「だから、春になって、視覚を借りることができるようになって。……そして、それが桜の咲く時期と一緒だ、ってわかったとき――もしかしたら、これは、父が私にくれた贈り物のようなものかもしれない、って思ったんです」
それが、きっと、彼女が『美しい』とは何なのか、それをどうにかして理解しようと必死だった理由なのだろう。
雨で桜が散ってしまう、週末よりも前に。
「……まぁ、それで焦って、行き詰ってしまうようでは、本当に世話がないんですけどね」
そう言って苦笑する彼女だったけれど――しかし、その口ぶりは、決してただ苦いだけのものではなくて。
だから。
「……それで――どうだったんだ」
彼女は――サクラは、本当に『見たいもの』を、見ることができたのか。
彼女の求めるものは、そこにあったのか。
ここに来た理由の半分――彼女の願いの、その結末を――僕は、ごく自然に、そう聞くことができていた。
「——はい」
そして、彼女は。
堪えきれない、様々な感情が入り混じった声で、僕の問いかけに答える。
「——こんなにも、美しいものが、この世界にはあるんですね」
美しい、と。
そう、彼女は言った。
「……そう、か」
そしてそれは――彼女が、求めていたものへと、たどり着くことができた、ということを表していて。
「はい。……ありがとうございます、トオルさん」
彼女の言葉に安堵しながら――しかし、そうしてお互いに言葉が途切れた数俊の間に、僕はひとつ、息を吐く。
彼女の結果を見届ける、それ以外にも、やらなければいけないことが、あと半分、残っていた。
「……僕も、君に伝えなければならないことがあるんだ」
その言葉に。
「何でしょう……まさか、愛の告白、とかですか?」
そう、揶揄うように返す彼女の言葉を聞きながら、ふと思う。決して、そんなものではないけれど――それでも、ある意味では、正しいのかもしれない、と。
だってこれは、どうしようもなく、僕の恥をさらけ出す行為で。
でも、それでもいい、と思う。
どうしようもなく、僕のエゴでしかないけれど――それでも、彼女には、伝えておきたい、と、思ってしまったから。
「……さっき、君を呼びに行った人が居たと思うんだけど」
どこから言えばいいのか、あるいは、どこからなら言い出すことができるのか。そうさぐりがちになってしまった僕の言葉に、彼女は真意をつかみかねる、といったように、「……そうですね?」と先を促す。
「……彼とは、もともとそれほど仲が良かったわけではないんだ。けれど何度か大学で顔を合わせて、なんだかんだで色々面倒を見てもらったりして――今日だって、彼とたまたま連絡がついて、いつの間にか、ここまで送ってもらったり、君を呼びに行くのだって、ほとんど勝手に僕から君の特徴を聞き出して。……それで本当に見つけてきちゃう辺りが、凄いというか何というか、なんだけれど」
言葉にしてみると、どうにも今日は彼に助けられっぱなしというか。場合によってはこれは一生、彼に尽くさなければいけないんじゃないかな、なんて思うけれど。
「そんな彼に、今日色々と手伝ってもらう代わりに、一個『条件』を出されたんだ」
「条件、ですか?」
「ああ」
そう問い返す彼女に、僕は、その『条件』を明かす。
「……大学の先輩として、色々頼れ、って」
その言葉の意味を呑み込めないのか、言葉を挟まないでいる彼女に、僕は落ち着くために一度、大きく息を吐いて――そして。
「……大学に、戻ることにした」
その言葉に、彼女が驚いたように息を漏らすのが聞こえた。
「……なんで、急に」
「……君に言われたから、っていうのが、自分でも情けないとは思うんだけど」
苦笑して、僕は言葉を継ぐ。
「ずっと、足を止めていた、それは、レールの先が見えなくなったからだと思っていたけれど――でも、それは、その先にある道のことを、見ようとしていなかったからなんじゃないか、なんて思ったんだ。
だから――とりあえず、進んでみようと思った。それでも行く先に何があるかわからないけど……でも、折り紙の時みたいに、今なら、とにかく何か、見つけれられるんじゃないか、って、君の言葉で、そう思えたから」
僕の言葉に、彼女は何も返さないままで。
それでも、未だ触れている掌が、彼女がそこにいることを伝えてきて。
やがて。
「……でも」
僅かに心配するような調子で、そんな言葉が返ってくる。
「わかってる」
そう、わかっていた。
復学する、なんて言ったって、一年留年して、その間殆ど何もしてこなかった僕が、しかもこの時期にそんなことを急に言い出したところで、すんなりと進むわけがない。そんな、「でも」を、それでも。
「講義に関しては、この時期から取ろうとしたって、大抵のものは埋まってしまっていたけど、それでも何とか空いているところに入れる形でどうにかした。……大変だったのは、むしろ親に留年のことを話した時のほうだったけど」
「……そこは、ちゃんと話したんですね」
辛辣なその言葉に、というよりも僕自身への評価に、僕は苦笑する。確かに、親に向かって、金だけを受け取っておいて一年何もしなかった、なんて告白をするのは、正直どうなったって仕方がないことだとは思う。けれど、そこに存在する一年の溝は、どうやったって説明せずに通すことはできない。
「母親には電話口で死ぬほど怒られて、大学を辞めて帰ってこい、なんて言われたけど――それでも、父親の方が、色々と口添えしてくれて。……結果から言えば、大学にはまだ通わせてもらえることになって、学費とかも、気にするなら後で働いて返せ、って」
目的も何もなく、ただ生きていた時の僕は、どうにも危なかった、というか。そんなことを、父親にも、『彼』にも言われて、我ながら少し不安になったのだけれど――それでも、そんな心配をしてもらえていた、なんて言うことは、ありがたいことなのだろう、とは思う。
「……まぁ、今度、一度実家に帰ることにしたから、その時は、説教でもなんでも、受けてこようとは思うよ」
そう言う僕に、彼女は――
「……なんか、意外です」
と、そう言って。
「意外、って」
「いえ、その。……はじめの頃のトオルさんの印象と、今のあなたの印象が、どうにも結びつかなくって」
「……そんなことはないさ」
それは結局、何をどうしたって、僕が僕であることには変わらないのだから。
だから。
「結局、立ち止まっていた場所から、取り敢えず動いてみよう、って話で、だから、僕が何か変わったわけじゃないんだよ。もしかすると、これからも何度か迷って、どうしようもなくなるかもしれない。……その結果、また足を止めてしまう、なんてことだってあるかもしれないと思う」
結局、どうやっても、僕が一度あそこまでダメになった、という事実は変わらなくて。或いは、これから先、結局やりたいことが見つからない可能性だってあって。そう言う意味では、先のことなんてわからない。わからないままなのだ。
「それでも」
簡単でしょう、と、そう言われた時のことを思い出して。
例え、僕が相変わらずどうしようもない人間であったとしても。彼女にあんなことを言われるまで、どうしようもなく道に迷って、それでもまだ結局、指針のようなものはどうしたって見えていないような、そんな情けない人間だったとしても。
それでも――
「それでも――あの時、君に、僕が悩んでいたことを、簡単なことだ、って言ってもらえて。だから、取り敢えず、立ち止まっていることだけは止めよう、って、そう思えたんだ」
だから、と。そこで続く言葉を考えて、僕は言葉に詰まる。ありがとう、とそう告げれば良かったのかもしれないけれど――ただそう伝えるだけでは、何かが違う気がしていた。けれど、それをどう言葉にすることも出来なくて、僕は言葉に詰まってしまう。
そうしている僕を見かねたように、彼女は触れている手を、僅かに握りなおして。
「……私の言葉がきっかけになったとしても、それでも、そうしよう、と思ったのは、トオルさんの意思ですから。だから、私のしたことなんて、大したことないんですよ。……それに、私だって、トオルさんに助けてもらいましたから。だから、お互いさま、です」
その言葉に、しかしそれでも僕は、自分が彼女を助けた、なんて自覚は、どこにもなくて。
けれど。
「一昨日、あなたが言ってくれた言葉が無ければ、今日、きっと私は余裕がないまま、何を基準にしたらいいのかもわからずに桜を見上げていたと思います。それに――そもそも、トオルさんに視覚を貸していただけたから、私は自分の『見たいもの』に辿り着くことができたんですよ」
そう言われても、僕がしたことなんて――と、口にしかけて、その台詞が、なんだかついさっき聞いたばかりのもののように感じて。
そうして、気づく。
「……そうか、そう言う意味での、『お互い様』か」
結局、お互いがお互いを助けようという気持ちがあったとしても、それでも僕らは、お互いに思っていることを言っただけなのだから、と。
「そういうことです」
そう満足げに彼女が微笑んで。
そしてふと――瞼に、違和感を感じて。
もしかして、と思って目を開けば、暗闇から浮き上がるようにして、少しずつ視覚が機能を始め――そして、そこに、春色の服に身を包んだ、サクラの姿があった。
「……もう、いいのか?」
何が起きたのか、不意に僕は理解して、思わず彼女にそう聞いてしまう。
「——はい」
けれどその問いに――彼女は、晴れやかな顔でそう笑って。
「桜のことも、……ついでに、トオルさんの顔も、ばっちり記憶に刻み込みましたから。だから、もう忘れることなんてきっとありません。
……それに、たとえ忘れてしまったとしても、私は、今この瞬間、きっと父と同じ気持ちを共有できているんですから。――だから、それで十分です」
ついでに、の部分は色々と余計じゃないのか、なんて思う僕を前に、彼女は続けて。
「……それに、きっと――私が、今日のことを忘れそうになってしまったとしても、トオルさんと一緒にいれば、何度だって思い出せると思いますから」
そうは言うけれど。
「……でも、僕と君が一緒にいる、なんて言っても……」
例えここ二週間の付き合いがあるとは言えど、所詮それだけの僕らが一緒にいることなんて果たしてあるのだろうか、なんて、そう思っていると、彼女は気まずそうな表情をして。
「……えっと、トオルさんが通っている大学って、多分」
言い辛そうに、しかし彼女は僕が通っている大学の名前を言い当てる。
「……なんでわかったんだ」
「いえ、その……それなりに勉強ができた、って言っていましたし、この県でその条件で言えば」
そういえば、そんな話もした気がする。……けれど、なぜ彼女がこうも言い辛そうにしているのか。
その答えは、数秒後に返ってきた。
「……私も、今年からそこの学生なので」
思わず、硬直してしまう。それは、確かに。
言葉を返せずにいる僕に、彼女は吹っ切れたと言った様子で。
「そ、そんなわけですから。私、地元を離れて知り合いもいませんし、トオルさんなら一応は大学のことも色々と知っているでしょうし、これからは同級生として宜しくお願いしますね」
思わず、天を仰ぐ。
確かに、時期が、とか、年齢が、とは言っていたけれど、まさかそう言う意味で――しかも、同じ大学の、同級生になる、なんて――それこそ、サクラの父親の悪戯か何かと思ってしまう。
けれど、まぁ、ここで逃げ出すわけにもいかない。結局、去年一年間サボっていた僕が悪いのだ。
それに――僕の見栄云々はさておき、彼女との日々がこれからも続くというなら、それも悪くない、なんて思うほどには、僕がこれまでの時間を気に入ってしまっているのだから。
「……そう、だな。……まぁ、甘んじて受けさせてもらうよ」
「はい」
彼女はそう言って――それから、ゆっくりと僕の隣へと歩いてきて、改めて手を繋ぐ格好になる。
そうして、ふと。
「……トオルさん、この後はどうやって帰る予定だったんですか?」
「え、あ、……あぁ」
今日のことが上手くいくにしろそうでないにしろ、僕は目が見えない状態で家に帰る予定だったわけだけれど――そう言えば、僕はその辺りどうするつもりだったのだろうか。
彼とも来る時の話しかしていなかったし……と思いつつ、一応のことの顛末くらいは彼に話してもいいか、と思いながらSNSを立ち上げると、数分前に彼の投稿があった。『花見満喫なう』って君は一体いつの人だ……ともあれ、これなら連絡も入れなくて大丈夫そうだ。
「……まぁ、特に決めてない、かな」
「そうですか。それは助かります」
その言葉に、どういうことかと僕が思っていると。
「……さっき、何も考えずに視覚を返してしまいましたけれど、落ち着いて考えてみれば、今日は『見える』状態で帰るつもりだったので……」
「……どうやって帰ればいいのか、と」
「はい。……ですので、できれば、家の近くまで送っていただきたいんですけど」
その言葉に、一瞬変なことを考えそうになってすぐに止める。というか、彼女に視覚を返してもらっていなければ、僕が帰り道に迷ってしまう羽目になっていたかもしれないのだし。
「……わかった、それくらいなら」
「お願いします」
そうして――僕と彼女は、どちらからともなく歩き出す。
そのさなか。
「あ、一つ聞くのを忘れていました、トオルさん」
今度は何か、と彼女を見やれば――彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「この服、どうですか?」
そんなことを聞いてくる。そう言えば、『夢』の中での彼女の、殆ど白、というものよりも、彼女が自分で選んだであろうそれはずっと鮮やかに彼女を彩っていたけれど。
「似合ってる、と思うよ」
思った通りのことを口にすれば、彼女は不満そうな顔になって。
「……折角なんですし、もっとこう、色々と、ないんですか?」
そう、非難するような調子で言われて――
「……勘弁してくれ……」
そうぼやきながら、ふと見上げた先、彼女と同じ名前の花が、どこまでも咲いているその様子を見ながら、ふと思う。
僕らは、見つめあうことができない。結局どうしたって、お互いの視線が交差することはなく、目と目で通じ合う、なんて、そんな経験だって、これから訪れる事は多分ないだろう。
それでも、それは、通じ合うことができない、ということを表してなどいない、ということを、すでに僕らは知っていて。
それは、例えば――今、この時のように、お互い手を触れ合わせて、歩調を合わせて歩いていくことがができるのなら――僕らが『道』の先へと進んでいくことだって、難しいことではないのではないか、なんて、そう思うのだ。
(『僕らは見つめあうことができない』 終)
僕らは見つめあうことができない 九十九 那月 @997
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