跋─西晋滅亡にあたって─

 ここまでお付き合い頂いた好事家のみなさま、大変おつかれさまでした。また、お付き合い頂き、感謝に堪えません。長かったですね。


 平成三十年(二〇一八)元旦より始めた『続三国志演義Ⅱ-通俗續後三國志前編-』は紆余曲折がありながらも、本日をもって完結いたしました。完結に合わせて前作とともにしんみりとタイトルを変更しており、このばつ、つまり、あとがきもそれに準じます。


 前作『続三国志演義-通俗續三國志-』の「第三十七回 齊萬年は戦に死す」までを一気にあげたのが平成二十九年九月二十四日でしたから、きっかり一年が過ぎました。一日に三十八話とか、今になって顧みれば暴挙もいいところでしたが、当時は何も考えていませんでしたから仕方がありません。


 早稲田大学より出版された『通俗二十一史』に収められている『通俗續三國志』、『通俗續後三國志前編』、『通俗續後三國志後編』の三部作の前二者、『三國志後傳』のほぼ三分の二の翻訳を終えたことになります。


 ※


 『通俗續三國志』は三国時代の終焉から筆を起こして蜀漢遺臣の流浪と再興、それから晋の内訌である賈后かごうの専権と八王の乱、蜀の混乱と李雄りゆうによるせいの建国、最後に復興した漢と晋の大戦までを描き、つづく『通俗續後三國志前編』では八王の乱の始末と江南に逃れた司馬睿しばえいの動向、再び動き出した漢軍の進撃と内部分裂、幕間に鮮卑せんぴ慕容部ぼようぶの勃興と石勒せきろくの自立を挟んで晋の国都である洛陽の失陥、劉淵りゅうえんの死、長安に逃れた司馬業しばぎょうの抵抗とその結末までを語り終えました。


 すでに何か懐かしいですが、総じて言えば、八王の乱と永嘉えいかの乱を語り終えたわけです。軍談物の翻訳とは言え、三国時代の終わりから後をまとまった形で読める物語は他に見当たらず、その点は本作の長所と言ってよいかと思います。


 ただ、史実を基にしてはいてもかなり潤色されていますので、そこはご注意下さい。


 ※


 史実より考えれば、後漢の世を通じた匈奴の弱体化と中国内地への定住、それによるかよらぬかは解釈次第ですが、羌や氐それに鮮卑の自立傾向の果てに河北は非漢族の闘争の場となったわけです。


 本作は『三国志演義』の続編という位置づけのため、あくまで漢族中心の史観に貫かれています。ゆえに蜀漢の遺臣たちが永嘉の乱を引き起こす形になります。

 実際には史実に拠って異民族を中心に後漢から五胡の時代を捉え直す方が興味深いものが見えてくるとは思います。しかし、史料が決定的に不足しており、非常に難しい。


 教科書的にも三国時代の後、遣隋使、遣唐使で知られる隋唐帝国の時代までは五胡十六国と南北朝という暗黒時代と捉えられます。

 意外に漢と唐の間の変化が知られていない理由は、この暗黒時代をなかったかのように扱ってしまうことによります。


 実際には、五胡や南北朝時代の河北は北族文化との融合が進み、南北の気質や習俗はかなり違ったものになります。このあたりは、南北朝時代末期に生きた顔之推がんしすいの『顔氏家訓』にも表れています。

 その後も吐蕃、回回、女真、契丹、蒙古など度重なる異民族の侵入がありながら、それらの文化をも包括してしまう漢文化の柔軟性は、世界的にも珍奇なものと言えるでしょう。


 ある意味で近代中国の象徴とも見なされる弁髪さえ、女真の風習であって清の支配が始まってからのお話です。明代に弁髪なんかしていたら、漢人とは見られなかったはずです。


 弁髪と言えば、十九世紀末まで弁髪の首狩り族が北東アジアにいたと言われると、それがどの民族か、なかなか分からないですよね。

 女真は弁髪でしたが首狩り族ではなさそうですし、朝鮮は儒教国家で文尊武卑ですからそう言う民族ではない。台湾の高砂族は首狩り族だったと思いますが弁髪ではなさそう。


 翻って省みるに、江戸時代までの髷と月代も弁髪の一種と解される場合があり、前近代の日本人は戦で首級を挙げる習俗だったからか首狩り族の一種と解される場合もあります。

 つまり、日本人という回答があり得ます。

 実は、台湾の民族博物館に首狩り族の世界的な分布を示す地図があり、日本も首狩り族とされていたのです。なかなか衝撃的ですが、日本人は漢文化に親しんではいたものの、実はけっこう遠い。

 漢人よりも女真や契丹のような異民族に心性が近いのかも知れません。


 ※


 余談はさておき、三一六年の長安失陥をもって晋は一旦滅亡し、それより河北は五胡諸王朝の興亡の舞台となります。

 一般には劉淵が漢を建国した三〇四年より以降を五胡十六国、または両晋十六国と称します。本格的に知られていない時代はここからということになります。


 東晋は江南に命脈を保ちますが、文化史的な観点では、三国時代の呉、東晋、宋、齊、梁、陳の六つの王朝が六朝と呼ばれます。

 これら六朝の重要性は、江南の開発、それにその気候風土から新しい漢文化を涵養したことにありましょう。

 隋の煬帝の運河事業も、江南の生産力を政治的中心がある河北と結ぶ目的だったわけですから、六朝による江南開発の重要性が理解できます。


 その間の河北は、劉淵が自立した三〇四年から北魏が河北を統一する四四〇年までが五胡十六国時代、それから隋文帝こと楊堅による陳併呑の五八九年までが南北朝時代となります。

 なお、東晋は四二〇年に劉裕の簒奪に遭い、宋が建国されます。ただ、その頃の河北はまだ分裂が続いておりますから、両晋十六国という呼び名もいささか無理があるようにも思われます。


 本作が完結した三一六年から数えると、五胡十六国時代の終わりまで百二十年ほど、南北朝時代の終わりまではさらに百五十年が残っており、合計すると江戸時代と同じくらいの長さになります。

 『隋唐演義』は確か陳併呑あたりから始まったかと思いますが、これが五八九年ですから、三一六年から五八九年までの間は、通史として楽しめない状況にある、と言ってよいでしょう。


 この間をどのように読みやすくするかは、今後の課題として残されているわけです。


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 三部作の最後にあたる『通俗續後三國志後編』については、翻訳するかどうかも含めて、ちょっと考えております。


 その理由ですが、原書である酉陽ゆうよう野史やし『三國志後傳』は江南で起こった蘇峻そしゅんの乱に終わり、甚だ中途半端な形となっております。

 

 翻訳を始めた時には思いもよりませんでしたが、ご指摘いただいたとおり『三國志後傳』は未完で断絶しています。おそらく劉裕りゅうゆうによる東晋の簒奪、南宋の建国をもって劉氏による司馬氏への復讐を終える構想だったというご指摘は実に説得力に富みます。

 

 そのため、最後まで翻訳してもやはり、何か唐突に終わった感を拭いきれない結果となります。


 たしかに、江戸や明治の方々はこの結構で楽しまれていたわけですから、それはそれとして何も考えずに翻訳するのもありですが、逆に、西晋が滅亡した場面で終えるのも一つのやり方ではあります。


 ※


 『通俗續後三國志後編』にも、東晋の建国、晋の劉琨りゅうこんの横死、祖逖そてきの北伐、王敦おうとんと蘇峻の乱といった興味を惹く事柄も多く、何より蜀漢遺臣の始末の多くがこちらに含まれております。

 

 また、この時期を通史として描いた作品は他になく、そういう意味ではたとえ中途半端な結末であっても翻訳する価値がなくはない、とも言えます。


 ただ、致命的な問題として、蜀漢の遺臣という設定でありながら対極的な道を歩む劉曜りゅうようと石勒の諍いの結末が含まれておりません。この点は、画竜点睛を欠くと言わざるを得ず、翻訳を躊躇するところです。


 ※


 いずれにせよ、翻訳するならするで一年がかりになるであろうことは明白ですし、今すぐ手を着けることも難しいため、まずはどうするべきか、じっくり考えてみたいと思います。


 それではまた。


平成三十年九月二十四日

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続三国志演義II─通俗續後三國志前編─ 河東竹緒 @takeo_kawahigashi

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