第30話

 家に帰って来た頃には辺りは薄暗くなっていて、僕と渚の帰りを待っていたじいちゃんは台所にいたのだが、なんとじいちゃんは夕飯の用意を済ませていた。


「おじいちゃん、作ってくれたの?」

『あぁ、少しは体を動かさんとな』

「ごめーん。ありがとう」


 少し得意げに笑って言うじいちゃんに渚が恐縮ながらも礼を言うのだが、その声はどこか弾んでいる。それもそのはず。台所の食卓には豪華なまでに色とりどりの料理が並んでいた。

 鮮やかに色づいた数種類の刺身に、魚の吸い物。そして庭の野菜をふんだんに使った肉料理など、じいちゃんが張り切って作ったことが如実に表れている。


『どうだ? 楽しかったか?』


 食事が始まると何気ない食卓での会話を噛み締めるように楽しむのがじいちゃんで、腰が快方に向かっていることを感じてここでの食事に切り替えさせたのは、一人暮らしのじいちゃんに対して正解だったと思わせる。


「うん。凄く楽しかった」


 そして声を弾ませて答える渚はこの席の華であり食卓の会話を盛り上げる。じいちゃんはその様子に目を細めて聞いていて、微笑ましそうに顔を綻ばせている。


『ちょっとは良い仲になったか?』


 その問いに対して、吸い物を口に運んでいた僕は噴きそうになったのだが、まったく動じないどころか、真っ直ぐに答えるのが渚である。


「今口説き中。もうちょっとで落とせそうなんだけどな」

『ほう。渚がテルを追う方か。離さないようにしっかりな』

「もっちろん」


 軽口で話す渚ではあるが、先ほどまでの出来事から気持ちまで軽いなどと疑うことは不可能だ。だからこそ口を挟むにもなんと言ったらいいのかもわからずただ聞いているだけで、僕の耳は熱を帯び、熱い吸い物と夏の暑さも相まって体が火照るのを感じる。

 思い出されるのは灯台での出来事。渚の唇の感触と、真緒を忘れなくてもいいと言った渚の寛容な言葉。葛藤は多大に残っているのだが、それでもその言葉は幾分僕の心を軽くした。


「怖いんだ……。また失うのが」


 だからだろう。じいちゃんが寝静まった後の二人きりの居間でこんな気持ちを吐露することができたのは。この恐怖を口に出して人に言ったのは初めてだった。渚はただ真っ直ぐに僕を見てその言葉を聞いてくれた。

 しかしここでの生活が終わるまでに僕の気持ちは整理できるまでには至らず、結局渚の気持ちに応えることはできなかった。ただ恐怖を吐露した時の僕に、渚から返された言葉は僕の脳裏にずっと残ることになる。


「私は健康だよ。絶対輝君を一人にさせないから」


 僕が怖がる別れの意味、つまり失うことの恐怖が恋人同士の破局ではない命の意味であるということを渚は理解していた。




 時は進み、僕と渚は同じ便の飛行機で島を後にして、それぞれの居住地に帰った。八月最後の日である。夕方には自宅に帰って来られたので、荷物の片付けもほどほどに、僕はすぐに出掛けたのだ。


「真緒、向こうの墓にキーホルダー納めてきたよ」


 僕が来た先は墓地で、櫛木家と書かれた墓石の前にいる。真緒はここに眠っている。真緒から託されたキーホルダー。宇多村家の墓に入りたかったと手紙に書いた真緒。僕はそれが真緒の遺言であると信じて疑わず、真緒の思いが乗ったキーホルダーを島の宇多村家の墓に納めてきた。


「これで良かったんだよね……」


 それは自信がない気持ちの表れだ。そんなことをして本当に良かったのか、行動に移してから不安になるのが僕で、縋るように真緒に問い掛ける。


――テル、私を島に連れて行ってくれてありがとう――


 山の麓に位置しているこの墓地に一瞬強い風が吹いた。山颪だろうか。その風に乗って真緒の声が聞こえたような気がした。信じている。僕のしたことは世間一般的に非常識なことだったのかもしれないが、真緒の気持ちに応えられたのだと、今耳に届いた声を胸に僕は信じていくと決心できた。


「水臭いじゃん」


 僕は聞き覚えのあるその声にはっとなった。声の方向に振り向くとそこには砂利を踏み鳴らして歩いてくる弘志の姿があった。手には花を握りそれを肩に担ぐようにしていて薄ら笑みを浮かべている。そして弘志に続くように淳と環菜も一緒にいた。


「な、んで……」

「今日帰ってくるって聞いたから、絶対ここに来るだろうなって思ってたのよ」


 健やかな笑顔で言う環菜を久しぶりに見るのだが、髪形がボブに変わっていてその姿を目にした時にはすぐには環菜だと気づかなかった。髪形が変わったのは弘志も同じで、ずっと短髪だった彼は眉よりも前髪を長くしている。


「集まる前にここ来るなら誘ってくれるかなと思って期待してたんだけどな」


 そう言う淳は高校生の時からあまり変化がないように思う。そう、この日は僕の帰宅に合わせて四人で集まって飲みに行く約束をしていたのだ。個々とは連絡を取ったり会ったりしていた僕だが、その僕が一同に会することを拒んでいたため、こうして集まるのは真緒の葬儀以来実に四年ぶりなのだ。高校在学中も各々クラスは違ったわけだし。


「僕の行動はバレバレか」

「そりゃ、真緒の命日にこっちにいなかったんだから、帰って来てすぐここに来ると思ったよ」


 苦笑いを浮かべる僕に、少し得意げに言う環菜は年相応にして美人になった。僕はこの中で環菜が一番久しぶりに会う。尤も、僕以外の三人は不定期ではあるもののそれなりに集まっていたようだが。


 この日集まる約束をしていたのは淳からの連絡だった。島で渚に迷惑をかけたあの出来事、つまり、僕が何も言わずに勝手に家を出た日にあった連絡だった。淳からの不在着信を僕は翌日になって折り返しの連絡をしていて、その用件がこの日の予定の提案だったのだ。

 飛行機の時間は淳に伝えてあったので、都合よく僕がここにいる時間帯に三人が現れたことにも納得である。


「嬉しいよ、また五人で集まれて」


 僕の隣で墓石に向かって手を合わせた淳は目を開くとしみじみとそう言った。そう、淳は五人だと言った。目の前に真緒もいる。真緒も数に入れてくれている。その認識が僕は嬉しく、また弘志も環菜も同じ気持ちを持ってくれているのだと信じて疑わない。


 場所を予約してあった居酒屋に移すと、久しぶりに会う友人達との会話は盛り上がり、話の内容は大学のことと就職先のことがほとんどであった。居酒屋の個室でテーブルを囲んだ僕達四人はほとんどの料理を平らげていて、今手元にあるのは数点の小鉢と飲みかけの酒ばかりだ。

 賑やかな店内ではあるものの、個室にいる僕達も負けじと話が盛り上がっているので、周囲の声量は気にならない。むしろ視覚的にもこの輪に集中できるので個室であることは幸いかと思う。


 各々のプライベートはと言うと、弘志と環菜はそれぞれ交際相手がいるそうだ。淳は高校生の時にできた彼女とは卒業前に別れてしまい、大学生になってから別の彼女ができたそうだが、その彼女とも最近別れてしまい今はフリーなのだとか。


 島から帰って来てこのメンバーと顔を合わせた僕は久しぶりに心から笑えているような気がする。長かった。ここに至るまで四年もかかったのだから。それでも見捨てず構ってくれた三人の親友に僕は感謝しかない。


「テルはどうなの?」


 少し酔いも回って頬を赤らめた環菜が話を振ってくるその意図は、考えるまでもなく僕の色恋事情を聞きたいのだろう。環菜には大学生になってから一度辛い思いをさせてしまったことが回想され、心苦しくなる。


「まだ、かな……」

「そっか……」


 環菜が傷口に触れたような罰の悪そうな顔をするので、僕はそれが申し訳なく、言葉を繋いだ。


「けど、少しずつ、少しずつ。……かな」

「そっか」


 それを聞いて安堵の表情に包まれる環菜。それを見て僕まで安堵し、またそれは弘志と淳も同様のようであった。


 夜も更けると賑やかな居酒屋を出て僕達は帰路に就いた。途中までは四人一緒に歩いていたのだが、途中から自宅の方向の関係で二人ずつに分かれ、僕は淳と一緒に帰っていた。

 この年最後の夏の夜は穏やかな風が吹いていて、蒸し暑い夜更けにも少しばかりの心地よさを感じさせてくれる。車のヘッドライトや街の明かりは都会と言わないまでも都市部の様相を示していて、それは島にはない明るさであった。


「少しずつでいいからな」

「え?」


 ぽつりぽつりと雑談はしていたのだが、唐突にそんなことを言うものだから僕は間抜けな声を出して淳を見た。


「大丈夫、逃げて行かないよ。ゆっくり整理しろ」

「どういうこと――」

「じゃ、俺、こっちだから。またな」


 淳は僕の言葉もろくに聞かず分かれ道でそそくさと手を振って背中を向けた。僕は淳の言っている意味が今一わからず、肩をすくめた。

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