最終話

 三月になった。大学の卒業式も終えて、僕は実家がある県内の主要都市に引越しをした。この春から一人暮らしを始め、来月からは社会人になる。

 新居は2DKなのだが、新社会人になる僕には贅沢な間取りだろうか。それでも家賃が安かったのでこの物件に決めた。駅まで少し歩かなくてはいけないことが難点だが、それが安い理由でもあるので納得する。


 親友三人との交流は続いていて、島から帰って来たあの日以来一、二ヶ月に一回ほど四人で集まっている。三人も無事就職が決まり、四月からは同じく社会人だ。

 渚とは島から帰って来てから一度も会ってはいないが、小まめに連絡を取っている。と言うよりも、渚から連絡が来るのでそれに僕が付き合っているという感じだ。言ってしまえば隣の県なのだから、会おうと思えば日帰りでもそれなりにまとまった時間会うことはできる。しかしそんな話は今まで一度も出たことがない。


 真緒のことを僕は忘れない。これは僕の絶対だ。それでも住み慣れた街を離れたことは、真緒との思い出に縛られる僕を解放したい気持ちもある。自宅マンションや徒歩圏内の学校、そして歩き慣れた生活道路など。一見矛盾した決意にも見えるが、それでも僕はこれからの新生活に対して人並みに胸を躍らせている。


 そんな三月の新居にいたとある日だった。部屋の掃除をしていた時に携帯電話が鳴ったのだ。表示を見てみると発信者は淳だった。


『今日はずっと家か?』

「どうだろ? 特に予定はないけど、思いつきで買い物くらいは行くかも」

『ふーん。昼頃は家に居ろよ』

「なんで?」

『お届け物がある』

「は? なにそれ――」


 淳は一方的に電話を切ってしまった。わけがわからない僕は淳に電話を掛け直したのだが、出てくれないので敵わない。それどころかメッセージを送っても返事すら返してくれない。既読は表示されているので見ているとは思うのだが、淳はいつからこんな強引な奴になったのだろう。

 とは言え、ここに何かが届く。僕は腑に落ちないながらも家を離れることなく、家の中でできることを探して待った。と言っても掃除が終わってからは特に何もなく、ただ寛いでこの日の午前を過ごしたのだ。


 すると正午を少し過ぎた頃、インターフォンが鳴った。淳が言っていたお届け物かと思い、僕はモニターフォンも確認せずに、無用心にも玄関を開けたのだ。


「やっほう、輝君」


 心臓が跳ねた。玄関を開けた先の少女を見て、僕は激しく動揺した。なんとそこには高校を卒業したばかりの渚が立っていたのだ。渚は夏に見たときからセミロングの髪が肩先で切り揃えた髪型に変わっていて、前髪も短くしたのだろうか、真っ直ぐ下に下りている。黒だった髪は少しばかり茶色になっていた。そして肌は透き通るように白く、日焼けの印象を感じさせない。


「な、ぎさ……」


 唖然としている僕はこれだけの言葉しか出せず、渚を見据えた。無垢な笑顔で僕を真っ直ぐに見る渚は、その表情からまだあどけなさが抜けておらず、その大きな瞳は僕を吸い込みそうで、そこに懐かしさと、変わらないなという安堵を覚える。


「ちょ、突っ立てないで入れてよ」

「あ、ごめん」


 咎めるような口調も相変わらずで、スーパーのレジ袋を提げた渚は僕の脇を抜けると玄関を上がった。初めて来る家なので「へぇ、ここが新居」などと室内を見回すが、遠慮のなさは一緒に生活していた夏を思い起こさせ、いつしか渚に言われた自然な僕に近づきつつあった。


「なんで、ここがわかったの?」


 まずはこの疑問だ。渚とは連絡を取り合っていて、僕がこの街で一人暮らしを始めることは教えていたのだが、住所までは教えていない。見るからに一人なのだが、県外からどうやってここまで来たのかまったくの謎である。


「輝君が一向に振り向いてくれないから待ちきれなくて来たんだよ」


 膨れた表情でそんなことを言われてもそれは僕の質問の意図するところの回答ではなく、僕はまだ頭から疑問符が消えない。


「お昼まだだよね? 作りに来た」

「は?」


 表情を再び笑顔に変えた渚は手に持っていたレジ袋を上げると、キッチンに身を寄せた。そして迷いなく材料を広げ始めたのだ。その様子を黙って見ていると、やっと渚は僕の知りたいことを話してくれた。


「淳さんに教えてもらったんだよ」

「は? 淳に? 淳って、あの淳?」


 僕が驚いて声を張ったのも無理はない。なぜ僕の親友の淳と渚が繋がっているのかまったくもって理解できないのだ。


「そうだよ。輝君のお友達の田橋淳さん」

「なんで渚と淳が繋がってんだよ?」

「島で一緒に生活してた時、輝君が勝手に家を出たことがあったでしょ?」


 目を逸らしたくなる思い出だ。あの日は渚に多大な迷惑を掛けてしまった。しかし、そのことがきっかけで渚に自分のことを打ち明けたのだから、なくてはならない出来事でもある。


「輝君がいなくなってパニックになっちゃって、そしたら輝君の携帯が鳴ったんだよ。そこに淳さんの名前が表示されててね、次の日SNSで探したらばっちり発見。それでコンタクトを取ったわけ」

「なんで、そんなことを?」

「あの時は輝君のことをたくさん知りたかったから」


 あの晩、渚に真緒とのことは話したし、真緒からの手紙だって読ませた。それでも渚にとってはまだ足りなかったのだと僕は悟った。その渚は初めてのキッチンにも関わらず手馴れた様子で炊事を進め、その光景が懐かしくも感じる。


「やりとりしてるうちに私の気持ちとか全部さらけ出して、そしたら淳さんに言われたんだ。真緒さんのことも含めて輝君の全部を受け止めてやってくれ、って。そうでないと輝君とはやっていけない、って」


 これで渚と灯台に行った時の渚の言動や行動が納得できた。ここまで渚を納得させたのは淳だったのか。その決意を胸に渚は僕に想いの丈をぶつけたのだ。そして今まで連絡を取りながらずっと待っていてくれていたのか。僕はこれほどまでに恵まれているのかと、渚の想いのありがたみを今更ながらにしみじみと感じる。


「淳とは会ったことないんだろ?」

「うん」

「それでよくそこまで話ができたね」


 これは、よくそこまで僕の身上を淳が渚に伝えるだけ信用を得たな、という意味である。いくらSNSで繋がったからと言って親友の淳が僕の住所や真緒のことなど、個人情報をぺらぺら話すことはあり得ないと思ったのだ。しかし、僕の質問の意図を読み取った渚の次の言葉で僕は納得して疑問を消化した。


「あの夏、私と輝君のSNSを見て、お互いに同じ場所にいるのを確認したんだって。一緒に写ってる画像もあったし。それで信用してくれたみたい」


 なるほどなと思う。淳は抜かりなかったようだ。しかしそれならそれで一言あってもいいのにとも思うが、どうも僕の親友達はお節介な人種が多いらしい。確か、真緒との馴れ初めもそうであった。今までは思い出すと苦しくなる記憶であったが、今では懐かしく感じるのが実に嬉しい。


「よし、できた」


 しばらくして渚が声を上げると、皿には実に美味しそうなかに玉が盛られていた。渚の料理の手際は相変わらず目を見張るものがあり、そして実際にこの昼食は美味しかった。

 その席でのことだ。ダイニングキッチンにある二人掛けのテーブルで僕と渚は久しぶりの二人の空間に温もりを感じていた。


「今日は僕の部屋に来ることが目的だったの?」

「それだけじゃないよ。春からこの街の専門学校に通うから一人暮らしのための部屋探し」


 渚はやっとの思いで両親を説得し大学受験を回避したことは取り合っていた連絡の中で聞いていた。年明けのことだ。それから入学試験のない建築系の専門学校に進学を決め、来月からそこのインテリア課に通う。


「専門学校生で一人暮らしって大変だな」


 この言葉を皮切りに僕は動悸が激しくなり落ち着きがなくなってきた。スプーンを握る手にも力が入り、食が遅くなる。


「そうなんだよ。仕送りもそんなにしてもらえないから、バイトも探さなきゃいけないの」


 僕は一度お茶を喉に通し、口の中を空にするとともに、喉を潤した。

 渚と一緒に暮らした夏から半年。その後渚と離れて、しかし連絡は取り合っていて、そして級友との交流を再会させたことで刺激をもらい、少しずつ、少しずつ、前を向けるようになった。


「えっとさ……」

「ん?」


 スプーンを咥えたままの状態で渚が喉だけ鳴らして疑問の目を向ける。僕に一気に緊張が高まる。

 正直に言えば大切な人を失うことの怖さはまだある。しかしその恐怖心よりも彼女がいない虚無感が徐々に肥大してきた。そんな半年だったと僕は理解している。だから言った。


「ここじゃダメ?」

「……」


 渚はその大きな瞳で真っ直ぐ僕を見据えたまま表情をなくした。スプーンは咥えたままで、咀嚼も止まっている。


「あの……、おじさんと渚のお母さんにはちゃんと僕が頭下げるから」

「……」


 相変わらず表情が変化せず動かない渚なのだが、心なしか目が潤んでいるようにも感じる。おじさんとは僕の実家と交流があった渚の父親のことである。


「渚との生活が僕は好きだし、何より渚のことが好きだから」


 そこまで言うと渚の目から一筋涙が零れた。そしてついに泣き出した渚はその可愛い顔を歪ませ嗚咽を含みながら、咀嚼もままならない口調のまま答えた。


「もう、ずっと待ってたよ、その言葉。遅すぎだよ。なんで今言うのよ。もっとロマンチックな時に言ってよ。私、口の中が台無しじゃん」


 こんな時まで渚から咎められる自分に僕は苦笑いを浮かべながらも、やっと前に進める自分がなんとなく誇らしくて、心を縛っていた鎖が解けたように随分と身が軽くなった。


 僕は真緒のことは忘れない。けど、渚と一緒に幸せになる。これが僕の新たな生活の始まりとともに生まれた決意だった。

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潮風と山颪 生島いつつ @growth-5

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