第2話 旧友との再会
ダグラス=クルーガーは数年前まで優秀な軍人であった。
中央欧州連合。通称・CEUと呼ばれる共同体が、直轄で指揮権を持つ軍隊への従軍経験を持ち、士官学校を経て最終階級を大佐まで昇進し、高齢を理由に五年前に惜しまれつつ退役した輝かしい経歴を持つ人物でもある。
年齢は今年で六十五歳。
現役時代から理路整然とした物言いを好み、几帳面で身だしなみに気を遣う性格から、同僚達には軍人より政治家の方が向いているだろうと揶揄された事も少なくない。実際、年嵩を増して顔に刻んだ年輪がより一層の威厳を生み、鍛えた体躯は大分衰えてしまったが、物知らずの若者を一睨みで黙らせる事の出来る迫力は、十分に持ち合わせている。いや、威圧感という意味では、現状が最も仕上がっていると言えるだろう。
引退して五年。本来ならもっと上の階級も目指せる能力を持ちながらも、現場に拘り続けた故に大佐で軍歴に幕を閉じたクルーガーが、第二の人生に選んだ舞台は穏やかで孫に囲まれた老後ではなく、やはり戦場であった。
プライベートミリタリーカンパニー。
民間軍事企業の最高責任者というのが今の彼の肩書だ。
高級中華料理店のVIPルームで、クルーガーは一人テーブルに座っていた。
他の客席とは隔絶された個室は簡単な宴会が出来る位に広く、一人で居ると逆に殺風景で物悲しくなる。高級料理店だけあって防音も完璧なモノだから、緩く流れるピアノ曲のBGMがなければ、室内は静まり返っていただろう。
中華料理ではお馴染みのターンテーブルには、既に様々な料理が並んでおり、食欲を刺激する匂いが立ち込めている。なのに、一人席に着くクルーガーは料理に手を伸ばす事はなく、チビチビと紹興酒を飲んでいた。
出入り口の扉がノックされると、この店の給仕がクルーガーに一礼する。
「お客様。お連れ様がお見えになりました」
「そうか。通してくれ」
「かしこまりました」
短いやり取りの後、給仕によって最初に姿を現したのは、金髪の女性だった。
この場には不釣り合いな軍服の女性、ハンナ=ベルンシュタインはクルーガーに向けて姿勢正しく敬礼をする。
「ハンナ=ベルンシュタイン。ただいま到着致しました」
「ご苦労、ベルンシュタイン君……彼は?」
「此方に」
扉の外に向けたハンナの視線に促され、もう一人が室内に足を踏み入れた。
不機嫌そうな表情を晒す東洋人の少年。スーツ姿をしているが童顔の所為か着せられている感が強く、本人も気慣れないのか肩を回すなど落ち着きに無い素振りを見せていた。
少年と視線が合うと、クルーガーは緊張するかのよう間を置いて問い掛ける。
「……ジョーカー、なのか?」
「ああ、久しぶりだなダグ坊や。最後に会ったのは浮気を疑われたお前の為に、わざわざ俺が仲裁に入って擁護した時以来か」
「うぐっ……そんなこともあったな」
「感謝しろよ。俺の説得がなけりゃお前は今頃、寂しい老後を送ってたところだ」
「そもそも原因は貴様が任務に出る景気づけだと私を一晩中連れ回したからだろうがッ!」
当時の事を思い出してか、椅子から立ち上がって非難の声を上げる。
普段の冷徹な態度からは想像もつかない、大人げないとも取れる彼の形相と態度に、ハンナは少し驚いたように目を見開いた。
それに気づいたクルーガーは、咳払いをして何事も無かったかのよう着席する。
「報告書には目を通したが、本当にジョーカーなのだな……正直、驚いた」
互いに新兵だった頃からの付き合い故、少年が語ったエピソード以上に、ジョーカーの喋り方や人のからかい方がクルーガーの知る人物そのもので、姿形は違えど本人だという事は直ぐに納得する事が出来た。
だからか、クルーガーは何かを堪えるようきつく結んだ唇を隠すよう、自身の口の前で手の平を組んだ。
「久しぶりだ……本当に、久しぶりだ」
感極まるよう、クルーガーは言葉を詰まらせる。
「貴様が任務中にMIA。作戦行動中行方不明になったと聞いた時は、耳を疑った……だが、そうだな。貴様が、不可能を可能にする男が、そう簡単にくたばるはずが無い。あるわけがない」
「……大佐」
僅かに震える声色を聞いて釣られたのか、ハンナも軽く目尻を指で拭った。
ただ、当の本人は困ったように肩を竦めるばかり。
「取り敢えず、座っても構わないか? この一週間、検査検査で病人食しか食わせて貰えなくて、久しぶりの肉や油の匂いに腹ペコなんだ」
「お、おお、そうだったな済まない。掛けてくれ」
クルーガーに促され、ジョーカーは彼の対面の席に腰を下ろした。
「それでは大佐。アタシ……私は、失礼します」
「うむ。ご苦労だったな」
「ああ、待て。ハンナ」
敬礼と共に退出しようとするハンナを、椅子に腰かけたままのジョーカーが呼び止める。
振り返ったハンナは疑問を示すよう小首を傾げた。
「席は他にも空いてるんだ、折角だからお前も食ってけ」
「いやいや。親友同士の対面だろ? アタシなんかいても、邪魔になるだけだって。遠慮するよ」
「妙な気を使うな。爺と顔付き合わせて二人っきりだぞ、上手い飯も喉が通らん。ここは一つ、綺麗どころでも側に置いて貰わなきゃな」
困惑するような視線を向けられ、クルーガーは苦笑を漏らす。
「変わらんな貴様も……わかった、許可する」
クルーガーの許可を得て、本当に良いのだろうかという色を表情に浮かべながら、ハンナはジョーカーの右隣の席に腰を下ろした。
「話を始める前に、乾杯くらいはしておこう。何かリクエストはあるか?」
「お前は何を飲んでる」
「紹興酒だ」
「中華料理には合いそうだな。俺はやっぱり、最初はビールで軽く……」
言いかけたところで、クルーガーは一つの疑問をハンナに問い掛ける。
「ところでアルコールは大丈夫なのかね? 中身はともかくとして、身体は子供なのだろう」
「いいか悪いかで言えば、駄目ですね」
そう言ってハンナは、咎めるような横目を向けた。
「……オレンジジュースで」
ため息と共にアルコールは諦め、適当なジュースで妥協する。
給仕を呼んで注文すればそこはやはり高級店か、待たせる事無くストローを差したオレンジ色の飲み物がグラスに注がれジョーカーの前に置かれた。
ちなみにハンナは普通にビールを注文している。
「飲み物は揃ったな。では、乾杯といきたいが……何に乾杯したモノか」
「旧友との再会を祝してでいいんじゃん……ないですか」
「面倒な。普通に乾杯でいいだろう。お前は直ぐにそうやって、形から入ろうとする。悪い癖だ」
「何を言う、立場ある人間とは基本、そういうモノなのだ。その意味では貴様の方が特殊過ぎる」
「年を取っても丸くならんのは、どうかと思うがね」
「貴様が何時まで経っても子供過ぎるのだッ」
「まぁまぁ、二人とも……ったく、大人げない」
放っておくと喧嘩を始めそうなので、仕方なく苦笑いをしながらハンナが仲裁に入る。
二人がこうやって会話をする姿はハンナにとっては初めてで、普段通りのジョーカーと普段と違うクルーガーとの対比は、彼女にとって新鮮な驚きであった。
部下の仲裁に先に矛を引いたのはクルーガーだ。
「では、乾杯の理由は各々が決めるという事で……英雄の帰還に」
最初にクルーガーが、酒の注がれたグラスを掲げる。
続けてハンナも同じく。
「ジョーカーとの再会に」
二人に視線を向けられ、ジョーカーは軽く肩を竦めてから流れに倣う。
「老けた親友といい女に育った友人に」
掲げられた三つのグラスを、それぞれは一気に飲み干した。
喉を突き抜ける強めの酸味と果糖のすっきりとした甘味は、口の中にオレンジの強烈な存在感を示してから、溶けるように消えていく。目覚めてから初めて口にする水以外の飲み物は、より濃厚で刺激的な味わいに感じられた。
「オレンジジュースをこんなに美味いと思ったのは、生まれて初めてかもしれん」
「それは結構。なら、続けて食事にも手をつけてくれ。同じような感想を抱いてくれるなら、店を選んだ身としては嬉しく思う。メニューの方は……」
「お前の長ったらしい講釈など聞きたくない、飯が冷めちまう」
「……せめて、最初は味わって食ってくれよ」
拘って選んだメニューを一品ずつ説明するつもりだったが、言葉をバッサリと切られてクルーガーは残念そう。彼主催の食事会で長い説明を何度も経験しているハンナは、心の中でジョーカーに拍手を送った。
「中華料理か。腹一杯食うには申し分ないな」
箸を片手にジョーカーは唇を舌で濡らしながら、どれから食べようかとターンテーブルを回す。
用意されたメニューは海鮮料理が中心。フカヒレの姿煮に伊勢海老のチリソース。野菜と鮑の炒め物に、海鮮スープ。当然それ以外にも焼売や春巻き、小籠包など中華料理ではお馴染みの料理が並び、クラゲの冷菜やピータンなどの珍味も取り揃えてあった。ジョーカーはそれらを大皿から小皿に取り分けながら、次々と口の中へ放り込んでいく。
「はぐ、はぐ。んぐんぐ……こりゃ美味いな」
あまり料理に拘りの無いジョーカーも、これには素直に賞賛を述べた。
「フカヒレなんか何処が美味いの疑問に思ってたが、実際に食ってみないとわからないモンだな。食感は春雨とは全然違うし、とろみのあるスープが癖になる」
「ふふっ。そうだろう、そうだろう」
「ま、殆どスープの味付けでフカヒレは食感だけだけどな」
褒められてクルーガーが満足げだったのに、余計な一言を足してしまう。
肉料理を好むハンナはラインナップに残念そうではあったが、小皿に山盛りで料理を乗せる様は中華が苦手というわけでは無いようだ。年齢的に多くは食せないクルーガーは、少量だけ摘みながら酒を飲み進めている。
「さて、食べながらで構わないのだが……ジョーカー。改めて話をしよう」
「もぐもぐ。そうだな」
海鮮スープの器に口をつけてズズッと飲み干して、ジョーカーは唇を拭う。
「研究所から出て一週間、大した説明もして貰えず検査検査の毎日だった。そろそろ、具体的な話が聞きたいと思ってたところだ。なにせ……」
ジョーカーの目付きが、鋭さを帯びる。
「目が覚めてみれば、身体は別人になっている上、俺の記憶より十五年も進んでるんだ」
「そうだな。貴様の言う通りだよ、ジョーカー」
食事の手を止めたクルーガーも、真剣な顔付きを作る。
「オールドマスター量産計画。端的に言えば貴様は、この計画の最有力候補に選ばれてしまったのだ」
「そいつは穏やかじゃないな……熱っ!?」
「真面目に聞け」
小籠包のスープで唇を火傷する親友に、クルーガーの言葉にはため息が混じる。
「十五年前、お前はとある奇妙な作戦の実行部隊として、単独出撃した」
「それ自体は珍しい事じゃないな。俺の仕事は大抵、単独出撃、単独潜入、単独戦闘だ」
「シングルアーミー。伝説の傭兵が伝説たりえる理由だな」
「話を続けるぞ」
脱線しそうになりクルーガーが修正を促すと、ハンナは申し訳なさげな表情を見せる。
「当時、CEUの特殊部隊に雇われていた貴様は、中央アジアに広く展開するゲリラ部隊の襲撃に参加した。ここまでは普通の任務だったが、問題は現地到着時にジョーカーへ発令された緊急任務だ」
「敵輸送部隊への単独襲撃。輸送物資を無傷で奪取せよ、だったか? あんまり覚えてないが」
あやふやな記憶にイラつくよう、ジョーカーは咥えた箸を前歯で噛む。
「そうだ」
足りない記憶を補完するよう、クルーガーは頷いた。
「だが、後から調べても部隊の指揮系統から、ジョーカー個人に向けて指示が飛んだ記録は皆無だった」
「むぐむぐ……極秘のコードがかけられていた、とかじゃないんですか?」
「それも調べたが、結果は同じだった。無論、消去された記憶も無い」
この場合の消去とは、データ的な意味だけではなく現物の文書を含んでいる。
「同時に派遣した部隊もゲリラ部隊との交戦で全滅している……記録上は、な」
クルーガーの含むような言葉に、流石の二人も食事の手が止まった。
導き出される結果は一つ。ジョーカーは何者かに、嵌められたという事だ。
緩いBGMが流れる中で、食事の手を止め沈黙する姿は何とも奇妙。ただ沸々と湧き上がるのは明確な怒りであった。
「気に入らないな」
自分を嵌めた者に対して、罠に嵌められた自分に対しての怒りが、言葉としてジョーカーの唇から零れる。
「ジョーカー。貴様は生前……という言い方は正しく無いかもしれないが、目覚める前までの記憶は何処まである?」
「任務を受けたのは漠然と覚えている。それ以前の事はハッキリと思い出せるから……俺が任務を受けてMIAになるまで、ちょうど五日間くらいの記憶が抜け落ちてるな」
「病院での検査結果は?」
「脳に関しては異常は無いそうです。ただ、データとしての記憶領域となると、専門的な知識が必要だから普通の医者に判断は難しいと」
「そうか。ま、仕方がないな」
クルーガーは紹興酒を啜る。
何処となく安堵するように見えたのは、異常は無い事が確認出来たからだろう。
「十五年かかった……貴様の死を受け入れ切れず、あらゆる手段を用いて調査を続けたがCEUの諜報力を持ってしても、我々を罠に嵌めた相手の尻尾を掴む事は出来なかった。恐らくはCEUの内部。政治か軍部か、私より高見の位置にいる人間に内通者がいたのだろう」
「だから軍を辞めたのか? 顔に似合わずヒーロー気質なのは、爺になっても変わらんな」
「よせ、買い被り過ぎだ。ただの定年退職だよ」
苦笑しながらクルーガーは、手酌でグラスに紹興酒を注ぐ。
「だが、格好つけて言うなら、全くの無関係というわけでもない……ジョーカー。貴様は今の世界情勢に関して、どれ位の知識がある」
「殆ど無い。俺が居た研究所が、蒸し暑い東南アジアにあったってくらいだ」
東南アジアと国や地域を限定しなかったのは、研究所があった場所が無政府地帯だったからだ。それ自体は珍しい事では無い。百年の間に繰り返された四度の世界大戦が、人類の築き上げた文化を破壊し人口は大きく減退。人々は未だ燻る戦火から身を守る為、大きく縮小された生存圏の中で、生活する事を余儀なくされた。
「この地球上で非戦闘地域とされる場所は三割に届かない……未だ世界の三分の一は争いが続いているのが現状だ」
「十五年立っても変わらずか」
歴戦の老兵達が吐き出す言葉の重みに、若者として一人の兵士として、ハンナは申し訳無い表情をする。食べ進める手は止めて無かったのが、彼女の性格を現していたが。
幼い頃から戦場で育ち、半世紀を兵士として過ごしてきたジョーカーにとって、戦争と戦火は日常だ。いつ果てるとも知れない命。事実、記憶としては残っていないが、ジョーカーは戦場で命を落とした。死ぬ事に恐怖が無いと言えば嘘になるが、死んだとしても後悔なかった。ただ、自身の死後も世界が変わらず争いに満ちているのは、少しだけ虚しく思えた。
そんなモノは感傷だと、飲み干したグラスに残った氷と一緒に噛み砕く。
「折角の老後を隠居もせず民間で軍事企業なんかやってるんだ。当然、小遣い稼ぎの延長なんかじゃないんだろ?」
「無論だ」
クルーガーは力強く頷く。
「世界大戦の影響が尾を引き、国力の低下で国家が国家である為の影響が弱まっているとはいえ、内に籠っていてはしがらみやら何やら立ち入れない聖域がある。だからこその国家の枠組みに囚われない組織を作り、時に泥水を啜るような真似までして情報を集めた」
「執念深い男だな。そんなに俺が好きだったか」
「好きさ」
照れもせず返され、からかうつもりだったジョーカーの方が言葉を詰まらせる。
「貴様だけでは無い。私は友を、戦友達を心から愛している。だからこそ許せん。我々を嵌め、我々の誇りを傷つけた奴らを……私は案外、人間が小さく執念深いのだ。やられたらやり返す。残り少ない私の余生を費やすには、十分な理由だとは思わんか」
「……やはり変わらんな、お前さんは」
呆れながらも、自然とジョーカーの頬には笑みが浮かんだ。
「それで、俺……俺達を嵌めた連中の正体はわかったのか?」
「トリスメギストス」
「聞いた事があるな。確か、魔法使いか何かの名前だったっけ」
「ヘルメス=トリスメギストス。錬金術師の祖と言われる古代の人物、いや、神人だったかな……実在する人物かどうかは不明だが、トリスメギストスという名称の組織は確かに存在する」
「何者なんだ、そいつらは」
「その名の通り、錬金術師だよ」
素っ頓狂な答えに、ジョーカーは思い切り眉を八の字にする。
「知らなかったよ。年取ってお前もファンシーな冗談を言うようになったんだな」
「馬鹿げた事を言ってるのは自分でも重々承知だ」
苦虫を噛み潰すような表情で、続ける言葉を自身の口から告げるべく、勢いをつける為に紹興酒をあおる。
「もっと現実的な言い方をするなら、錬金術と言われる類の技術をより学術的に、科学的に突き詰めた連中だ」
「胡散臭いな。オカルトの類は専門外だ」
「お前は知らないだろうがな。この十五年で世界は、オカルトが表面化しつつあるんだよ」
冗談でも何でも無く、クルーガーは至って真面目な顔だ。
「何よりも貴様自身が、そのオカルトを体現している」
「……俺が?」
確認するようハンナの方を向くと、頬を食べ物で膨らませながら彼女も頷いた。
「疑問に思わなかったか? 貴様の今の身体が、誰のモノなのか」
「……いや」
思わなかったわけでは無いが、この十日間誰にもその事は問い掛けなかった。
ジョーカーは恐怖を感じていた。もしも、この身体が見ず知らずの誰かのモノで、見ず知らずの誰かが自分をジョーカーだと思い込んでいるだけでは。現在進行形で思考し、食事をし、会話をする自分自身の存在が否定されるのを恐れ、無意識に問いを避けていたのだろう。
だが、真実に柄づく為には、越えねばならぬ恐怖もある。
「誰のモノなんだ……俺の身体は?」
「誰のモノでもない。正確に所有権を示すなら、貴様のモノと言ってよいだろう……その身体は貴様の魂を入れる器として、十五年かけて培養された、人としての知性も自我も持たぬ肉の入れ物、ホムンクルスだ」
「ホムン、クルス」
自然と視線が自分の手の平に落ちる。
「ここからが連中が現代の錬金術師と言われる所以。何らかの技術で人の記憶を……いや、より正確に言葉を選ぶなら、魂と呼んだ方がいいだろう。連中は人の魂を物質化、更にデジタル化し、別の肉体に移し替える事に成功したのだ……これこそが、連中が提唱するオールドマスター量産計画の概要だ」
現実的か非現実的か。それらの論争は全て横に置いておくとして、今の説明を受けてジョーカーはようやく研究の意図に察しを付けた。
「訓練を受けずに知識と経験を得て尚且つ、肉体的な若さを手に入れる。経験と若さの融合。確かに実現出来れば恐ろしい技術だ」
第四次世界大戦後、大規模な戦闘行為が行われなくなったが反面、局地的な戦闘は大幅に数を増やした。余力の無い国の代行として軍事企業が矢面に立つ事により、戦争はよりビジネスとしての側面を色濃くし、核や大量破壊兵器などは実りの薄さやコスト面から敬遠され、戦場の花形は時代が巻き戻るように人と人との歩兵戦が主になっていた。
高い練度と経験を持つ若い兵士が、訓練にかかるコストを必要とせず戦場に出られるのなら、相応の戦果を期待出来るだろう。
「定期的な調整とメンテナンスが必要な義体兵や、適正が必要な強化兵に比べれば少ないコストで最大の成果が約束されている」
「期待し過ぎだろう。所詮は生身の人間だ」
「それを覆してきたのが貴様だろう。だからこそ、連中は貴様に目をつけた」
肯定も否定もせず、ジョーカーは温くなった海鮮スープをレンゲで啜る。
「残念ながらジョーカーのオリジナルの魂データ。我々はソウルマテリアルと呼称しているが、それらは既にあの研究所からは持ち出されていた」
「大量の俺がこれから量産されるってわけか。ぞっとしないな」
「いや、恐らくそれは無いだろう」
否定するクルーガーの言葉に、疑問を示すよう眉根を寄せた。
「魂の移植を同時に行った際の実験は全て失敗に終わったと、諜報活動で得た研究資料には書いてあった」
「同じ人間が同時に二人存在するのは、あり得ないって事か。もっとも、俺が本当に以前と同一人物かと問われても、答えは出せんかもしれんがね」
「テセウスのパラドックスをこの場で議論するつもりは無い」
皮肉。いや、自虐に近い言葉を、何処か不機嫌そうにクルーガーは否定する。
「少なくとも現段階で、オールドマスターの蘇生には成功しても量産までには至っていない。だが、これからもそれが続くとは限らん」
オールドマスターに選ばれたのは、ジョーカー一人とは限らない。クルーガー達の調査によれば、退役した人物も含めて複数名の軍人が、いずれも不自然な形で死亡、または行方不明になっている事例があると言う。
「今回の研究所襲撃作戦で、トリスメギストスを表舞台に引き摺り出す事は叶わなかった。だが、我々は連中の影を踏む事は辛うじて成功した……そして何より」
いつの間にか食事の手も酒を飲む手も止め、クルーガーは真っ直ぐジョーカーに向けて視線を送っていた。
「貴様を取り戻す事が出来た」
一旦、視線を外して大きく息を吐きだしてから。
「記録上、貴様は既に死亡扱いとなっている。望むのなら、新たな戸籍を得て戦場とは無縁の生活を送る事も可能だ。何より貴様はもう十分に戦った。これは当然の権利と……」
「止めろ、バカ」
生真面目な男の口調に柔らかな優しさが宿り、それが酷く居心地が悪いと、ジョーカーは思わず握っていた箸を落としそうになった。
「頭が固い頑固者の癖に、妙なところで情が深くなる。本当に言いたい事は別にあるんだろ?」
「……私達と共に、トリスメギストスを追ってくれるのか?」
答えを焦らすように、食事のシメとして運ばれた中華粥を一気に掻き込んだ。
器に口をつけ啜るように粥を流し込むと、唇にくっついた米までペロッと確り舐めとる。
「俺の魂ってヤツを他人に持たれてるのは気分が悪い。何より俺も、執念深い方なんだよ」
「……ジョーカー!」
ニヤッと笑いながら言うと、横からそれまで黙っていたハンナが、感極まったかのよう震える声で名前を呼ぶ。
クルーガーは大きく鼻から息を吸い込むと、「馬鹿者めが」と小さく呟いた。
「俺は高いぞ、ダグ。相応の給料は払って貰えるんだろうな」
「ふん。精々、こき使ってやるから覚悟しておけ」
言い合いながら二人は示し合わせたよう、右手に持ったグラスを掲げた。
オレンジジュースと紹興酒。
誓いの盃には少し間抜けだが、構わず二人は一気に飲み干した。
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