第27話
この島での生活も残すところあと一週間を切った。良く晴れた朝ではあるが、昨日が大雨だったため、開け放たれた台所の窓からアスファルトの濡れた匂いが届く。セミの鳴き声も聞こえてきて、それらは朝の台所に充満する朝食の香ばしい匂いと音に混じる。
すると台所の朝食の席まで歩いてきたじいちゃんを見て僕と渚は驚いた。じいちゃんは猫背に腰を屈めながらも、一人杖なしで歩いてきたのだ。
「ちょ、おじいちゃん。杖も持たずに大丈夫なの?」
『大丈夫だ。なんのこれくらい』
渚に答えたその方言が強がりなのか、本当なのか、それを見極めようと僕はじっとじいちゃんを見ていたのだが、それほど動作も遅くなく、じいちゃんは自力で席に着いた。どうやら腰の回復具合は順調のようで、漁はともかく、日常生活は一人でも送れそうな様子に僕は安堵する。
『昼飯も一人でやれるから、たまにはお前ら一日遊んできたらどうだ?』
これは朝食が始まった席で僕と渚に向けたじいちゃんの言葉なのだが、老婆心が含まれているように感じて居たたまれない。渚はやや不安げな表情をじいちゃんに向けて、一度箸を止めつつもゆっくりと咀嚼した。
「本当に大丈夫なの?」
『なんかあったらどっちかにすぐ電話するさ』
海水浴場に行った日など、半日二人して家を空けたことはあったが、日中丸一日家を空けたことはない。一抹の不安が拭えないのが正直なところではあるが、それでも元気そうなじいちゃんを見ていると何とかなるかという気にもなる。それはどうやら渚も同じようで、その渚は遠慮がちに僕に向いた。
「輝君、いい?」
どうする? ではなく、いい? と聞いてきたことに渚の期待が読み取れる。ここで突き放すほど僕は子供ではないと自覚しているし、渚の気持ちを知りつつも何より渚に僕の気持ちは伝えた。僕は渚が過度な期待まではしないと信じて答えた。
「うん、行こう」
「やった」
できるだけ穏やかな表情と口調を意識しては答えたものの、じいちゃんもいる席でここまで声を弾まされると些か恥ずかしくもある。じいちゃんは不敵とも取れるような笑みを浮かべて味噌汁を啜るものだから、どうやら僕達はじいちゃんの老婆心を満足させてしまったようだ。
それでもせめてじいちゃんの負担が軽くなるようにと、昼食のおかずを用意するのが働き者の渚だ。朝食を終えるとすぐに渚が取り掛かったので、僕はその渚をサポートしようと皿洗いは買って出た。そんな朝の流れを経て僕と渚は一緒に家を出たのだ。
朝食時の部屋着と装いを変えた渚は、淡い色のワンピースに少し踵が上がったミュールを履いている。薄く化粧もしているようで、ファンデーションと艶のある口紅が彼女の魅力を一層引き立てる。綺麗なセミロングの髪は真っ直ぐに下ろしていた。
明らかにめかしこんでいる渚を見て、僕は自分がみすぼらしい格好をしていないかと不安になったので、一度身なりを確認した。Gパンではあるものの小奇麗かと思うし、シャツはVネックの物を着ていて靴も革靴だ。最低限合格ラインだろうと自分に言い聞かす。
僕はじいちゃんの軽トラックの運転席に身を収め、カチャッとシートベルの音を確認すると、助手席に乗り込んだ渚に問い掛けた。
「行きたいとこある?」
「基本的には輝君のエスコートにお任せなんだけど……」
顎に人差し指を当ててその大きな黒目を上に向ける渚はどこか楽しそうである。エスコートと言う時点でこれがデートであると渚は認識しているようだし、その認識は僕にもなくはないので敢えてそこは言及しない。渚は言いかけた言葉を繋いだ。
「輝君が入学した小学校には行ってみたい」
「え? 学校に?」
意外な場所をリクエストされて少し驚いたのだが、渚は顔から手を離すと柔らかい笑みを向けてくれた。既に運転席と助手席の窓は全開にしてあって、潮気を含んだ空気が流れ込んでくる。
「うん。だめ?」
「いや、全然いいけど。夏休み中だから閉まってたら中には入れないよ?」
「うん。外から見るだけでもいいから行ってみたい」
そう言う渚は実に楽しげで、それが相応の若々しさを引き立て、不覚にも僕の胸が弾む。ただ、自分の気持ちを自覚しながら渚の気持ちに応えなかったのは僕なので、そんなことは許されないと心の中で自分を戒める。
僕は渚もシートベルトを締めたことを確認するとエンジンをかけ、シフトレバーを操作した。走り出した軽トラックには先ほどまで感じなかった風が入ってきて、強い日差しとセミの鳴き声と潮気がこの島の夏を感じさせる。
これがもしもう少し洒落た車なら文句もないのだが、ここでの生活はこの軽トラックが移動の基盤なのでその不満は飲み込む。言い方を変えれば渚と出掛けるにも乗り物はこの軽トラックだけなので、もう当たり前のことだ。だから自然なことだと感じなくはない。
歩くと児童の足で一時間以上かかる小学校は、車で走ると二十分もかからず到着する。道中は畑か林ばかりで、海からも少し離れていて、磯の香りは感じない。途中、片側一車線の一本道があるのだが、そこは少し坂になっていて、すぐ近くのはずの坂の頂上はアスファルトの地平線のように錯覚する。
エアコンが不調の軽トラックの車内で、全開の窓から吹き込む風は心地よく、僕の前髪は持ち上げられている。在学当時はよく道草を食ったもので、ぽつりぽつりと民家はあるものの、遊べるような場所はなく、その道草は専ら林の中に探索に入ると言ったものだ。それを渚に話すと渚は興味深そうにこちらを見た。
「こんなに遠いのに道草食ってたの?」
「うん。小学校一、二年の時だよ? 周りに気を取られて真っ直ぐは帰らないって」
「ふーん」
ここで一度会話が途切れると、渚は開け放たれた窓の外を向いているようだが、ハンドルを握っている僕は残念ながら渚の靡く髪しか視界に捉えられない。風を顔で受ける今の渚の表情はさぞ魅力的なのだろうと想像するが、脇を見るわけにいかないのが何とも残念である。
「着いたよ」
「へぇ、ここが輝君の通ってた小学校なんだ」
「まぁ、入学から小二の途中までね」
小学校の脇に軽トラックを停めて渚と二人して降りたのだが、僕の視界に映る小学校はこんなにも小さかったのかと、懐かしさよりも違和感の方が増す。それは僕の身と心が成長する過程でできた隔たりなのだと理解できるが、それはそれで故郷を遠くに感じさせるので物寂しい気持ちが残る。
塗装がボロボロに剥がれたスライド式の校門は閉まっていて、手前の円形屋根の体育館は窓の曇り具合から歴史を感じさせる。奥に立つ2階建ての鉄筋コンクリートの校舎はもっと広かったように思うが、随分と小さい。僕が在学当時でも一学年の児童が二十人に満たなかったのだから、今でこそその広さには納得ができるのだが。
校舎の脇には音楽室や保健室が入っていた木造平屋の建物があったのだが、その建物はもうなくなっていて、校舎の前面には運動場が広がる。この運動場も狭く感じる。遊具は木製がほとんどで、所々古タイヤが埋め込まれた遊具もあるのだが、いずれも塗装が剥げていてみすぼらしい。
「小さな学校だね」
校門に手を掛けて少しだけ身を乗り出すように運動場を覗く渚は目を細めている。僕はこの光景を真緒でずっと妄想してきたはずだ。しかし不思議と残念な気持ちはなく、僕のイメージに渚は自然と溶け込んでいた。
「今では児童の数も減って複式学級だって言ってたな」
「そうなんだ」
過疎化と少子化で今ではこの小学校に児童は一学年あたり一桁の人数しかいないと聞いている。僕も島を出た身ではあるものの、その事実はやはり寂しく思う。
運動場の砂埃が舞っているようにも見えるが、それは僕と渚が立っている場所までは届かない。その砂に紛れるように校舎が遠く感じて、それはこの島から離れた僕が故郷を遠くに感じる感情と重複する。
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