第16話 密告者、観測者、預言者
密告者.
溶岩はあっという間に広がり、ひとびとを巻き込んだ雪に這い上がって、赤い手足を広げていく。逃げるひとびとの悲鳴や、埋もれたひとの呻きがやけに遠い。ディヤラ、と私の名前を呼ぶ声が強く響いた。ハルデンが駆け下りてきた。
「上手くいったのね」
彼は蒼白だが頬だけ紅潮した顔で、しきりに頷いた。地質学者が何度も警告していたことだ。山は噴火寸前で、雪崩でも起きれば、それに刺激されて爆発すると。十九年前にはできなかったことだ。
「早く、俺たちも逃げよう」
火口はまだ音を上げて、剛速の火の玉を打ち上げている。炎に照らされたハルデンの顔が赤く輝いた。
「私、戻らなきゃ」
どこに、とハルデンが目を見開いた。
「ラゲリの中にコトヌーが拘束されているの。迎えに行くわ」
「じきに集落まで灰や溶岩が届くぞ」
「じゃあ、捕まる心配もないわね」
彼は一瞬酷く寂しげな目をしたが、静かに頷いた。
「無事で」
「あなたもね」
私は溶岩流に急き立てられながら、雪の大地を下る。
森を抜ければ、異端者の墓標代わりの氷が林立する山道だ。かつて私は妹の死体を受け取りにあの道を下った。
サンテの言った通り、密告者は語るべきことがある過去にしか生きられない。それでも、今度は、コトヌーがまだ生きている。
観測者.
頬に噛みつく氷の感覚で、僕は意識を取り戻した。雪にはうもれていないらしい。立ち上がると、山は白から、燃え盛る炎の色に塗り替えられていた。熱い吹雪のような火山灰が舞う。教皇とその周りにいた団員たちが、一瞬で雪崩に呑まれるのを見た。
カザンは、総督はどうなっただろうと思い、見回すと、数人の執行部隊と共に、まだ火に呑まれていない場所で怒声を上げていた。
教皇を掘り返せ。ハルデンと子どもを探せ。見つけて殺せ。
群衆は彼らにぶつかりながら、下方へと逃げ惑う。その中で、ひとりの男だけが火口の方へ駆け上がった。彼は正面から勢いよく、総督にぶつかった。時が止まったように、ふたりとも動かない、やがて総督だけが、ゆっくりと膝を折り、氷の前でしていたように雪の上に座り込んだ。男が片手を振り上げる。
「カザン!」
僕は雪崩に呑まれた団員が落とした銃を拾い、狙いを定めて、引き金を引く。重い衝撃が走り、男は身を反らせると、そのまま倒れた。
僕は総督の元へ駆け寄った。彼の鉛色の外套に絡みつこうとした火を、靴で踏み消す。そのすぐ傍らで、口を薄く開けたまま絶命している男は、ラゲリの前で総督を睨み続けていた異端者の子の兄の方だ。
目を見開いていた総督は、ゆっくりと苦痛に表情を歪め、身を屈めた。僕も片膝をつき、彼の脇腹に手を差し込むと、生暖かく濡れている。総督は低い呻きを漏らした。唾液が糸を引き、雪の上へ落ちる。手を引き抜くと赤く染まっていた。
「因果だな……」
彼は弱々しく、笑った。
「カザン……今すぐここを下りよう」
「平気だ、大した傷じゃない」
僕が肩を貸そうとすると、力なくそれを振り払う。
「前に僕が話したろう。森の北側は溶岩が流れるのも遅い。国境を過ぎれば軍が駐屯してるんだ。衛生兵もいるから手当てが受けられる」
「言っただろ、ここで死ぬ」
灰が降り注ぎ、彼の髪や外套をまだらに汚していく。
「本気なんだな」
彼は目を閉じて頷く。
「地質学者が途中で火山弾にぶつかって死ぬなよ」
総督は笑うが、僕は笑えなかった。元気でとも、また会おうとも言えない。父が死んだとき、僕は何と言って送っただろう。
背を向けて、しばらく進んだとき、無理に絞り出すような掠れた声がした。会えてよかったよ。
そして、処刑台で聞いたのと同じ、ボイラーの空焚きのような笑い。
僕は強く目を瞑ってから、踵を返し、元来た方へ歩き出した。
どこで生きるのも死ぬのも同じことなら、わざわざ生まれた場所で死ななくてもいいだろう、カザン。
預言者.
ひとりの男が、赤い溶岩の間を縫って山を登っていく。燃える大地の上に取り残されているのは、ハルデンを撃った執行部隊の総督だ。男は、総督に手を貸して立ち上がらせ、肩を貸して、北の方角へ向かっていく。
「いいのかよ、あんたを撃った奴が助かって」
いいんだ、とハルデンは満足げに笑った。
今、俺のまぶたの裏の景色は、目の前の光景と完全に重なった。小さい頃に呼吸する火の色が見えると言ったとき、もう顔を思い出せない母親が、神様の力よ、と微笑んだのを思い出す。氷の下で脈打っていた神の力は、俺が返すまでもなく、今ここで奔流となっている。
雲を食い破るように覗いた月は、どこも欠けていない。
「これから、どこに逃げる?」
「もう、どこにも行ける」
そう言ったハルデンの冷えた左手を俺は握った。
山は、神の加護と祝福を伝える預言者のように猛り、赤く輝く無数の焔の玉を空中に放り投げた。
氷裏 木古おうみ @kipplemaker
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