第15話 氷裏

 十九年前に踏んだ、この山の雪を一歩ずつ踏みしめていく。かつての儀式の日、足跡をつける度新しい雪に消されていく白い大地を、ひとりで進んだ。今は大勢の足跡で土が削れ、灰色に濁った雪の上を、フリントロック式を提げた刑吏たちに囲まれて、私は登っていく。


「ディヤラ、この先か」

 数歩先を進む男、カザンが私に向き直って聞く。

「すぐそこに僕たちが使っていた観測所がある。凍えずに身を隠せるのはそこしかない」

 背後から私の代わりに答える声が響いた。地質学者のサンテ。

「ハルデンは焔の目を持つ子どもを殺して、教皇が身代わりになるしかなくするつもりだわ。早く見つけないと」

 カザンは信じたか、疑っているか。振り返ったが、逆光で表情はよく見えない。その肩越しに教皇の衣が揺らめく。きっとあれは影武者だ。


 十九年前すべきだったことをするのだとハルデンは言ったが、私にとっては違う。十九年前殺すべきはあの画家だった。今殺すべきなのは、教皇だ。ただそれだけ。私はまた密告する。今度は教団を救う真実ではなく、教団を滅ぼす嘘を。


「信用ならないな」

 地質学者の声に、カザンは厚い雲に月が覆い隠された空を仰いだ。深く刻まれたくまに縁どられた暗い緑の目に、不眠を示す土気色の顔。画家が処刑台に上がったときの横顔をそこに見た。

「心配するな、サンテ。そいつは昔から優秀な密告者だ。それに、供述はおおむね火薬工場の女と合っている」

「コトヌーを拘束したの!」

 カザンは表情のない顔で私を見つめた。

「まだ生きてる」

 それだけ言って、彼は私を追い越していった。サンテは回り込んで、私の前に立った。私も足を止める。学者らしく細身だが背の高い彼と向き合うと、白い雪の上に広がる藍色の影に飲み込まれる形になった。


「月食は本当に起こるのか」

 首を縦に振り、肯定を示す。私たちの脇を教団の人間が過ぎていく。月はまだ見えない。

「貴女の目は、今あるものをそのまま伝えるだけの観測者の目じゃない」

「地質学者はよく見ているのね」

 もちろん、とサンテは笑い、

「貴女は過去を語って、現実まで過去に引きずりこむ密告者だ」

 彼の茶色い髪は雪が照り返す陽の光を含んでわずかに輝いていたが、氷のような薄い青の眼には光がなかった。


 向こうに、鉛色ではなく思い思いの、しかしどれもくすんだ色の服を着たひとびとが見える。何も知らず、儀式のため集まった集落の人間だ。

「何も変わらないよ。教皇が死んでも、また別の人間が代わる。教団がなくなろうと、できるのはまた別の監獄だ」

 私は思わず笑みをこぼした。

「あなたは私が大義のために反逆者になると思うの?」

 彼は何も問わない代わりに怪訝な表情をする。

「そんなのは革命家のすることよ。あなたのいう通り、密告者の目的はもっと私的で、未来につながらない――私の望みは今も昔も、妹の復讐よ」


 上方で、いたぞ、とカザンの怒鳴る声がした。顔を上げると、この山の頂上、火口から夜空を舐めるように炎が赤い舌を伸ばしている。そのすぐそばにハルデンと焔の目を持つ少年がいた。団員が一斉に銃を向ける。

 ハルデンの右腕は外套に包まれ、左腕には松明が握られていた。もう火薬は設置されているのだろう。子どもが一歩後ずさった。ハルデンが左腕を上げた。まずい、と呟いて、いち早く気づいたサンテが駆け出す。


 爆音が鳴り響き、視界が白に包まれた。



 ――僕の眼前で、山が、雪が、ひとが、シーツを剥がすようにめくれ上がる。再び地面が揺れる。先ほどよりずっと巨大な、この世の終わりのような轟音が。

 


 ――十九年前、私が見るはずだった、雪崩にすべてが呑まれる光景。そして十九年前では聞くことのなかっただろう、この音。


 ――いつも、俺の目の奥にしかなかった、強烈なオレンジ色の光が、熱が、力が、今現実に広がっていく。

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