収場白(epilogue)
そして、家族ごっこは続く。
「う――――! み――――!」
秋口の海水浴場で、
引き潮を追いかけては、満ち潮からキャッキャと逃げるを繰り返し、わざとすっ転んだり、腰まで浸かったりして、初めての海を堪能しまくる。
基本的にあまり海は綺麗ではない武海市だが、ここは比較的澄んでいた。夏はさぞかし混むだろう。浅瀬で転げ回っていたウーは、深みに進んで本格的に泳ぎ始めた。
「あんま遠く行き過ぎんなよ。いくら死なねえからって、下手に波にさらわれたら沖まで流されて、帰ってこれねえからな。離岸流とか、どうのってヤツ」
「はーい。りがんりゅーですね」
ばたばたと、あるいはべしべしと、ウーはしばらく不器用に水中でもがいた。やがて持ち前の運動能力でコツを掴むと、繰り返し波の花を咲かす魚になる。
空は気持ちの良い秋晴れ。夏の金属的に眩しい空とは違う、硝子のように澄んだ水色が一面に広がって、ふんわりと薄い雲が所々に張り付く。
いつしか、自分の心が奇妙に凪いでいることに、コージャンは気付いた。ついぞ感じたことがなかった、妙に安らぐ気持ち――なんだこいつは?
脳の中心をぎゅるぎゅると捻る感覚で考え込んでいると、不意に悟った。
これは、愛しさだ。
ああ、うちのボウズが心底楽しそうに笑って、元気いっぱいにこの日この時この場所を味わい尽くしている。自分の息子が、己を受け継ぐものが、まだあどけない手足を伸ばして、ぐいぐいとその世界を広げていく。
それが、こんなにも嬉しく思えることだとは知らなかった。
ウーにもっと世界を見ていって欲しい。色々なことを知って欲しい。それを糧に、どれだけ長くなるか短くなるかも分からない人生を、充実させて欲しい。
……そして。無法で無頼の殺人鬼にすぎない自分が、そんな幸福を得られるのは、出来過ぎの気がした。きっと自分は、ウーに万が一があれば、何をするかも分からない。いや、やることは分かっている。ただそれを認めたくも許したくもない。
あれは自分の息子だ。たった一人の愛弟子だ。
溶鉱炉に落とされてからの記憶は、もうおぼろげだった。ただ、身動き出来ない剣になっていた間、あの日の海を思い出していた気がする。
おとうさん、おとうさん、と抱きついたウーはしきりに泣きじゃくっていた。嗚咽が収まってきた所を見計らって、コージャンは話しかける。
「俺はもうどこにも行かねえよ。また、海でもどこでも連れてってやる。だからよ、ほら、ウチに帰るぞ、ウー」
◆
死にたくない、とコージャン・リーが
冥府にて告げられた余命はあと十年、コージャンは笑って受け容れた。その記憶は削除したから良いとして、大人しく死なれては困るのである。
為に、コージャンを不朽の剣に造り変えることを考えたが、大きな問題が二つ。転化には一度彼を殺さねばならず、かつ本人の了承が必要なことだ。
コージャンの意志を無視して不老長生を押し付けても、後に諍いの種を残す。ではどうやって説得したものか。あるいは、他に死なせずに済む手があるのではないか。
年月が経ち、死に瀕したコージャンに不死の誘いをかければ、食いついてくれるやもしれぬ。それでも断られたら、諦めるしか無い。
その瞬間、コージャン・リーを愛したこの人格は消滅する。
後には彼に関する記憶を持たない、死者蘇生の研究に全てを懸ける「次の狗琅真人」の人格にすげ替わるだけだ。さらなる喪失感を重ねたくはない。
いつか彼をよみがえらせることを夢見て、研究を続けるほどの強さはないのだ。既に死んだ者のことは仕方がない。だが、これ以上は――これ以上は、とても!
結果的に、狗琅真人のひそかな目論見は、
ノイフェンと
瑣慈がどういう工程で、どのように〝
ありとあらゆる懸念事項から、狗琅真人は二百年ぶりに解放された。
◆
「なんか妙なモンだな」
戦いから丸一日――
感想としては、驚くほどに問題なし。それが逆に、違和感
「変わっちまった、って実感が全然しねえ」
「それはそうだよ」
傍らでその様子を眺めていた狗琅真人が、にこやかに答える。
「腕一本、足一本、体が大きく欠損しても、ヒトの脳は中々それを認識できない。いつまで経ってもまだあると勘違いして、無いはずの手足が痛い痒いと訴える。
「いや、俺にもう脳みそとかねーだろ」
冗談半ばにコージャンは突っ込んだ。この身はもはや鍛造された蔵魂の剣、人間として死にながら、【魂】を繋がれた生きた道具なのだ。
「言葉が足りなかったネ。今の君は、本体の剣全体が脳だと思って欲しい。と言っても、あの灰白質のように繊細ではないから、ちょっとぐらい叩こうが欠けようが機能に支障は出ないし、万が一折れても君の人格や記憶に影響はない。
「どういうこった」
「部分と全体の自己相似形。人間の体で言えば、例えば君の眼は脳と同じようにものを考えられるが、眼が無くなっても思考能力は失われない」
「お、おう」
気持ち
「これで君に仙人の才能があれば、面白いことになったのネェ……」
「別に興味ねえよ。お前と何百年かいたら、お互い飽きるんじゃねえか」
「仙人はネ、飽きようと思わなければ〝飽きる〟ことさえないんだよ」
「そういやそうだ、おっかねえな」
言って、コージャンは中庭を出ていこうとした。
「もう帰るのかい? もっとゆっくりしていきなよ」
「ウーも塾に行かなきゃならねえし、俺も仕事があんだ。とっとと社会復帰すらあ」
「そう」
言いながら、狗琅真人は特に不満そうな様子もない。元から柔和で穏やかな顔つきをしていたが、今はその下から、ぴかぴかと幸福感の光が滲み出して見える。
積年の恨みを果たしてご機嫌なのだろう、と、何も知らないコージャンは考えていた。それは半分だけ正解で、残り半分は、もう彼を失う心配がないからなのだが。
◆
戦いの後、狗琅真人は現れた
「あいつ、どうなるんですか」
訊ねたウーに、
「決まっているだろう。地獄に堕ちるのさ」
「ふうん」
狗琅真人が瑣慈に何をしたかは知らないが、まあ、大変なんだろう。ウーはそれ以上詮索せず、興味をなくした。ただ、キュアは被害者として酌量されるらしい。
――「お前は〝
いつか、家での稽古中に、コージャン師父はそう言った。
「見て、よく考える。単純だが、それが出来る奴は少ねえ。人間は、自分が見てるモンの半分も理解してねえって言うしな。お前はそこんところ、人の三倍も二倍もよく見てら。
武術を行う人間の動きを、ウーは美しいと思う。長い歴史の中で理論立てられ、合理化し、最適解され続けてきた套路。それを実戦するため、人が練り込み続けた時間。たゆまぬ歩みに裏打ちされた、まさに努力の結晶はいとおしい。
だから見続けてきた、そのことを評価されるのは、望外の喜びだった。
「才能……」
褒められてるぞ、むふふ。という自分の気持ちに、ウーは知らん顔を決め込んだが、師父にはお見通しだった。
「別に天才だっつってる訳じゃねえぞ? 才能があっても、磨かなきゃ意味が無いしな。それに、お前はもっと体を鍛えろ。そのバカ
筋肉は運動や鍛錬で筋繊維を断裂させ、体の治癒力でより強い筋肉を作って
だから、復活のたびに傷が消えるウーでも、鍛錬は確実に蓄積される。
「それに、
「そうだ。
「はい、師父!」
稽古が始まると、コージャンはいくつかの套路を見せ、ウーもそれを反復した。一度見た型を真似るのは得意だったが、その日は褒められたから一層気合が入る。
人は剣になれる、というのがウーの持論だ。
物体を薄く極めれば刃になるように、一貫した理論と思想のもと鋭く鍛え続ければ、それはまさしく剣だろう。
コージャン師父は、初めて出逢った時から〝剣〟だった。物質の上でも刀剣と化したのは驚きだったが、体の方が魂に合わせたようなものかもしれない。
いずれにせよ、あの人は今までどおり何も変わらないだろう。狗琅真人だって、食事や睡眠や体の動きは人間と変わらないと保証したのだ。
親子で、師弟。それが変わることのない、お互いの関係。
そしていつか、彼を殺してでもその
「じゃ、行くか」
「はい、師父!」
狭間の世界、永遠に続く夜の海にかかる桟橋の上。二人は狗琅真人の見送りを受けて、武海市へ、自分たちの家へ向かって出発した。
早く強くなりたい。逸るその気持さえ、胸を弾ませる命の躍動だった。
【抜剣入刀生死不問! 第二部 完】
抜剣入刀生死不問! ~人でなしの黒と赤~ 雨藤フラシ @Ankhlore
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