第29話

「夕方までいない?」


 傾き始めた昼下がりの日を浴びた渚が言うと、真っ直ぐに僕を見るその大きな瞳がとても幻想的だ。清潔感のあるノンスリーブのワンピースは日の光と合わせてその少女をより一層引き立てる。


「じいちゃんは?」

「電話しておこう」


 そう言ってすぐに携帯電話を取り出した渚は、早速じいちゃんに電話を掛けた。キャリアによっては圏外だが、渚の携帯電話は生きているらしい。ここから家まで約一時間かかるが、じいちゃんも動けるようになったわけだし、少しくらい帰りが遅くなってもいいかと僕は納得した。

 だから僕は渚と夕方までここにいた。渚が一向に手を離す様子がないので、手は繋いだままで、ただ海を見ながらずっとたわいもない会話をしたのだ。


「綺麗……」


 何時間も同じ場所で一緒に過ごした僕達を迎えた夕日は真っ赤で、この美少女を真っ直ぐ照らしていた。

 目を細めた渚が手を離して一度僕を向くので、僕は渚に見惚れていたことに気付き慌てた。渚は手にハンカチを持っていて僕の目よりも少し上辺りをじっと見ていた。そしてハンカチを持った手を僕の顔に伸ばしたので、ゴミでも付いているのだろうかと僕は反射的に目を閉じた。

 すると優しく両頬を包まれ、片方はハンカチの感触であり、それに気づいた瞬間、僕の頬に、いや頬からほんの少しだけ唇を掠める範囲に柔らかな感触を受けた。目を閉じてはいたがそれは紛れもなく渚の唇の感触だとわかり、しかし抵抗することもできず、僕は黙ってそれを受け入れた。


 柔らかな感触が離れたことがわかったのでゆっくり目を開けると、頬を紅潮させながらも上目遣いで真っ直ぐに僕を見る渚が踵を下ろしていた。少し踵の高いミュールが地面を鳴らす。

 その時初めて渚は背伸びをしていたのかと気づいたのだが、こんな時にそんなことしか思考が及ばない僕はどうかしていると思う。


「輝君」

「はい……」


 耳まで真っ赤にした渚の表情はとても真剣で、それこそ僕が見た中で一番の渚の強い思いを感じる。今から渚の強い気持ちがその愛らしい口から放たれるのだと容易に予測ができ、目を逸らしてはいけないと思う僕は随分と畏まっている。

 しかし渚は自分の気持ちを口にするよりも先に僕に抱き付いてきた。さすがにこれには戸惑いしか覚えず、拒否する意思も、受け入れる意思も持ち合わせていない僕は何も返すことができず、ただ口元で渚の綺麗な髪を感じるのだった。


「輝君の中に真緒さんがずっといてもいい」

「え……」


 これは意外な言葉であった。僕は自分が持つ価値観から、その想いを抱いたまま渚にも好意を向ける自分が許せなくて、情けなくて、けど真緒にもらった手紙から真緒のことを忘れるわけにもいかず、これらが僕をずっと縛り付けていたのだから。


「私はそれでも輝君のことが好きだし、それでも、輝君を求めてる」

「なぎさ……」

「私の恥ずかしい勘違いでなければ、輝君も私に同じ気持ちを持ってくれてるんじゃないかって、心のどこかで期待してる」


 渚のこの読みは紛れもなく正解であり、やはり僕は渚に対して彼女に抱く好意を隠すことはできていなかったのかと痛感する。しかしこれは後悔ではないような気もするし、そうかと言って気づいてくれたことへの喜びも感じない。何とも表現しがたい複雑な感情で、僕は返す言葉が見つからない。


「その無言は肯定と捉えていいの?」

「……」


 僕の胸の中で問い掛ける渚に僕は再び無言を返すのだが、つまりこれは渚が言うように肯定である。もう渚に対して隠すことができないほどの気持ちを抱いているのだと、自分で自分に通告しているのだ。


「待ってるから、輝君の気持ちが整理できる日を」

「え……」

「この生活もあと一週間を切ったけど、この島を離れてからもずっと待ってるから」


 表情が見えない渚だが、この声からは強い意思を感じる。一時的な渚との共同生活ではあるのだが、それはひと夏の恋などと軽いものではなく、僕はこれほどまでに自分を見つめ直してきた。真緒が死んでからこれほど真緒の死と自分に向き合ったのは初めてだ。


「夕日、綺麗だね」


 そう言いながら僕の胸から離れた渚は目を細めて再び夕日を向いた。今まで胸の中にあった渚の感触がなくなったことが些か寂しくも思うが、しかしやはり真っ赤な夕日に照らされた渚は美しく、それを目の当たりにしていることに僕は恵まれていると思わなくてはならないようだ。


「この夕日は私の一生の宝物だな」

「そこまで言ってもらえるなら来た甲斐があったな」


 この会話でやっと僕の脈拍は正常に戻りつつあったようにも感じる。いつもの雑談をする時の渚との距離感を、この綺麗で大きな夕日を拝みながら保っているのだから。そして夕日に照らされた渚は清々しく晴れやかな表情をしている。


「本当、来た甲斐あったね。私の人生初告白を後押ししてくれたんだから」

「え?」

「こないだ輝君の部屋で言ったことはノーカウントね。このロマンチックな雰囲気で言えたことを初めてのカウントにしたいから」


 茶目っ気を含むその渚はどこか照れているようにも感じるが、僕が上げた疑問の声の真意ではそこではなくて、渚が告白というものを初めてしたと発言したことにあった。


「初告白なの?」

「そうだよ。て言うか、人に恋したのも初めて」

「……」


 僕は言葉を失う。渚の初恋であったのかと、そしてその相手が僕なのかと、それを告げられて驚きを隠せない。その事実に恐縮ばかりなのだが、とは言えどこかに高揚する自分もいて、それが滑稽であり現金だと己を戒める。


「普段の私はね、いつも気を張ってるんだよ」

「どういうこと?」


 これは灯台を後にして帰路に就いている時の会話だ。あまり遅くなり過ぎてじいちゃんを待たせるのも申し訳ないので、帰ろうという話になり、今僕はハンドルを握っているわけだ。先ほどまであれほどの美しさを表現していた夕日は、軽トラックのサイドミラーに映り込み運転を阻害する敵となっていた。


「要は学校でもいい子ちゃん、家でもいい子ちゃん。それを演じてるの」

「そっか」


 渚の学校の成績がいいことはこの島に来てすぐに聞いた。そして親からは大学に進むように言われていることもその時に聞いた。しかしそれは渚にとって重圧でしかなかったのかとこの時の渚から読み取れた。


「そういうのから逃げたくてこの夏はこの島に来ることを買って出たんだけどね、そしたら予想外にここの生活が楽しいから困っちゃって。おじいちゃんも輝君も私を素でいさせてくれるんだもん。今では、ずっとこの三人で暮らしていけたらなぁ、なんてことまで思うよ」

「恐れ多いな、これほどまでに可愛い子がそう言ってくれて」


 その瞬間、バッと音を立てて渚がこちらを向いたことがわかったので、僕はちらりとだけ渚を見たのだが、その大きな瞳が見開いていた。


「今、なんて?」

「え? だから恐れ多いって――」

「違う! その後!」


 渚の口調が強いので気圧されるのだが、僕は前を見て運転をしながらも数秒前の自分の言動を思い起こす。すると途端に耳が熱くなった。何気なく言った一言だったのだが、よもくまぁ、僕の口から出たものだ。しかし、渚がまだこちらから目を離す様子が感じられないので、どうやら僕は渚の質問から逃げられないようだ。


「えっと、だから、可愛いって……」

「――えへへ」


 一瞬間があったのだが、その後すぐに渚がはにかんだのでより一層僕は照れてしまう。


「それ、好きな人に言われると全然違うね。凄く嬉しい」


 噛みしめるようにそう口にする渚には今まで男がたくさん寄って来ただろうし、そういう言葉で口説かれてきたのだろうと理解するのは容易で、それは僕にとって口に出すには恥ずかしい言葉であるものの、それでも喜んでくれたのなら報われる。そして「私の勘違いでなければ――」と前置きをした上で渚が話を続けた。


「輝君もこっちにいる時は自然で、自分が出せてたんじゃないかと思ってた」


 その一言に心臓が跳ねた。しかし安全運転をしなくてはならない僕はしっかりとハンドルを握る。言われて初めて気づくが確かに渚の言うとおりである。渚は「この島でしか輝君を知らないのに、私って生意気だね」なんて言葉を繋げるが、そんな野暮な感情は抱かない。

 僕がここまで自然でいられたのは人生二人目で、そうさせてくれる渚は真緒と重なり、それこそ僕が渚に惹かれた一番の要因だと切実に納得させらた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る