第28話
渚は終始ご機嫌な様子で助手席に収まっていて、小学校を出た僕達は昼食のために個人経営の定食屋に入った。座敷の六人掛けの席に通されたのだが、他に客はいないようで、悲しくも寂れていると言える店である。建物は内外装ともに古い感じの店だが、反ってそれは趣を感じさせる。
僕達は小学校から見て家とは反対方向に進んでいて、近くには昔映画の撮影にも使われたことのある小さな砂浜があるのだが、そこは一帯となった漁港の一部で、店の中まで漁船の音が聞こえてくる。小学校に寄らずに真っ直ぐここに来ていれば、家から四、五十分と言った距離だ。
「今日の定食って何ですか?」
渚がメニュー表から一度目を離すと店の女将に聞いたのだが、その渚は目を輝かせて壁に掛けられた「日替わり定食」の札を見ている。
『今日はアジフライ定食だね』
「へぇ。今旬なんですか?」
『ちょっと旬は過ぎたけど、まだまだ美味しいよ。あんたらこっちの人じゃないのか?』
強い訛りの方言で話す女将との会話すらも楽しんでいる渚は、雑談を挟みながらもその流れで日替わり定食を注文したので、僕もそれに倣って同じものを注文した。しかし女将が離れると渚は笑顔ながらも膨れたような声で僕に文句を言ってくるのだ。
「輝君は別のにすればいいのにぃ」
「なんでだよ?」
「おかずの交換できたじゃん」
なるほどな、と納得はするものの、それは女将が離れる前に言ってほしかった。今更呼び戻すのも億劫なので、僕は言葉を返すことなく渚のその少し膨れた笑顔をクスクスと笑って見つめるのだ。それでも渚は本気で拗ねているわけではないので、僕は渚が楽しそうにしている様子に心が晴れる。
注文の品が来るまでは渚がよく話し、僕がそれに相槌を打って一言二言付け加えるという時間を過ごすのだが、渚がそこからまた話題を広げるので話好きの渚の性格がよく表れている。これはドライブ中の車内と然して変わりはない。
正面に座る渚はノースリーブのワンピースから伸びるすらりとした腕と、露わになった肩が艶やかだ。この明るい性格に加え、容姿やスタイルの良さが男を惹きつけるのだと納得しつつ、それは僕を魅せた渚の一つでもあるのだと実感する。
『はい、お待ち』
やがて運ばれてきたアジフライ定食に「美味しそう」と目を輝かせる渚。そんな渚を見ていると、この無垢な笑顔と人懐っこくて懐深くまで入ってくる渚の人柄に僕は惚れたのだと自覚する。そう、僕は渚に惚れている。その気持ちはもう疑いようがない。
「輝君、食べよう?」
「うん」
「いただきます」
僕と渚は揃って発声をするとまず渚がアジフライにソースを垂らし、僕に手渡してくるので僕もソースを垂らした。渚はその様子を見て待っていたので、僕が箸でアジフライを上げる動作に合わせて、渚も同時にアジフライに噛り付いた。
「美味しい」
渚が咀嚼をしながら目を細める。アジフライの衣はサクサクで、中はふわふわだ。アジの旨味が口いっぱいに広がり、それは僕を魅了した。これで旬を少しずれているのかと感動するのだが、同時に旬だともっと美味いのかと興味を魅かれる。
昼食を終えて再び軽トラックを走らせると少しして海岸線に出た。道路の両側とも崖地になっていて沿岸部と内陸で高低差のあるこの島は、開け放たれた軽トラックの左手の窓から海上の強い潮風が吹き込む。
それでもエアコンの調子が悪いこの車で窓を開けないことは自殺行為に等しく、だから窓を開けているわけだが、前を向いて運転していても助手席の渚の髪が暴れていることがよくわかる。
「うおぉ、風強ぉい」
渚が窓の外の海に向かって声を張ると、その様子がとても愛らしく感じ、何だか温かい気持ちになる。幼少期は危ないからあまり車窓から顔を出すなと親に注意をされたものだが、渚のその様子は微笑ましく、海原の広がるその方向には危険物どころか、広大な海の景色しか確認できないので渚の思うままにさせた。
その渚の声に呼応するように、海上を飛んでいる海鳥の泣き声が返ってきて、また崖地に強くぶつかる波の音がそれら全てをまとめ、この島ならではの音を奏でている。ただ勾配や曲がりがきついこの道でミッション車の運転は忙しく、エンジンブレーキのけたたましい音が阻害するのは些か残念に思う。
「あ、輝君。看板出てる」
渚が声を弾ませて窓の外に腕を伸ばし指さす先は、この島で有名な灯台を示す道路看板だ。島の西端に位置する突き出した地形の両側は断崖絶壁になっていて、そこにそびえる大きな灯台は凛々しい。
この島の観光名所にもなっている灯台だが、八月も終盤の平日に訪れる人は少なく、山道ですれ違う車は数えるほどだ。
山道を登り切り、十数台が停められる駐車場に軽トラックを入れると、そこからは徒歩だ。島とは言え断崖の山。ハイキングなんて生易しいものではない獣道の登山を約二十分する。
息を切らして海岸沿いまで出ると一気に開ける。両側が絶壁になっているこの場所は遊歩道が敷かれていて、この高低差が恐怖心を煽る。更に灯台に向かって急な下り坂や階段になっているので、五十メートルほどの幅がある地形にも関わらず思わず足が竦む。
思ったより風を感じないのは先ほどまでが走行する車内にいたからだと納得するが、風に煽られるわけでもないのにやはりこの高低差は心臓に悪く、渚が僕の手をしっかりと握ってきた。
「ごめん、ちょっと怖いから」
「あ、うん」
「嫌なら言って」
お互いの手が触れた瞬間からぎこちない雰囲気が生まれて、それを嫌ったと思われる渚が遠慮がちにお伺いを立ててきた。もちろん僕は渚の恐怖心を突き放す気もないし、その恐怖心が計算づくの演技だなんて捻くれた思考も持ち合わせていない。僕はしっかりと渚の手を握り返して、狭い歩道で縦並びに歩けるようその手を背中に隠した。
「嫌じゃない」
「良かった」
正面と両側の景色が広大に開放された遊歩道で、歩を進めながら渚は安堵の声を漏らした。渚のその様子がどうしても僕の胸を締め付けるような高鳴りを与えてくるので、思わず渚を抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、僕は渚の気持ちに応えることができなかった身であり、やはり心にもう一人いるのは今後も変わらない。自分が渚に抱く感情さえも自己嫌悪を強める以外の何ものでもなく、僕は渚の気持ちに応えられなかった心苦しさを抱える。
窪んだ形状の遊歩道を過ぎると今度は上りで、それを過ぎて僕と渚は灯台まで辿り着いた。灯台は中には入れず周囲が柵で囲われている。その狭い平地で渚は未だに僕の手を離そうとしない。断崖絶壁は相変わらずだが、もう心的に安全と思える場所にも関わらず、渚のその行動に彼女の想いを感じる。
一方僕はと言うと、このまま手を握っていていいのかという葛藤が腹の中で渦巻くわけだ。渚を期待させていいのか。いや、その考えこそが僕の傲りであり、僕はこのまま渚の柔らかさに甘えていいのか。どれだけ考えても答えの出ない疑問と感情が、どろどろと僕の中で沈殿していく。
「すごーい。良い景色」
灯台をすぐ背後に、柵から身を乗り出して潮風に髪を靡かせる渚は遠くの海を見る。僕の視界に広がる海とそこに浮かぶ群島を背景にした渚の横顔が魅力的で、そのパノラマはより僕の胸を締め付ける。
断崖にぶつかる波の音は車内にいる時から変わらず、それは海鳥の鳴き声と混じり合っている。一度足元を見下ろせば、崖の際だけ泡立った海水が白の着色を施していた。
「ここ夕日が綺麗なんだよね?」
「よく知ってるな」
「うん。ネットで調べた」
後になって思えばこの渚の切り出しは僕を想うが故の打算の始まりだったのだかもしれない。けど僕にこの時の渚を恨む気持ちは全くなく、むしろより一層渚への気持ちを強めた。
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