スターリングラードの聖母

ニセ梶原康弘@アニメ化企画進行中!(脳内

スターリングラードの聖母




一九四二年一二月二四日、スターリングラードの街のなかで……



 スターリングラードとは、ロシア語で「スターリンの町」という意味です。第二次世界大戦で激戦の戦場となりました。歴史上有名な街ですが、日本の歴史教科書ではせいぜい「独ソ戦の転換点となり、これ以降ドイツは敗勢へと転じた」と書かれているぐらいです。

 しかし、歴史研究を嗜む人が増えたことやミリタリー系のアニメ等がブームになったことから最近では詳しい人も多いのではないでしょうか?


 今回ご紹介するのは、半世紀前この街で行われた戦いの経緯と、この街で描かれた一枚の聖母の肖像についての物語です。




 一九四一年。

 六月二二日、ヒトラーのナチスドイツは突如としてロシアとの不可侵条約を破り宣戦を布告、侵攻を開始します。

  後にいう「独ソ戦」の始まりです。

 「世界を驚かせる火の手をあげてみせる」というヒトラーの言葉通り、ドイツ軍は当初快進撃を続けますがモスクワを前にした頃には秋の終わりになっていました。

 そして、いつもより早い冬、しかも歴史的な寒波に見舞われます。

 冬将軍とロシア軍の反撃によってドイツ軍は首都モスクワの攻略に失敗し、大打撃を受けました。


 翌年、ドイツ軍は何とか体制を立て直し、再び攻勢をかけます。

 しかし、巨大な国力を持ったロシアと正面から戦うだけの力は、もはやありませんでした。

  そこで、ヒトラーは今度は石油資源の豊富な南方を占領してロシアを屈服させようと考えます。

 そして……その石油を運ぶ輸送路の要衝となっていたのが、皮肉にも「スターリンの街」スターリングラードだったのです。


 南方で進撃を開始したドイツ軍は、この街を占領する為に精鋭の第六軍を派遣しました。

 しかし、街のロシア軍は家やビルの一軒一軒に立て篭もったりガレキの中に潜んだりして激しく抵抗します。

 両軍は血で血を洗う死闘を繰り返し、街のほとんどを廃墟に変えてしまいます。


 激しい戦闘に巻き込まれ、街中を多くのロシア市民が逃げ惑いました。都市の周囲は全てドイツ軍が取り囲み、街に面した巨大なボルガ川を除いて、彼等にはどこにも逃げ場はなかったのです。

 しかし、劣勢のロシア軍には市民を顧みる余裕などあるはずもなく……

 そして、ドイツ軍が無力な彼等にさえ容赦するはずもなく……



 「嘆きの声、絶望の叫びが聞こえない場所はこの街のどこにもなかった。私は孫くらいの子供の死体を見ても、もう何も感じなくなった。戦いは、私の人生から涙を奪ったのだ。」

 戦後、一人の老ロシア兵が回顧した言葉です。


 壮絶な戦闘によってあまりにも多くの血と涙が流れました。

 ロシアの指導者スターリンはロシアの威信にかけて、絶対に自分の名前のついた町で敗北を認める訳にはいきませんでした。

 そこで彼は、必死に戦っているロシア軍の兵士や司令官を監督するためにモスクワから自分の片腕とも言うべき一人の男を送りました。

 彼はこの戦いで、追い詰められた者の論理を身をもって知りました。

 そして戦後、その卓越した政治手腕で後にアメリカを、そして世界を震え上がらせることになります。


 彼の名はニキータ・フルシチョフ。

 後に「キューバ危機」で核の恐ろしさを世界に知らしめたロシアの政治家です。



夏の終わりに始まったスターリングラードの戦いは、秋になっても終わる気配を見せませんでした。

 季節は次第に冬へと移ってゆきます。


 一一月。

 寒空に、雪が降り始めました。

 ヒトラーはラジオで士気を鼓舞しつづけていましたが、前線でそれを真に受ける者は、もう誰もいませんでした。

 ドイツ軍は、ようやくスターリングラードのほとんどを制圧しました。

 しかし、泥沼のような戦いに、持てる全ての力を使いきり疲れきっていました。


 そして…彼らは自分達の戦っているこの街が恐るべき陥穽となっていたことに、やがて気がつくのです。


 陥穽。

 そう、苦しい戦いの一方で、ロシア軍はスターリングラードの向こう側に別の部隊を集結させ、隠していたのです。

 一一月一九日、早い冬の訪れと共に、戦車軍団を先頭に立ててロシア軍は市外の南北両端から怒涛のように反撃を開始します。

 市外を守っていたのはロシア侵略のおこぼれを狙ってドイツに加担したルーマニア軍でした。

 彼等は戦車や大砲をほとんど持っていませんでした。津波のようなロシア軍に蹴散らされ、あっという間に壊滅してしまいます。


 一一月二三日 、郊外のカラチという川沿いの小さな町で南北のロシア軍は手を繋ぎました。

 スターリングラードのドイツ第六軍は文字通り包囲されてしまったのです。

 激しい戦いの後で包囲された彼等には、燃料も、弾薬も、そして食料も僅かしか残っていませんでした。

 しかし……


 「余はボルガを離れぬ!」


 石油を輸送するボルガ河の要衝、スターリングラード。ここを抑えねば、もはやこの戦争に勝つ見込みはない。ドイツには破滅の道しかない……そんなヒトラーの野望の虜となったドイツ第六軍は退却することを許されませんでした。


 寒さは次第に厳しさを増し、一二月半ばには零下五〇度の地獄がドイツ軍を襲います。

 地面は凍り、寒さをしのぐ穴を掘ることすら大変な作業になりました。

 食料どころか防寒コートもろくに用意していなかった彼等には寒さを防ぐすべなど何もなく、凍死するもの、凍傷で手足を無くすものが相次ぎました。


 ドイツ軍は窮地の第六軍を救おうと図ります。

 そこで選ばれたのは智将、フォン・マンシュタインでした。

 彼は崩れかかった戦線を立て直す一方、あちこちからかき集めた戦車師団を中心に救出部隊を編成し、必死の救出作戦を試みます。


 一二月一二日。

 包囲網を突破し瀕死の友軍を救おうと、救出部隊は果敢に突撃します。

 激しい戦いがここでも展開されました。

 しかし、復讐に燃えるロシア軍はドイツ軍より頑強でした。

 マンシュタインの巧みな指揮も虚しく、激戦の末ついにロシア軍は救出軍を撃退します。

 そして、三〇万に及ぶ包囲されたドイツ軍将兵の運命も極まったのです。


 皮肉にも、それは一二月二四日のことでした……



 こうして、ドイツ第六軍の兵士達は極寒と飢餓の中で、自分達の死を眼前にしつつクリスマスを迎えたのです。


「大砲や戦車、多くの装備や傷ついた兵士達を失うでしょう。それでも今ならまだ救出部隊へ辿り着ける兵士達を大勢救えます。どうか第六軍に脱出の許可を!」


 救出作戦が失敗に終わりそうな土壇場になり、マンシュタインからの必死の懇願にもかかわらず、ヒトラーは脱出の許可を出しませんでした。

 飢餓と寒さで衰え、戦う力もなくなっていた包囲下の兵士達は、近づいていた味方の砲声が次第に遠のいてゆく音を聞き、希望を失ってゆきました。

 クリスマスの当日、救出作戦の失敗を知らされた第六軍の司令官パウルス将軍は天を仰ぎ、つぶやきました。


 「アッレス・カヴート(何もかも終わりだ……)」


 スターリングラードのドイツ兵達は、ほとんどが廃墟の中にうずくまるか、穴を掘ってその中で生活していました。寒さはほとんど防げません。暖房もなく、外気はしばしば零下五〇度近くに下がりました。包囲下のドイツ第六軍は一二月から公式に凍死者を記録しています。

 そんな彼等を神は哀れんだのでしょうか……クリスマスの当日はわずかながら寒さがやわらぎ、零下二五度だったと記録されています。


 酷烈な状況の中でしたが、兵士達は、少ない食料を少しずつやりくりします。

 運送用の軍馬を殺して「馬のソーセージ」を作ったり、雪を掘って見つけた草を刈ってきてリースを作りました。

 きっと、ささやかでもクリスマスに近い雰囲気を作りたかったのでしょう……


 そんな彼等の中に、防空壕の野戦病院に勤務するクルト・ロイバーという三六歳の軍医がいました。

 彼は軍医の資格の他に神学の知識も持ち合わせた特異な兵士でした。戦争さえなかったら、きっと医者か神父になっていたでしょう。

 彼には、自分と同じく医者でもあり敬虔なキリスト教徒でもあった友人がアフリカにいました。

 友人の名はアルベルト・シュヴァイツアー。未開の地アフリカで多くの人々の生命を救ったシュヴァイツアーは、戦地の彼に一度手紙を送ったと言われていますが、その手紙が彼に届いたのか、そしてどんな内容だったのか……今となっては知るすべもありません。

 クルトは絵心も持っていました。彼は希望もないままクリスマスを迎えようとしている兵士達のために、大きな紙を探します。

 手に入ったのは、押収したロシア軍の地図でした。


 そして、彼が地図の裏に描いたのは聖母マリアと聖書の言葉でした。

 これが後に「スターリングラードの聖母」と言われるようになった肖像画です。(原題は「塹壕の聖母」と言われています)


 彼は病院(防空壕)の壁にその絵を貼りました。

 入ってきた者はみな、一瞬、立ちすくんでその絵を見入ったのだそうです。

 十字を切る兵士もいました。涙を浮かべるもの、頭を垂れ、祈りをささげる兵士も……


 クルトの所属する医療部隊の上官が僅かに残っていた酒をその場にいた兵士達についで回りました。

 しかし、そこにロシア軍の砲撃が始まり、酒はこぼれてしまい誰も飲むことが出来ませんでした。何人かの兵士が死傷しました。

 彼らは、ささやかな最後のクリスマスを祝うことが出来ませんでした。


 別のある場所では、ある将校が自分の持ち物をすべて部下達に分け与えました。ツブれたタバコ、汚れたノート、わずかなパンの小片……

 それは、死を前にした部下達への、クリスマス・プレゼントでした。

 彼は、妻への手紙にこう書き送りました。


「私は文字通り無一物になった。けれども、私の生涯の中で一番美しいクリスマスになった。私はこのクリスマスを忘れることはないだろう・・」


 そして、その彼もまた生きて帰ることはありませんでした……



 テーブル代わりの砲弾箱の上には、花も、ケーキも、チキンも、お茶も……何もありません。

 吹き込む風から守るために逆さにして置いた鉄かぶとの中に小さなロウソクをともしました。

 しかし、ロウソクはすぐに吹き消され、しまわれました。彼等に残された何日かでさえ、明かりはそれしかなかったのです。

 彼らは小さなパンのかけらを分け合い、雪を溶かした水を暖めて飲みました。

 死んだ馬肉の配給を受け取った兵士もいましたが、焼く火もなく、生のまま食べるしかありませんでした。

 兵士達はかすれ声で「清しこの夜」を歌いました。

 この夜、ドイツ軍の陣地で一番歌われたのはこの賛美歌でした。


  ある場所では、一人の兵士がアコーディオンを持っていたので兵士達がその伴奏に合わせて賛美歌を歌いました。

 しかし、二番の歌詞を知っていたのはほんの数人だけでした。三番は誰も歌うことが出来ず、兵士達は暗い顔で押し黙ったまま、ただアコーディオンだけが鳴っていました。

 すると、突然離れた場所から違う言葉で三番を歌う声が聞こえてきました。彼らが振り返ると、歌声の主はボロボロの服を着たロシア軍の捕虜や街に取り残されたロシア市民達でした。

 彼等の歌声が雪の降る瓦礫の街の空に流れ、そして消えていきました……


 一九四二年一二月二四日のことです。



 この日、この街でクリスマスを祝った人々のほとんどは、生きてかえることはありませんでした。


 スターリングラードの戦いに赴いたドイツ第六軍の将兵三〇万のうち、戦後、故郷に生きて帰った者、僅か五千名。

 スターリングラードのロシア市民やロシア軍の犠牲も合わせるとと、この悲惨な戦いの犠牲となったのは百万といわれています。


 この戦いから半世紀が過ぎました。

 スターリングラードという忌まわしい名前は今はなく、街は「ボルゴグラード」と呼ばれています。


 しかし、この街で傷つき倒れた人々の祈りは、時代がうつろい、時が流れた今もなお、世界中の戦火のある場所でさまよい続けているのです。



 もし、貴方がベルリンに行く機会がありましたら、どうか一度カイザー・ウィルヘルム記念教会(Kaiser Wilhelm Memorial Church)にお立ち寄り下さい。


 あの日一人の兵士が描いたクリスマスの聖母は小さな教会の片隅で、遠い歴史の過去になった悲しみの為に、今も祈り続けています……

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