第3話 極東の国
数十年ぶりに降り立った日本の空気は、記憶にあるモノとは違っていた。
空港は国の玄関口であり、外へ一歩足を踏み出せば、自国とは違う空気感が異邦者を出迎えてくれる。例えるなら匂いだ。なれた自国民には感じ取る事の出来ない、異邦人だからこそ感じ取る匂いは、その国独自の花やフルーツの甘い匂いだったり、スパイスの刺激的な香りだったり、変わったところでは香水の匂いが鼻孔を擽る国もあった。その点で言えば日本は醤油の香りがすると言ってよいだろう。
だが、それは記憶上の話。まだ日本が列島として国の形を保っていた時代で、耳慣れない名称である、特別行政自治区日本の空港に降り立って最初に抱いた感想は、この国はなんとも無味無臭な国なのだろう、だ。
空から見下ろした日本の風景は、戦後の残り火を示すような瓦礫が積み重なった禁止区画と呼ばれる無政府地帯と、幾つもの壁に仕切られ統治されている雑多ではあるが、記憶よりもより近代的に作り込まれた町並みだった。
列島が東西に分裂、一割が無政府状態とはいえ、自治区と称される場所は世界でも有数の安全区域であり、空港内も想像していた以上に多様な人種で溢れかえっていた。
半日以上のフライトと入国審査を終えた開放感から、人の往来が多い場所なのにも拘わらず少年……雪村都古は大きく上に向かって伸びをする。
「あ~……くたびれた。何時の時代も空の旅ってのは、しんどいモンだな」
凝り固まった首を解すよう回していると、背後から笑みを零す音が聞こえた。
「何を爺臭いこと言ってんのさジョーカー。ほら、周りの邪魔になるから足を止めるなよ」
言いながら背中を押して先を促すのは、サングラスをかけた金髪美女ハンナだ。
歩き始めるもまだ残る首の違和感に、右手で摩りながら横を歩くハンナに視線を向ける。
「ダグの奴もケチ臭いな。ファーストクラスとまでは言わんが、せめてビジネスくらいは用意しても良かっただろう」
「無茶言うなよルーキー。我が社、民間軍事会社ヴァンガード・カンパニーのエースであるアタシすらエコノミーなんだから。それに、ギアよりは広いし快適じゃん。エアコンもあれば、食事や酒だって出るんだし」
「戦場の棺桶と民間の乗り物を一緒にされてもな……それと、俺の名前はミヤコ=ユキムラだ。コードネームで呼ぶな」
「そいつは失礼。東洋人の名前は呼び難ってさ」
「俺も同感だ」
都古は尻のポケットにしまってあった、自分のパスポートを取り出す。
中には微妙な表情を浮かべたまだ見慣れない自分の証明写真と、急に呼ばれても反応できないかもしれない自身の名前が記されていた。日本人の雪村都古。この国で使う、ジョーカーの新しい名前と戸籍だ。
偽名と偽の戸籍まで用意して都古達が何故、縁もゆかりも無い日本という国を訪れた事に関して応えは一つしかない。
トリスメギストス。
謎に包まれた秘密組織が所持する、ジョーカーのソウルマテリアル。そのオリジナルを所持する幹部クラスの人間が、この国のいずこかに潜伏しているという情報を得たからだ。
「現在の日本は主要都市を隔離する事によって、一定水準の安全を確保しているけど、日本政府、特に東側はどうも弱腰の連中が多いみたいで、諸外国から持ち込まれる騒動に関しては、国家に実害が無い限り不干渉を貫く方針さ。内輪の安全を守る為には全力を尽くすが、外の秩序を取り戻す事に関しては無関心ってのが現状らしい」
「テロリストやゲリラが隠れ住むには、打ってつけってわけか」
「実情が掴めてないから、トリスメギストスはテロリスト認定されてないけどね」
「ふん。やれやれだな」
口さみしくなった都古は、前もって売店で買ってあった棒付きのキャンディーの包装を向き、咥えると飴玉を口内で転がした。
別に甘い物に飢えているわけではなく、煙草が吸えないので仕方がなくだ。
「軍事的な戦略として各国は、取り立ててトリスメギストスと敵対する理由は無い。連中を追うのはあくまで、我が社の私怨ってわけだ」
言いたい事を察して、都古は唇を尖らせながらはみ出した飴玉の棒を動かす。
「要は金にならないって事だろ。傭兵稼業としては致命的だな」
「おまけにこの国は他国には無関心だが、内輪に対しては驚くほど過保護だ。好き勝手暴れると、日本政府に睨まれちまう。西側の勢力に関しては……まぁ、現時点では考えなくっていいかな」
「交渉するパイプすらないのか?」
「ウチの活動範囲は欧州から中東、中央アジアだからね。全く無いわけじゃないけど、無茶を通すのには弱い関係性かな。出入国くらいは融通して貰えるけど」
言いながらハンナは自分のパスポートを手に振った。
ハンナはともかく元々の戸籍すら存在しない、雪村都古に関しては一からのデータを偽造するしかない。その辺りに関して生まれから家族構成、海外留学を経ての帰国などをでっち上げる時に協力してくれた人物がそれだ。
だが、日本国内の戦闘行為となれば話は別だろう。
「物事を成すには順序だてて行動するべきってのは、アンタの言葉だったよね」
「そうだな。何事にも順番は必要だ」
尊敬する伝説の傭兵の同意を得て、ハンナは嬉しそうに表情を崩す。
「ま、詳しい事は現地で合流予定のバックアップに……ちょっとごめん」
話の途中でハンナが持っている携帯電話の着信音が鳴り、ジャケットの内側から取り出すし呼び出しに応じる。直ぐに表情が真剣なモノへと切り替わった事から、仕事関係の連絡なのだろう。
ハンナが使っている私物の携帯電話は、今の時代らしくスマートフォン。デコレーションするような女らしさは持ち合わせてないので、素の状態で持ち歩き若干の傷は目立つが、十五年のブランクがある都古には物珍しい代物だった。
「スマホ、ね。一応、支給されたから持ってるが……」
ズボンのポケットから、連絡用に持たされたスマートフォンを取り出す。
一応、大まかなレクシャーを受けてネットもメールも問題なく使用できるが、液晶の画面だけでプッシュボタンも無い本体にはまだ慣れなかった。
「機械も国も、変わるのが早すぎるだろ。これじゃ、俺が元の歳になる頃には人類は滅びちまうんじゃないか?」
軽いカルチャーショックを受けている内に通話を終えたハンナは、正面に回り込んで足を止めると申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ごめん、ジョ……都古。先行している連中に、ちょっとしたトラブルがあったみたいでさ。アタシは急ぎでそっちのフォローに回らなきゃならないんだ」
「おいおい。到着して早々、揉め事か?」
「そこまでの大事じゃないみたいだけど、なにせウチの連中は日本に慣れてない奴ばかりだからさ」
元々が欧州を拠点として活動する会社なので、仕方がないと言えば仕方がないだろう。
日本に慣れているのは一時期、怪我で日本の施設に療養した際、才能を見込まれて完治する間、指導教官の真似事をしていたハンナと、日系人で日本に滞在経験もある、今回の一件では都古のバックアップを任された人物の二人くらいだろう。
厳密にいえば都古……ジョーカーも生まれだけを言えば、日本なのだが。
日本人の協力者も必要になるだろうが、そのコネクション作りもこれからやらなければならない。
「そんなわけで、都古とは別行動を取らなきゃならないんだけど。大丈夫?」
「……お前なぁ」
本気で心配そうな顔をされ、都古はため息交じりに頭を掻いた。
「ガキの使いじゃないんだ、問題はない。それとも敬老精神のつもりか小娘」
「いやいや、そんなわけじゃないって。まぁ、問題ないか」
「失礼な奴だ。全く」
無意識なのか同じ恰好で頭を掻くハンナに、都古は不機嫌に鼻を鳴らした。
都古の身体が少年になっているのが主な原因だが、再会してからずっとハンナは親戚の子供にでも接するように過保護で、彼女を赤ん坊の頃から知っている都古にしてみれば溜まったモノではない。その度に口を酸っぱくして注意しているのだが、笑いながら聞き流され改善の余地が全くなかった。
「やれやれ。俺はアイツのオシメも変えてやった事もあるんだぞ」
ティーンに満たない頃に比べれば、劇的に女になったハンナだが、やはり都古……ジョーカーからしてみれば、ハンナ=ベルンシュタインは自分の教え子の娘であり、自分にとっては娘や孫に近い存在だ。ある意味ではその所為もあり、強く注意出来ない部分もあるのかもしれない。
やはり心配なのか先を行きながらも、チラチラと此方に視線を送るハンナの姿に、都古は困り果てたような息を吐きだした。
再び横並びになった二人は今度は少し足早に先へと進む。専用の出口を抜けて荷物を受け取ると、キャリーバックを引きながら空港の入り口にある、バスチケット売り場の前まで来た。ここからは別行動だ。
足を止め振り返って向き合うハンナは、まだ心配そうな色を表情に残している。
「本当に大丈夫? 目的地までの行き方はわかるか? なんだったら迎えを……」
「いい加減にしろ」
堪りかねた都古は頭を掻き乱してから、突き出した指でハンナの肩を突く。
「こっちは平気だから、お前はお前の仕事をしろ。向こうも困ってるんだろ?」
「そりゃそうだけどさぁ」
「乗り換えの必要も無いバスでの移動だし、問題があれば至急携帯でお前と連絡を取り、連絡が付かない場合は合流予定のバックアップを頼る。何か反論は?」
口調に軍人らしい厳しさを雰囲気に滲ませると、ハンナは触発されたよう姿勢を正した。
「あ、ありません」
「声が小さい」
「ありません!」
「ならばハンナ=ベルンシュタイン。お前はお前の任務を果たせ……行け」
「はい! 失礼します!」
何事かと視線を向ける周囲の人間達に構わず、ハンナは直立不動で敬礼をすると、キャリーバックを抱え上げて、タクシー乗り場を目指して全力疾走していった。人込みに紛れ姿が見えなくなったのを確認してから、都古は苦笑を零す。
「あのやんちゃな小娘が、今じゃ根っからの兵士か……喜ぶべきか悲しむべきか」
同じ道を歩む事はむず痒い嬉しさもあるが、死と隣り合わせの職場である以上は、安易に喜ぶことは出来ない。複雑な悲喜交々を胸に抱きながら、自分も目的の場所を目指してクルッと身体を回した。
後ろを振り向き沈黙と共に静止してから、元に戻るように反対方向へ反転する。
「……俺は、何処の停留所に向かえばいいんだ?」
どのバスに乗るかは事前に聞いていたが、乗るべきバスがある停留所の場所を聞くのを忘れていた。
首を巡らせて案内板などを見てみるが、停留所は複数あるらしく、自分が何処に向かえばよいのか判断が付き辛い。大見得を切った矢先にこの躓き方は、笑い以上に気恥ずかしさが込み上げてきて都古は顔を顰めた。
「まぁ、適当に探せば見つかるだろ」
ここでハンナと別行動になったのだから、彼女が向かった方と反対側に向かえば目的の停留所に付くだろう。そう決めつけて都古は、スポーツバックを肩に担ぎ空港内から外へと出た。
屋外に一歩足を踏み出すと、少し強めの冷たい風が顔を打つ。
日本の四月はまだ肌寒いが、基本的に砂漠だったり密林だったりと過酷な環境で行動する事が多かった都古には、これくらの寒さなら過ごし易い方と言える。むしろ、あまり体感した事の無い四季が物珍しいくらいだ。
五分ほど進むが、目的のバス乗り場らしき場所に辿り着く気配は無い。むしろ空港からどんどん離れ、乗り物は乗り物でも自家用車、マイカー専用駐車場がある方向に来てしまった。
「……参ったな、こりゃ」
大型の立体駐車場を見上げながら、都古は顰めっ面で頭を掻いた。
一応、駐車場はモノレールと隣接しているので、電車による移動なら出来る。しかし、都古の方はそれを想定していないので、降りるべき駅も、駅から目的地までの道順もさっぱりだ。住所はわかっているので、最悪は空港まで戻りタクシーを呼んで貰う手もあるのだが、今日はバスの移動を体験するつもりでいた。乗りたかったという単純な好奇心ではなく、様々な事態を考慮して、移動手段としてのバスを下見しておきたかったからだ。
単純な移動なら電車やタクシーの方が手軽で便利なので、バスはこのタイミングでなければ乗る機会は少ないだろうと判断した。
「道は違うようだし、仕方がない戻るか」
ため息一つと共に振り返り、来た道を五分かけてまたトボトボと戻っていく。
ふりだしに戻り、人通りの多い空港前まで帰ってきた都古は、その足で近くの案内板に駆け寄ると、目を細めてじっとりと睨み付ける。
「潜入の基本は潜入前にルートを設定する事だ。勿論、不確定要素により予定したルートから外れる場合もあるし、そもそも目標に関する資料が集まらない場合も多々あるが、今回に限り詳細な文章付きで細部まで書かれたマップが存在する。これを丹念に読み解き最適化したルートを導き出せば、結果はおのずとついてくる……んだが」
目付きはじっとりさせたまま、都古は唇をへの字に曲げる。
「さっぱりわからん」
身も蓋も無い結論が導き出されてしまった。
親切設計が過剰過ぎるのか、基本的に案内板に書かれている文字が多すぎる。
複数存在するバス乗り場は、終点として何処に到着するかまで書かれ、他にもタクシー乗り場やモノレール、最寄りの駐車場などは当然として、レストランや喫茶店、トイレの場所まで男女を分けて記されていた。
それが日本語だけでなく、他の言語も含めているのだから情報量は膨大だ。
「こりゃ駄目だな。誰か人に聞いた方が早いか」
空港だけあって声をかける人間には困らない。
だが、人通りは多くても日本人以外も含めての事で、彼らに空港の事を尋ねても困らせるだけだろう。確実なのはここで働く職員、客室乗務員辺りなのだが時間帯が悪いのか、近くにそれらしき人は見当たらない。見つけても忙しそうで、声をかけるのは躊躇われた。
他に誰かいないか視線を巡らせると、小さなコンビニのような売店を見つけた。
ちょうど客も途切れたらしく、若い女性の店員が陳列棚の整頓をしている姿を見て、彼女に道を聞こうと売店の方向へ足を向けた。
「ちょっと失礼。聞きたい事があるんだが……」
後ろから声をかけると女性店員は、驚いたような顔で振り向く。
「済まない。ちょっと道を尋ねたいんだが、コノエ方面に行くバスの乗り場は何処だろうか」
『えっ、あっ、いや……その』
紳士的な態度で話しかけたつもりなのだが、何故か女性は酷く慌てた様子で質問には答えてくれず、身振り手振りを繰り返す。
子供の姿なのに口調がおっさん臭いからか?
そう思いながらもう一度、今度はもっと丁寧な感じで問い掛けてみるモノの、女性はより一層慌てふためくばかりで会話にならない。どうしてなのかと困っていると、背後から「何か困りごとかしら?」と流暢な英語で話しかけられた。
振り返ると立っていたのは、小奇麗な恰好をした日本人の少女。
年齢は十六、七歳くらいだろう。黒髪のロングストレートで、特徴的なのは真紅色をした宝石のような瞳。一目で感じ取る事が出来る気位の高さは、ここが日本でなければ何処かの王侯貴族か何かかと思うくらい、彼女の持つ空気感は一般人とはかけ離れていた。
視線を合わせても特に愛想笑いを浮かべるでもなく、少女は淡々と口を開く。
「失礼。そこの店員さんが英語に不慣れなようだったから、思わず口を挟んでしまったのだけれど……お邪魔だったかしら?」
なるほどと、少女の言葉を聞いて都古は合点がいった。
今までの経験上、大抵の場所なら英語さえ話せれば意志疎通が可能だったので、無意識の内に日本語を聞き取りながら英語を喋っていたのだ。
納得した都古は咳払いをして、言語を切り替える為に日本語を思い浮かべる。
「……済まなかった。暫く日本語を使ってないモンだったから、つい。そちらの店員さんも、困らせてしまったようで悪かった」
日本語で謝罪すると彼女は少し驚いたように表情を崩してから、同じよう日本語で答えてくれた。
「日本語を喋れたのね……まぁ、日本人みたいだし当然か。あんまりに流暢な英語を喋るから、日系の人かと思ったわ」
「いや、アンタの発音も素晴らしかったよ。振り向いた時、日本人の娘がいたもんでこっちが驚いたくらいだ」
「……ふぅ~ん」
軽い口調で返すと、何故だか少女は視線を細めた。
「私にそんな口を叩くなんて、子供の癖に勇気があるのね」
「……は?」
「なんでもないわ。貴方、一人? 親は何処にいるのかしら」
迷子とでも思われたのか、数十年ぶりにかけられた言葉に内心で苦笑する。
「いや。連れは用事があるから途中で別れた。俺はその……親戚の家に向かう途中なんだ」
「ふぅん。なんて場所?」
「コノエって街なんだが」
「コノエ……? ああ、近衛ね。近衛市」
頷くと少女は此方に背を向け、唐突にコンビニの入り口まで歩き出した。立ち止まったまま唖然としていると、振り向いた少女が動かない都古の姿を見て眉間に皺を寄せる。
「何をしてるの。行くわよ」
「行くって、何処へだ」
「近衛に行きたいんでしょ。私が連れてってあげる」
上から目線の口調で少女は言うと、気取った風とは違う自然な動きで、長い黒髪を梳くように右手で掻き上げた。
「感謝なさい。この躑躅森揚羽が道案内するなんて、滅多にないんだからね」
「……はぁ」
到着早々、妙な小娘に絡まれたモンだ。
喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込み、困り顔の女性店員にもう一度謝罪の弁を述べてから、断るのも悪いと思い奇妙な少女、躑躅森揚羽の後に続きバス乗り場を目指した。
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