第4話 少年老兵とお姫様系美少女
躑躅森揚羽と名乗る少女を一言で表すなら、お姫様と呼称して良いだろう。
ここで言うお姫様とは日本古来の御姫様ではなく、プリンセスと表現した方が、日本人の奥ゆかしさとは真逆の煌びやかさを持つ揚羽には相応しい。余程、特殊な趣味の持ち主でない限り、男子ならば美少女とカテゴライズされる揚羽は、口調、態度共に尊大で上から目線ではあるが、相手に不快感を与えない不思議な魅力を持っている。仮に彼女の言動に苛立ちを覚えたとしても、会話の端々に滲ませる微笑を見れば、棘のある態度など何処かにすっ飛んでしまうに違いない。
もっとも、見た目は子供でも中身は老成している都古から見れば、背伸びしたい盛りの子供のようなモノ。彼好みの淑女に成長するのは、まだ暫く先の話だろう。
さて、この躑躅森揚羽だが、意外にも面倒見が良い性格をしているようだ。
相手が(見た目は)年下なのもあるだろうが、見ず知らずの人間達の会話に割って入るなど、物怖じしない性格もプラスに働いているのだろう。困り果てていた都古にしてみれば渡りに船。ありがたい申し出だった。
案内されて揚羽の後に付いてみれば、歩く方向は先ほど引き返したモノレールの駅がある方角。思わず間違えではと揚羽に問い掛けると。
「近衛市行きのバスは無いわ」
さも当然のような答えが返ってきた。
「は?」
「先月までは運行してたけど、利用人数が少なくて廃止になったの。近衛市は埋め立てで作られた人工島だから、専用のモノレールを利用した方が便利だから」
耳を疑う理由に、都古は何てこったと手で顔を覆った。
「リサーチ甘すぎるんじゃないのか?」
管轄外とはいえこの体たらく。クルーガーが現役なら、自分も連帯責任で今回の任務に関わった全員が鉄拳制裁だ。
その件に関してはバックアップを通して、調査に携わったエージェントに苦情を入れておくとして、折角のチャンスなので目的地に向かう間、揚羽から色々と情報を引き出すべきだろう。街の情報事態は資料として知っているが、その土地に暮らす人間の率直な感想は、何よりも得難い情報だからだ。
「揚羽は近衛市に関して詳しいのか?」
「あげ……まぁ、人並み程度の知識くらいならあるわ。何故かしら」
「俺は近衛市に行くのは初めてなんで、どんな場所なのか気になって」
「ふぅん。貴方、海外暮らしが長かったの?」
「それなりにな」
「何処の国に住んでいたのかしら」
「西欧の片田舎だよ。ジャガイモが美味い以外、特徴の無い場所だ」
海外の生活に興味があるのか、当たり障りのない返答にも拘わらず、揚羽は感心したように何度か頷いてから、此方の質問に答えてくれた。
「近代的で日本らしさは薄いけど、利便性で言えば暮らすには便利でいい街よ」
「ほう。治安の方はどうなんだ」
「壁の外に行かなければ、日本国内は比較的どこも安全よ。特に近衛市は教導学園もあるから、取り締まりという意味では他の地区より厳しいかしら……ただ」
揚羽は意味深に呟き、都古は合いの手を入れずに次の言葉を待った。
「近衛市は人材育成に尽力する為に作られた都市でもあるから、日本中から様々な才能ある人間が集められているわ。政治、経済、そして軍事。近い将来、日本の中枢を担う人間の多くは、この街の出身者が占めるでしょうね」
「それが何か悪い事に繋がるのか?」
「……そんな風に聞こえたかしら」
「ああ。少なくとも、肯定的な意味合いには取れなかったね」
鋭いのね。そう言うように揚羽は唇に微笑を浮かべた。
「簡単に言えばエリート思考。才能ある者達が集う場所だけに、その手の考え方が蔓延しているの」
「それは面倒な話だな。だが、大なり小なりよくある事だろう」
「才能が個人のモノだけを指すならね」
皮肉を交えるよう揚羽は言った。
「……ああ」
何を意味するか察しが付いた都古は、言葉少なに納得した。
生まれながら持ち得るのが才能なら、人間は心技体以外に持ち合わせるかもしれないモノが存在する。
家柄と財力だ。
「日本は他国より企業や財閥の発言力が強いと聞くが、教育機関までそうなのか」
「恥ずかしながらね。貴方も気を付けた方がいいわよ」
「ん?」
「口と態度。初対面の年上を呼び捨て、しかもでファーストネームで呼ぶような生意気な態度は、鼻っ柱の強い連中に直ぐ目を付けられるわ。向こうの学校に通うなら、改めるべきね」
「学校……ああ。そうだ、そうだな。気を付ける」
別に都古は学校に通うつもりは無いので関係ないのだが、説明する必要も無いので適当に話を合わせて受け流した。その態度が余計に心配を煽ったようで、本当に大丈夫かしらとため息をつかれてしまう。
根っからの世話好き少女だと、都古は内心で感心してしまった。
大きな情報は得られなかったが、立場による格差があるとは中々面白い話を聞いた。上手く活用出来るかは現時点で不明だが、近衛市の基礎となる思想ならば、無駄になる事は無いだろう。
上下の関係に厳しい環境というのは、個人行動が多い都古には息苦しい。
「……ま、俺には関係の無い話だろうがな」
「なにか言ったかしら?」
「いいや、何も。おっと、そろそろ駅に到着するな」
立体駐車場を更に進み、モノレールの駅はもう目前まで近づいていた。ここまで来れば迷う事は無い。後はバックアップと連絡を取って、最寄りの駅と道順を聞けばいい。
「済まなかったな、揚羽。おかげで助かった」
「……私、さり気なく貴方より年上だって、注意したつもりなんだけど」
「ああ、悪い。揚羽、ちゃん? さん?」
盛大なため息が、揚羽の口から漏れた。
「もういいわよ。それより私、貴方の名前をまだ聞いてないんだけど」
「……ああ」
偽名とはいえ気軽に教えて良いのかと一瞬迷うが、正直に自分の名を告げた。
「都古だ。雪村都古」
「変わった名前ね」
まさかそんな事を言われるとは思わなかった都古は、不思議そうに首を傾げた。
「そうか?」
「そうよ。だって……」
言いかけた言葉を遮るよう、背後から黒塗りの車がスキール音を鳴らしながら、歩道に乗り上げて二人の進路を邪魔するように急停車した。事故ではなく故意に自動車は、都古達の進路を妨害しようとしている。その証拠にもう二台、同じ黒塗りの車が横と背後、取り囲むように停車したからだ。
(まさか、もうトリスメギストスの追手が?)
瞬時に全身から警戒心を滲ませた。
「おい、揚羽。下がって……」
「くっそ、もう見つかった」
都古は身構えるが、横から聞こえた呟きに客の目的が自分では無い事を察する。
どうやら、面倒事に巻き込まれたのは、自分の方らしい。
周囲を往来する人々が何事かと遠巻きに見つめる中、エンジン音を轟かせるいかにもな高級車の中から現れた人物達も、明らかに堅気では無い顔ぶれだった。
「黒いスーツにサングラス。軍人が迷彩を着る以上に、わかりやすい連中だな」
一台の車に四人ずつ。計十二人の同じ恰好をした男達が取り囲むよう下車。一人が此方側に側面を向ける高級車の、後部座席側のドアを開けると、恐らくはリーダー格と思われる人物がキビキビとした動作で姿を現す。
その意外な姿と恰好に警戒していた都古は、思わず我が目を疑ってしまう。
「……子供?」
一礼する黒服達を率いるよう正面に立ったのは、揚羽と同じ年頃の少年。
服装はスーツではなくブレザーで、胸の校章からそれが学生服だと気が付く。長身で同年代の小娘にはモテそうな顔立ちをしており、身体つきと佇まいから何か格闘技を嗜んでいるのは容易に想像が付いた。
彼は此方を一睨みしてから、不機嫌な表情をする揚羽へ視線を移す。
「探しましたよお嬢様。あまり困らせないでください」
お嬢様という単語に、驚きよりも納得の方が先だった。
揚羽は気まずそうな視線を此方に向けてから、キッと正面の若者を睨み付ける。
「随分と大袈裟ね赤坂。私一人を探すのに、随分と大袈裟じゃない?」
「当然です。貴女は躑躅森家の……旦那様のご息女。何を差し置いても優先せよと仰せつかっておりますので」
丁寧な口調だが、有無を言わさぬ迫力が籠っている。
僅かに視線が泳いだのは、本来は傅くべき相手に対して不快感を誘発するような態度を取っているからだろう。
かといって、話し合いで何とかなる雰囲気でも無い。
「お戻り下さいお嬢様。これ以上の我儘は、旦那様のご迷惑にもなります」
「私に対する迷惑は、どうでもいいってわけ?」
「……旦那様と比較するのならば、そう捉えて頂いても構いません」
赤坂と呼ばれた若者も、表面上や口調は平静を保っているが、一瞬だけ言葉を詰まらせるところを見ると、今の言葉は本意では無いのだろう。対して揚羽は特にショックを受けた様子も無く、変わらぬ堂々とした態度で耳にかかる髪の毛を指で掻き上げた。
「別に隠れて街に出るなんて何時もの事でしょう。見逃しなさい」
「駄目です。確かに普段ならば黙認……も、本当はしたくないのですが、常日頃から勉学に勤しまれ結果を残してらっしゃるお嬢様の、息抜きという意味でならば許容してきました。けれど、本日に限っては認められません」
「以前から私は今日の日程に関して意を唱えていたわ。娘の人生を一から十まで決めつけるなんて、親のエゴだと知りなさい!」
「躑躅森の人間であるという事は、そういう事なのです」
「そもそもそんな閉塞的な物の考え方も気に入らないのだわ」
言い争いは平行線を保ったまま、熱を持って加速していく。
苛立つ揚羽に対して赤坂は終始困り顔で戸惑い気味。
更には衆目が気になるのか、赤坂は集まり出した野次馬にチラッと見てから、視線を胸の前で両腕を組んでいる揚羽に戻した。
「……仕方がありません。気は進みませんが、旦那様からは意固地になっているようなら、多少強引な手段を使っても構わないと許可を頂いていますので」
「強引って、私に何をするつもりよこのスケベ!」
「スケ……ッ!? じ、自分はただお嬢様の身柄を拘束すると言っているだけで、決して不埒な考えなど……!?」
それまでのポーカーフェイスが一転、顔を真っ赤にしてしどろもどろに弁明を繰り返す。
「……若いってのは、いいモンだな」
若々しい二人の反応とやり取りに、しみじみとした言葉が自然と漏れる。
あの赤坂という若者は、揚羽に対して従者以上の感情を持っているのだろう。
年齢と共に色恋に心を焦がす感情が枯れ始めていた都古にとって、初々しい赤坂の童貞臭い反応は見ていて応援したくなる気持ちになる。黒服達に囲まれた異様な光景の真ん中で、都古は湧き上がるむず痒い感情を噛み殺すのに必死だった。
浮つきかけた空気を引き締めるよう、赤坂はワザとらしい咳払いを一つ。
「これ以上の問答は無用のようですね……お前達」
強引に話を打ち切って、赤坂は左右の黒服達に視線で指示を送る。
視線を受けすぐさま動き始めた黒服二人は、真っ直ぐに揚羽の方へ向かって歩いていく。黒服達は全員、高身長で体格が良い。二人も揃えば小柄な揚羽のような少女など、苦も無く車の中へ引きずり込めるだろう。
それがわかっていながらも、揚羽は臆する事なく気丈に睨み返していた。
「……はぁ。助けて貰った手前、無視するってわけにもいかんか」
側の揚羽にも聞こえない呟きを漏らしてから、都古は一歩前へと踏み出した。
緊張感が増していた空気に、冷ややかな剣呑さが混じる。それは赤坂を含めた黒服全員が向ける、邪魔するよう揚羽の前へと進み出た都古に対する、明確な敵意だった。
中でも一番驚いたのは、庇われた揚羽自身だ。
「――ちょっ!?」
「旦那様からの許可はある。退かせ」
制止しようとする揚羽の言葉を遮るよう、問答無用で黒服の一人が都古に手を伸ばす。乱暴に胸倉を掴むと、力任せに真横へ引き摺り倒そうと引っ張るが。
「……むぐっ!?」
「ま、いきなり殴りかからないだけの常識は弁えてたか」
都古の身体はビクとも動かなかった。
大人と子供という事を差し置いても、体格差では一回り以上黒服の方が大きい。それなのに黒服が幾ら左右へ、前後へ揺すろうと、上に持ちあげようと試みても、都古の足は地面に根付いているのではと思うほど微動だにしなかった。
逆に動かそうとする黒服の方が、ぜぇぜぇと肩で息を切らせているくらいだ。
「おいおい。新品のシャツが皺になっちまうだろ」
「ぐっ……こっのッ!」
「何を遊んでいるッ、さっさとしろ!」
傍目からは遊んでいるように見えるのだろう。怒気に満ちた声で赤坂の声に急かされ、男は必死の形相で都古の肩を掴み、全身の力を使って退かそうとするが結果は同じ。
その姿に周囲の黒服達も事の異常さに気が付き、表情に驚愕が張り付いていく。
「腕力に頼り過ぎなんだよ」
胸倉を掴む右手首を不意に握ると、顔中汗だくの男はビクッと身体を震わせた。
「――なッ!?」
身体が左右に揺らされたと思った刹那、男の身体は半回転する。頭から地面に叩き付ける直前で、都古は掴んだ襟を引き後頭部を強打しないよう浮かせ、背中から落とした。
「――んがッ?!」
手首を掴まれていた所為で受け身が取れず、背中を強打した男は激痛にのたうち回った。
予想外の出来事に遠巻きに眺める野次馬を含め、誰もが言葉を失った。
沈黙の中、倒れた男が漏らす苦悶にハッと我を取り戻したもう一人が、地面に倒れた同僚から視線を都古に戻しながら拳を振り上げた。
「このガキッ!」
「反応が遅いぞ若造」
既に目標と定めていた都古は飛んでくる拳を、首を傾けるだけで回避すると、伸ばされた腕を自身の方に引っ張りながら、男の顎を掌底で打ち抜いた。
軽い手応えと共に男の顔が横に弾け、脱力するよう四肢を突いてしまう。
「あ、あ……れ?」
自分でも何が起こったかわからないといった様子で、男は伏せるように気絶してしまう。
白目を剥いて倒れる男を見送ってから、都古は感触を確かめるよう、掌底を放った右手を数回開閉する。自分で想定していたより、打ち抜いた手応えが軽かった。
「やはり子供の筋力か。だが、感覚は悪く無い。むしろ良好だ」
体格の良い大人二人が子供に軽々と一蹴され、信じられないという驚きが空気に満ちる。それは背後にいる揚羽も同じだ。巻き込んではいけないと思って、制止に入ろうとしたのだろう。手を此方に伸ばした態勢で、目と口を大きく開いて唖然としていた。
直ぐに我を取り戻すも動揺までは治まり切らず、男達はどうしたらよいかと及び腰だ。指示を求めるような視線に、赤坂は自分の頬を手の平で叩いてから即座に檄を飛ばした。
「うろたえるな、躑躅森家に仕える者が情けないぞ!」
そう怒鳴った赤坂はキッと此方を睨み付け、挑むように歩みを進めてくる。
都古は鼻から息を抜きながら、肩に吊り下げたスポーツバックを担ぎ直す。
「そんな怖い顔するなよ色男。俺は何もアンタらと喧嘩しようって気はさらさらないんだ。もっと穏便に、話し合いでだな……」
「黙れ。二人も叩きのめした後に言うセリフかッ」
「……ごもっとも」
まだ立ち上がれない二人の苦悶を耳に、都古は恐縮するよう肩を竦めた。
「何度も同じ警告はしない。すぐさまこの場から立ち去れ。そこのお嬢様は、貴様のような一般人が気安く側にいて良い存在ではない」
間合いの外で一度立ち止まり、赤坂は警告の言葉に剣呑さを滲ませた。睨み付ける視線に遊びは一切なく、返答次第では容赦しないぞという強い主張が、眼力から嫌と言うほど注がれる。
一方で都古は正反対。緩やかな流水のように、静かな気配と微笑を湛えていた。
「悪いが、まだ道案内の途中でね。彼女にいなくなられちゃ俺は今夜、温かい食事と寝床にありつけない」
「ならば自分達が責任を持って貴様を送り届けよう」
「馬鹿を言うな。むさ苦しい男共と行動するくらいなら、小娘と一緒の方がまだマシだ」
小娘という呼ばれ方に、背後の揚羽は不満そうな気配を醸し出すが、緊張感のある空気に押されてかそれを口に出す事は無かった。
だが、赤坂の方はそうはいかないようだ。
「身の丈を知らないガキがッ。土地柄か多少、腕に覚えはあるようだが、それにのぼせ上がって調子づいているのは……」
「いい加減話が長いぞ。文句があるなら短く済ますか行動で示せ」
「……いいだろう」
額に青筋を浮かべて、赤坂の声色が一段階低いモノになる。
瞬間、前後の短いステップと共に、赤坂は一気に間合いを詰めてきた。
「教育的指導だッ! 歯の一、二本は覚悟してもらうぞッ!」
(……拳闘か、早いな)
そう思った時には、真っ直ぐ突き出された左の拳が、都古の顔面を穿っていた。
硬い物がぶつかる鈍い打撃音に、一部の黒服達は痛みを連想して表情を歪める。しかし、苦悶の声を漏らしたのは、拳を打ち出した筈の赤坂だった。
「……痛ッ。なんて石頭だッ」
拳を打ち付けたのは都古の横っ面ではなく額。人体で最も硬い部位を全力で殴れば、逆に殴った赤坂の方にダメージがあるだろう。下手をすれば砕けてもおかしくない衝撃は肘から肩を抜け、本来ならば打ち出した時と同じ速度で引き戻さなければならないのだが、腕に走る痺れの所為で、反応が麻痺し動かせず伸ばしっ放しになってしまう。
バックステップで距離を取り追撃を警戒するが、都古はその場から動かない。
何故だ。と、視線で問い掛ける赤坂に、ニヤッと口角を吊り上げながら自分の頬を叩く。
「ほら、打ってこいよ。教育的指導をするんだろ?」
「……ッッッ。上等だッ!」
まだ痺れの残るであろう左拳と右拳を正面で叩き合わせ、赤坂はファイティングポーズを取る。受けて立つよう都古は、肩に背負っていたスポーツバックを、後ろに揚羽に投げて寄越す。
「わ、わっ!? ちょっと、私は荷物持ちじゃないよの!?」
「庇ってやってるんだ、それくらいの事はしろ」
軽口を叩きながら、都古はスキップでもするような足取りで前へと出る。軽快なステップで拳を構える赤坂と対峙する姿は、まさにボクシングの試合のようだ。
「――シュッ」
短く息を吐き、先ほどより鋭いジャブが都古を牽制する。
額によるガードを警戒してか、コンパクトにまとまったお手本のようなジャブが計三回、都古の顔面を目掛けて伸びる拳を、肌が触れるギリギリの距離で回避。先ほどの一撃で腕の長さは見切っているので、上体の動きだけで十分間に合う。
二撃、三撃と拳が音を立てて風を切るが、都古はそれらを軽々と紙一重で避けていく。
「くそッ!」
逆に焦りを見せるのは赤坂の方。
これが単純に避けられただけなら冷静さを保てたが、回避のタイミングはギリギリ。感覚的には捉えたという意識の方が強かったのだろうが、握った拳は思い描いた感触を得る事は無く空気を叩くばかり。その所為でムキになり、舞い散る木の葉を追うようステップワークで都古に接敵する。
焦れば焦るほど、都古にとっては都合が良いとは知らずに。
「どうした。威勢がいいのは最初だけか。そよ風しか飛んでこないぞ」
「黙れッ! クソッ……なぜ当たらんッ」
追い縋るよう前へ前へと踏み込みながらの応酬を、都古は後ろ歩きで下がりつつ回避行動を続ける。
誤解を招かないように説明するなら、赤坂という少年が決して弱いわけでは無い。繊細な足さばきに軽快なステップ。放たれる拳打も威力、速度共に本職のボクサーの域に達していると言っても言い過ぎでは無いだろう。度胸もいい。普通に相対して、彼と渡り合える人間は多く無いはずだ。
ただ、それは格闘家、アスリートを含めた素人の場合。
雪村都古。ジョーカーは戦闘のプロだ。肉体的には子供でも、戦場経験の無い若造に負ける要素など微塵も無い。
(……頃合いか)
プロのボクサーでも全力で動き続ければ、直ぐに体力が尽きてしまう。赤坂も例外では無く、ムキになって都古を追い続けた結果、肉体的な限界が流れ出る汗とキレを失い始めた動きとなって現れる。
何とか立て直そうと、大きくストレートを打ち抜いた瞬間、都古が動いた。
「――なッ!?」
「視野が狭すぎる。もっと回りを見なけりゃ、大怪我するぞ」
大振りの一撃を掻い潜り、右ストレートの外側から手を伸ばし赤坂の胸倉を掴む。腕同士が交差した所為で伸ばした右腕が戻せない上、自身の腕が邪魔で左で都古を殴りにいく事も出来ないだろう。
「舐めるなッ!」
強引に掴まれた手を振り払おうと、勢いよく後ろに下がるが都古の狙いはまさにそれだ。
動きに合わせて都古も前へと出るが、黒服達との戦闘で動きを予期していたのか、赤坂は得意のステップワークで転ばされる事を阻止する。しかし、構わず都古は掴んだ赤坂の身体を強く押し込むと。
「言っただろ。視野が狭いと大怪我するって」
「なにを――ガッ!?」
言いかけた瞬間、赤坂の背中は前から押されるように、取り囲んでいた黒塗りの高級車に叩き付けられた。普通乗用車より一回り大きな車体が弾むように揺れ、背中を打ち付けられたショックで座席側のドアがへこみ窓が粉々に砕け散る。
「ふっ!」
予想外の衝撃に赤坂の全身から力が抜け、脱力した身体を都古は自身の方へと引っ張り寄せると、そのまま腰を捻りながら背負い投げの要領で、アスファルトの上へと投げ飛ばした。
「――がはッ!?」
寸前で掴んだ襟を引っ張ったので後頭部への強打は避けられたが、二度の強い衝撃を背中に受けた赤坂は、息を詰まらせるよう苦しげな息を断続的に吐き出しながら、アスファルトの上で悶絶する。
当然、起き上がれるような余力も無いだろう。
静まり返る一同。一部の黒服が絶句するような表情を浮かべている事から、このような事態は想定外で思考停止しているのだろう。
時間が止まるような沈黙を破ったのは、躑躅森揚羽だった。
「……ちゃ~んす」
呟いてから駆け出した揚羽は、ちょうど身体を起こした都古の手首を掴み叫ぶ。
「逃げるわよ!」
「ちょ!? 急だなオイッ!」
戸惑いながら腕を引かれる形となり、仕方なしに都古も走り出す。
去り際に一瞥すると、苦痛に顔を歪めながらもまだ闘志の衰えない赤坂が、待てと声には出さず唇を動かす姿に、悪かったなと内心で謝罪した。
ドアがへこみ窓が割れた高級車のボンネットに飛び乗り、車体を上下に揺らしながら囲いを突破する頃には、黒服達も我を取り戻して騒ぎ始める。しかし、トップである赤坂が行動不能という事もあり、統率が乱れ追うべきか仲間を介抱すべきかで足並みが揃わない。
「大の大人が指示を子供任せか。全く情けないモンだ」
言ってから自分は娘……いや、孫でもおかしくない小娘に、手を引かれている事を思い出す。見栄え的には問題無いが、心情的にはやはりガックリと来てしまう。
振り払うかどうか迷っていると、何を思ったのか揚羽は腕を引いたまま車道側へ飛び出していく。
「おい馬鹿! 危ないッ!?」
「ちょっと、止まりなさい!」
怒鳴る都古の声を無視して、揚羽は空いている右手を上で大きく左右に振った。
ちょうど駅の方から車が向かってくる最中で、フロントガラス越しに運転手が驚いた表情を見せながらブレーキを踏んで急停止する。停車したのはタクシー。都合の良い事に乗客はいなかった。
距離はあったのでさほど危険では無かったが、抗議の視線を向ける中年のタクシー運転手に構わず、揚羽は後部座席に回り込むと激しくノック。渋々と開かれたドアの僅かな隙間に手を突っ込み、強引にこじ開けてから都古ごと飛び込むように乗車した。
「ちょっとちょっとアンタら、危な……ッッッ!?」
「近衛駅まで」
文句を言おうと振り返った運転手に、揚羽は取り出したカードのような物を突き付ける。運転手はギョッとした表情でカードと揚羽と見比べると、言いかけた苦情を飲み込んで「畏まりました!」とハンドルを握った。
半開きだったドアが閉まると同時にタクシーが発車。ようやく揚羽は安堵の息を吐く。
「なんとかなったわね」
「なったわね。じゃない、この阿呆」
「――いだっ!?」
勝手に終わった事にする揚羽の額を、ペチッと都古は平手で叩いた。大して力は入れてないが軽く赤くなった額を手で押さえて、揚羽は「何をするのよっ!」と抗議しながら都古を睨む。
「本当に無礼者ね。私のおでこを叩くとか、賠償問題が発生するわよ!」
「うるさい。面倒事に巻き込みやがって。こっちはいい迷惑だ……おい」
苛立ちからつい乱暴になり、足を伸ばして運転手の座席を後ろから蹴る。
「次曲がったら適当なところで止めてくれ。俺だけ降りる」
「ちょっと!」
抗議の声を上げるが都古は耳を貸すつもりは無い。
運転手も面倒はゴメンと思ったのだろう。都古の言葉に従って信号を曲がると、ウィンカーを出して右側の路肩にタクシーを寄せ停車した。
「待ちなさい!」
停車と同時にドアが開くと、今度は焦った表情で揚羽が都古の袖を掴む。
「私の事情に巻き込んだ事は……その、謝罪するわ。でも、逃げろとも言ったはずよ。庇ってくれたのは、嬉しかったけど」
「ああ、そうだ。お前さんを助けたのは俺の意思だ。道を教えて貰った恩もあるしな。感謝を言うんだったら俺の方さ」
「だったら何故、そんな風に怒っているのよ」
意味がわからないと、揚羽は拗ねるよう唇を尖らせる。
半開きになったドアを足でこじ開けてから、まだ揚羽が抱えていたスポーツバックを引っ手繰るように取り返す。
短く息を吐いてから、睨む視線を和らげて。
「俺はお前の事情は知らん。だが、非ってのはお前さんに方にあったんじゃないのか?」
「……それは」
やましい事を言い充てられたように、視線を逸らした揚羽は切れ悪く口籠る。
「お父様が私の意思を無視して、事を進めるから……」
「それは話し合いで解決出来ない事だったのか?」
「無理よ。そういう家なの。一般人の、ましてや子供の貴方にはわからないが」
「そうだな。だが、わかってるお前さんは、問題から逃げだす事で話し合いに応じない父親が、納得すると思ってるのか?」
「…………」
返答は無く、揚羽は俯いたまま沈黙する。
「それと車の前に飛び出るような真似をするな。自分がガキじゃないと思ってるなら、冷静に考える事を覚えろ。金は置いてく」
「……っ。私に、そこまで恥じをかかせる気?」
「ははっ。その鼻っ柱の強さを父親の前で出せりゃ、何とかなるんじゃないか。ようは根気だ」
表情を緩め、赤くなった額を指でトンと優しく突く。
「あの赤坂って奴に謝っておいてくれ。俺も試運転したいからって無茶し過ぎた」
「試運転?」
「ああ、いや、何でもない。じゃあ世話になったな」
実現を有耶無耶に誤魔化してから、都古はタクシーから飛び降り、引き留めるように揚羽が発しようとした言葉を遮るよう勢いよくドアを閉めた。
間もなくタクシーは発車。
揚羽は振り向きガラス越しに何かを叫ぶが、エンジン音に紛れ都古の耳に届く事は無かった。
「……やれやれ。小娘の扱いってのは、何時の時代も難しいモンだ」
頭を一掻きしてから、スポーツバックを肩に担ぎ直す。
もう会う事は無いだろう揚羽の乗ったタクシーに敬礼をしてから、都古は目的地である近衛市に向かう為、近くの駅を目指して走り始めた。
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